ep.9 日曜の星
ごく普通の高校生活を送っていた相川蓮。
しかし「未来を垣間見るような違和感」に悩まされ始めたとき、隣に現れたのは親友・小田切翔の軽やかな笑い声と、転校生・篠宮彩花の静かな視線だった。
平穏と非日常の境界線が揺らぐ教室で、三人の言葉が交差する。
それは友情か、恋か、それとも――もっと暗いものか。
誰を信じ、誰を疑うのか。
ほんの小さな選択が、未来を決定的に変えていく。
第九話 日曜の星
駅前
日曜の駅前は、平日よりも呼吸が深い。ガラス越しのパンに湯気が薄く貼りつき、花屋のワゴンからラベンダーの香りが溶け出している。時計台の下で一度息を吐いたところへ、背中から静かな声。
「相川くん」
振り向く。篠宮さん。薄いグレーのシャツに紺のスカート。色数は少ないのに、輪郭だけがはっきりして見える。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶のあと、ほんの一拍の沈黙。スピーカーが時刻を告げ、白い鳩が階段の影からふわりと飛び立った。
「今日は、どこに行くの?」
「秘密にするって言った」
「……うん。でも、“見えた”から」
自分で言いながら、胸の中の小さな針がひとつ鳴った。
「星、でしょ」
「……やっぱりね」
篠宮さんは、驚かない。知っている人の顔で、淡く口角を上げる。
「どう見えたの?」
「ホームの鉄の匂いの先が、急に暗くなって、頭の上で丸い天井。光が点で立つ感じ」
「言い方が具体的。たぶん当たり」
彼女は小さく頷き、視線をホームへ滑らせた。
「“偶然”って言わないんだね」
「もう、二人で決めたでしょ。名前はつけないけど、あるものはあるって」
「……そうだな」
改札を抜ける。入線する風が足もとを撫で、紙くずが一枚、線路の方へゆっくり転がっていった。
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車内
日曜の車内は、話し声がやわらかい。向かいの子どもが抱える紙袋に、星のマークが覗く。
「ここ、何度か行った?」
「うん。ひとりで」
「暗いのが、落ち着く?」
「目を開けたままの暗さは大丈夫。目を閉じる暗さは、広がりすぎるから」
僕は頷いて、窓の外の流れる看板を追い、それから彼女の横顔へ戻す。
「今日は、“見える”のが早かった」
「駅に着く前から、なんとなく。合図みたいに、胸の内側で小さな点が灯って」
「灯ったら、信じる?」
「半分は信じる。半分は、君に確認する」
「賛成」
ポケットの中でスマホが震えた。翔から。
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(相川、青春は足で稼げ
午後は試合動画見る。お前は成果を見せろ)
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思わず笑ってしまい、篠宮さんが横目で見る。
「小田切くん?」
「うん。……相変わらずだ」
「相変わらずで安心」
短いやり取りで、車内の時間が少し整う。
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プラネタリウム
小さな施設。二階のロビーは青い絨毯で、係員の声が低く響く。半円のドームに入ると、背もたれが静かに肩甲骨を受け止めた。
「もうすぐ暗くなる」
「目は開けてる」
解説の声が、儀式みたいな言葉で始まる。
『では、昼間の星空を消していきます』
照明が静かに落ち、白が紺になり、紺が黒へ沈む。細い針のような光が一つ、また一つ。気づけば頭上は、遅れて届く時間で満ちていた。
「……きれい」
暗闇のなか、ひじ掛けで指先がかすかに触れた。離れなくてもいい距離に、自然に落ち着く。
『いま見ている光は、過去からの手紙です──』
解説が“光の遅れ”を語る。僕たちの上に降る遅延した手紙たち。いまこの瞬間を形づくる、遠い“かつて”。
息を吸うと肺に冷たい空気が満ち、考えが静かに並ぶ。
「相川くん」
「うん」
「君が“見える”とき、怖い?」
「ちょっと。……でも、君がいると、怖さの輪郭が丸くなる」
「それでいい。私も、名前をつけない怖さは、二人で薄めたい」
しばらく、言葉を置かない。星座線が柔らかく結ばれ、線と線のあいだに、見えない図形がゆっくり立ち上がる。
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喫茶店
上映が終わると、街の灰色に戻る。角の喫茶店の扉を押すと、コーヒーとバターの匂い。椅子は木で、音は鈍く、時間が遅い。
「ここ、静かで好き」
「音が選ばれてる感じがする」
窓際。ネルの雫が一滴ずつ落ちるのを眺め、やがて二つのカップが置かれる。
「ブラック、平気?」
「平気。篠宮さんは?」
「好き」
唇に触れる苦さ。舌の奥に少し甘い香りが残る。
「家の話、してもいい?」
「うん」
彼女は少しだけ姿勢を正す。
「日曜は自由。父は仕事が多い。母は家を整えるのが好き。……私は本を読むか、歩く。暗いところに行く日は、調子が悪い日」
「今日の君は?」
「調子は悪くない。だから、誰かと暗いところに行ける」
胸の奥に小さな灯が足される。正直の温度。
「相川くんは?」
「父は帰りが遅い。母は早起き。会話は、薄いけど途切れない。僕は……いつも通り、だと思う。でも最近、“通り”の幅が少し広がった」
「それは、たぶん、いい変化」
コーヒーの湯気の向こうで、視線が静かに結ばれる。
「私ね、多分、“読む”のが少しだけ得意」
「人を?」
「うーん。目とか、声とか、言葉の選び方とか。今日の『星』、君は言う前から、目が先に光った」
「それ、怖くない?」
「怖いときもあるよ。けど、君のときは怖くない。理由は薄いけど、実感は濃い」
笑う。彼女も、わずかに笑う。
僕たちはまだ“能力”という言葉を避けている。でも避けながら、そこに触れている。
「合図、増やす?」
「今の二つで十分。傘を右へ、歩幅を半歩。……それと、可能なら“声にする合図”を一つ」
「声?」
「“ここ、苦手”。それだけでいい」
「言えるようにする」
彼女は頷いて、カップを置いた小さな音が、合意の印みたいに残る。
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アーケード
駅へ戻る道はアーケード。磨かれた床が明るく、遠くの八百屋から箱の擦れる音がする。
その音に重なるように、別の音。金属の車輪が、微妙に速い。
胸の内側で、細い鈴が鳴った。カラン、と一度。歩幅を半歩、乱す。篠宮さんが横から視線を寄越し、すぐに頷く。
「……合図」
「うん。右へ二歩」
僕たちは同時に右へずれ、立て看板の陰に身を入れる。前から台車がスッと滑り出し、後ろから小学生が走り抜ける。二つの流れは、僕らの身体が空けた空白で、互いに触れずに通り過ぎた。リンゴが一つだけ転がって、足元でくるりと回る。
「すみません!」と店員。少年は「ありがとう」と小さく言って駆けていく。
騒ぎが泡みたいに弾けて消えると、アーケードはまた普通の午後に戻った。
「いまの、完璧」
「合図が届く速さ、上がってきた」
「うん。──ねえ、相川くん」
彼女が足を止める。人の流れが左右を分かれ、僕らだけ少しだけ島みたいに取り残される。
「“見える”のを、嫌いにならなくていい」
「……嫌いじゃない。ただ、扱い方が下手なだけ」
「なら、練習すればいい。二人で」
簡単に言う。その簡単さに救われる。
僕は頷き、転がったリンゴを店員に渡して、また歩き出した。
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駅
改札の前で足を止める。ホームからの風が薄く吹き上がる。時計の分針が、ひと目盛り進む。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ。誘ってくれて」
「誘ってよかった。……正直、少し緊張してた」
「見えなかった」
「隠すの、上手いから」
彼女は冗談めかして言って、すぐに表情を戻す。
「次はね、見通しのいいところ行きたいな。海とか、丘とか。合図がいらないくらいの場所」
「いいね。行こう」
鞄の内ポケットから、細長い紙片。プラネタリウムの半券。彼女は折り目をつけ、指先で丁寧に裂いた。
「半分ずつ。続きは今度ね」
「了解」
彼女の掌に半分、僕の掌に半分。二つの半分は、今日の星より小さいのに、約束の形をしている。
「また明日」
「また明日」
篠宮さんは改札を抜ける。振り向かない背中が、妙に心強い。僕はしばらく立ち尽くし、掌の紙片の温度を確かめてから、反対側の改札機にカードをタッチした。
暗闇の星は、過去の光でできている。けれど今日、僕たちが見上げたものは、たぶん未来の輪郭をしていた。
“見える”を嫌いにならなくていい、と言ってくれた声が、遠くの灯台みたいに、胸の奥でゆっくり明滅している。
次に行く場所は、見通しのいいところ。
それでも、合図は携えたまま。届く速さを、二人で少しずつ上げながら。




