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未来を知る僕と、感情を探す君  作者: ヤナギハラマイ
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ep.5 昨日の夢

ごく普通の高校生活を送っていた相川蓮。

しかし「未来を垣間見るような違和感」に悩まされ始めたとき、隣に現れたのは親友・小田切翔の軽やかな笑い声と、転校生・篠宮彩花の静かな視線だった。


平穏と非日常の境界線が揺らぐ教室で、三人の言葉が交差する。

それは友情か、恋か、それとも――もっと暗いものか。


誰を信じ、誰を疑うのか。

ほんの小さな選択が、未来を決定的に変えていく。


第五話 昨日の夢


昼休み


 昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は一気に緩む。弁当箱のふたの開く音、購買袋のかさかさ、机の上で転がるペットボトル。窓の外では、午前中の雨が上がりきらず、薄い雲の膜の向こうで日差しがじわっとにじんでいた。


「相川ぁ、唐揚げ一個だけ恵んでくれ」


 翔が、自分の弁当を持ってきてるくせに、当然の顔で箸を伸ばしてくる。


「“だけ”って言える距離じゃないんだよ、それ」


「友情は唐揚げの数で測れるって、ばあちゃんが言ってた」


「絶対言ってない」


 箸を弾くと、翔は大げさに肩を落とし、それを見て周囲がくすっと笑う。教室の真ん中で、こいつはいつも風通しをよくしてくれる。ありがたいと思いながら、僕は弁当の白いご飯を口に運んだ。


「つーかさ。最近お前、篠宮と話すよな?」


 翔の声色が、からかいの温度に少しだけ火を入れる。


「たまたまだろ」


「たまたまが三回続いたら、それはもう必然ってやつだ。統計学的にも」


「お前の統計学は信用ならない」


「じゃ、経験則。俺の中のセンサーが鳴ってる。“相川、初恋か?”って」


 どんなセンサーだよ、と言いかけたときだった。


「……そういうの、廊下でやって」


 背後から落ち着いた声。振り向くと、篠宮彩花が立っていた。弁当を手にしたまま、こちらをまっすぐ見ている。言葉は硬くないのに、芯だけはぶれない。教室のざわめきが、わずかに薄くなる。


「からかわれて嬉しい人もいるだろうけど、苦手な人もいる。場所、選んで」


 翔が目を瞬かせる。僕も、少し遅れて心臓が跳ねた。


「……お、おう。悪かったな」


 翔は耳の後ろをぽりぽりかき、珍しく引き下がった。彩花はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻る。その背中を見送りながら、僕の箸は宙で止まる。


 ありがとう、の一言が喉の奥にひっかかったまま、飲み込めない。言えばいい、それだけのことが、妙に難しい。


 昼休みが終わる間際、彩花がこちらに視線を寄越した。目が合う。彼女はほんの一瞬だけ、表情を緩めた──誰にも気づかれないほど小さく。それだけで、胸の奥のざわつきが形を持ちはじめる。



掃除の時間


 終礼後の掃除時間。黒板のチョークを外し、水を含ませた雑巾を絞る。窓の外はまだ重たい雲。湿った風が、廊下の方から教室に滑り込んでくる。


「机、二列ずつ寄せよう。相川くん、反対側お願い」


 声をかけてきたのは彩花だった。今日の当番表を見れば、たしかに彼女と僕の名前が並んでいる。偶然じゃない。けれど“必然”という言葉を使うには、まだ何かが足りない。


「了解」


 僕たちは両側から机を持ち上げ、前へずらす。木製の脚が床を擦る音が、低く続く。机の角が指に食い込む感触、微かに上がる木の匂い。近づいた呼吸のリズムが、やけに耳に残る。


「力、入れすぎ。指、白くなってる」


 彩花が言う。彼女の手は小さいのに、運び方がうまい。無駄な力がない。


「……慣れてないだけ」


「几帳面なのに、こういうのは雑なんだ」


「几帳面って、いつの話だ」


「黒板に写すとき、行間そろえるでしょ」


 見られている。そう思うと、胸の奥に浮いた泡がぱちぱちと弾けていく。照れとも違う、でも少し似ている。


 机をすべて寄せ終えると、彩花は黒板消しを取り、静かに板面を往復させた。粉がふわりと浮かび、窓からの光を拾って白く舞う。その白が、彼女の髪にひとひら落ちた。


「……ついてる」


 気づくより先に、指が動いた。彼女の耳の上、髪の束に指先を近づけ、白い粉をそっと払う。触れないぎりぎりの距離で、空気をすくい取るみたいに。


「ありがとう」


 彩花が言う。距離が近い。二歩ぶん、いや、一歩より短い。彼女の瞳の中に、僕が小さく映っているのが分かる。


「さっき、昼に……助かった」


 ようやく言葉が出る。唐揚げ一個より、ずっと遅い。


「別に。……からかわれてる顔、困ってたから」


「顔に出てた?」


「うん。相川くん、思ってるよりずっと表情で喋る」


 意外だ。僕は自分を、静かなほうだと思っていた。彼女の言葉が胸に沈んで、水面の下で波紋になって広がっていく。


「でも……」


 彩花は黒板消しを置き、少しだけ声を落とした。


「嫌じゃなかったでしょ、あの会話」


「え?」


「全部が嫌、って顔じゃなかった。困ってるのと、嬉しいのが半分ずつ」


 射抜かれる、という言葉がある。こういうことを言うのだろう。見透かされるのは怖い。でも、怖さの輪郭に、どこかやわらかさが混じるのを、僕は確かに感じていた。


 掃除が終わると、クラスメイトたちはそれぞれの帰路に散っていく。翔は部活の先輩に呼ばれ、そのまま体育館へ消えた。僕と彩花だけが、同じ廊下を歩いていた。



夕さりの道


 夕方の空は、雨を拭った後みたいに鈍色で、それでも雲の切れ間から弱い光がこぼれている。校門を出て、住宅街へ続く緩い坂を下る。どの家からも夕飯の湯気の匂いがして、カレー、焼き魚、炒め物が混ざった生ぬるい風が鼻をくすぐる。


 並んで歩くと、歩幅の違いが分かる。彼女は少し歩くのが速い。僕が半歩ぶん先に足を出すと、彼女はその分だけ緩める。会話がなくても、歩調は合うのだと初めて知る。


「昨日、家に帰ってから寝た?」


 唐突な問い。でも、柔らかい声。


「……少し。すぐ目が覚めたけど」


「夢は?」


「覚えてない」


「そっか」


 彩花はそこで言葉を切る。問い詰めるのではなく、ただ置いていく。こちらが拾うまで、待つように。


「最近、よく眠れない」


 自分でも驚く。口が勝手に、心の中の温度をそのまま言葉にしている。


「目を閉じると、静かになりすぎて。息が、うまくできてないみたいな」


 言ってしまってから、後悔に似たものが喉を焼いた。弱音だ。そんなものを彼女に聞かせたくはなかったのに。


「それ、ちゃんと“しんどい”って言えるの、えらいと思う」


 返ってきた言葉は、責めではなく評価だった。彼女の横顔は淡く、まっすぐで、誤魔化しがない。


「“平気”って言い続けるほうが、たぶん楽。けど、平気じゃないって認めるほうが強い」


 風が、二人の間を通り抜けた。木の葉が擦れる音。遠くで犬が一度だけ吠える。


「私、たぶん……相川くんのそういうところ、いいと思う」


 いいと思う──。


 短い言葉が胸に置かれ、それが体温を持ち、ゆっくりと広がっていく。褒められ慣れていない場所に、初めて陽が差すみたいに。


「……ありがと」


 小さく言うと、彩花は首を横に振った。


「礼を言われるようなこと、言ってない。ただ、思ったこと」


 角を曲がるたびに、影が伸びて縮む。信号の青が足元に落ち、また消える。沈黙が少し長くなった。けれど、息苦しくはない。むしろ、静けさに居場所ができる。


「ねえ、相川くん」


 横に並んだまま、彩花が言う。


「今日、掃除でさ。黒板の粉、気づいてくれたでしょ」


「……うん」


「ああいうの、気づける人は、きっと人の痛いところにも気づく。でもね」


 彩花はそこで立ち止まった。舗道の端、街路樹の根元で土が盛り上がっている。前に雨が降ったとき、少し削れたのだろう。彼女は足元を見下ろし、しゃがみこんで葉っぱをひとつ拾い上げた。


「気づける人ほど、自分の痛いところには鈍くなる。変だよね」


 葉っぱは指の上で裏返り、薄い葉脈が夕方の光を透かした。


「だから、もし、どこか痛いなら、ちゃんと誰かに言って。……私にでもいい」


 “私にでもいい”。その“でも”が、妙に心地よかった。特別でありたいくせに、特別だと名乗らない。その距離感が、今の自分にはちょうどいい。


「わかった」


 本当に、そう思った。強がりじゃなく、約束の色で。


 歩き出す。交差点の角で、彩花が立ち止まる。


「私、ここで。こっち曲がるから」


 住宅街の細い道。玄関先の鉢植えから、雨粒が落ちる音がする。


「うん。また明日」


「うん」


 別れ際、彼女は少しだけ微笑んだ。歯は見せない。口角が一呼吸ぶんだけ上がる。その一秒が、今日いちばん明るい。


 背中が遠ざかる。振り向かない。振り向かれない。それでいい。今は、それが心地いい。



夜の机


 部屋に戻ると、机の上に教科書とノートを広げた。何ページか先に進んだ印をつけようとして、指が止まる。鉛筆を持ったまま、窓の外を見る。雲はほどけ、星がひとつだけ見える。夜風が、昼の湿気を少しだけ連れ去っていった。


(ちゃんと“しんどい”って言えるの、えらい)


 彩花の声が、インクが紙に染み込むみたいに静かに残る。思い返すたび、胸の奥のざわつきが、少しだけ輪郭をやわらげる。


 それでも、まぶたを閉じれば映るものがある。短い断片。誰かの手から滑り落ちるコップ。廊下で鳴る金属の音。知らない景色。知らない背中。僕の中で、未来と呼ぶには粗すぎる像が、昼と夜の境い目でかすかに明滅する。


 あれはなんだろう。偶然、想像、あるいは──。


 答えは出ない。出ないままでも、今日は眠れる気がした。机に手帳を出し、空白のページに小さく一行だけ書く。


明日、聞いてみる。痛いときは言うって、ちゃんと。


 ペン先が止まる。手を止め、深く息を吸う。窓の外、星は二つに増えていた。


 違和感は、もうただのノイズじゃない。名前のない楽器みたいに、胸の奥で低く鳴る。心地悪さと、なぜか心地よさが同居する音色。あの音を、いつか自分の言葉で呼べたらいい。彩花が笑った一秒の明るさを、失くさないうちに。


 灯りを落とす。暗闇は思ったより優しく、目が慣れるより先に眠気が追いついた。


 明日は、今日よりも少しだけ、うまく息ができる気がした。

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