ep.23 16時01分
ゼロ秒を踏み越えたあと、時間は一気に音量を取り戻した。
白衣の袖が弧を描き、翔の拳が空気を押し退け、蛍光灯が天井できいと鳴る。
「——下がれ!」
父の低い声。
脇の扉が開き、白衣と腕章が三人、通路に流れ込む。
「篠宮さん、壁側へ!」
僕は肩で彼女を守りながら、廊下の幅を半歩潰す。胸の針はまだ騒いでいるが、世界の輪郭は戻ってきた。
「相川、立てるか!」
翔が叫ぶ。手首には固定具の跡、目は真っ直ぐ。
「立てる。——篠宮さん、離れるな」
「離れない」
腕章の一人が警棒を抜き、もう一人が注射器ケースを開いた。
父が片手を上げるだけで、三人の動きが一拍止まる。
「実演は十分だ」
父は僕らと目を合わせず、事務的に言う。
「搬送準備。対象K-17-041、それから外来者二名——回収だ」
「回収はさせない!」
翔が踏み込み、警棒の腕を払う。金属が壁で甲高く鳴った。
「相川、口で指示くれ! 俺、殴るから!」
「右足半歩引け、肩を先に!」
「了解!」
拳が無音で入る。
腕章が二人、壁にもたれてずると崩れた。
もう一人が無線に手を伸ばすのを、篠宮さんが横打ちで弾く。
父は動かない。白衣の折り目は朝のまま、目だけが僕らの順番を測っていた。
「——彩花」
父は娘の名をはっきり呼んだ。
「君はここで終わってもいい。終わらせる権利は父親にある」
「権利じゃない。暴力だよ」
篠宮さんの声は低いのに、廊下の空気を押す。
「右!」
僕は叫び、翔の肩を叩く。
「備蓄庫へ。三秒で入る!」
「了解! ——行くぞ!」
翔が先に身を投げ、僕は篠宮さんの手首を掴む。
目を合わせて——一回、うなずく。
三歩。二歩。——ドア。
「開けろ!」
翔が肩で押す。重い金属が悲鳴を上げ、備蓄庫が口を開いた。
段ボールの山、マスク、ガウン、回収キットの白い箱。
中へ滑り込み、内側から押さえる。
「蓮くん、鍵!」
篠宮さんが指さす。
ドアの上、小さな内鍵。金属の定規を差し込み、二秒で回す。——カチ。
外で拳が扉を打ち、金属が震える。
「相川、この奥抜けられる?」(翔)
「管制室裏に通路がある。狭いけど繋がる」
「道案内頼む!」
倉庫の細い通路を走る。
棚の角が肩に当たり、埃が舞う。
背後でこじ開けの金属音。
サービス扉を押し、管制室裏へ。
——壁の向こうで、119の受信数が水みたいに流れる。
「昇降機は遅い。非常階段だ、こっち!」
鉄の踊り場を駆け降り、B1へ。
搬入スロープが口のように開き、外気の匂いが肺に刺さる。
「相川、前!」(翔)
「篠宮さん、離れないで!」(僕)
「うん!」(篠宮さん)
ゲートは閉まりかけ。翔が身を滑り込ませてこじ開け、金属が悲鳴を上げる。
僕らは隙間をくぐり抜け、スロープの外へ飛び出した——その瞬間、胸の針が跳ねた。
——一秒先。
——黒スーツがワゴンの影から出る。
——銃口が篠宮さんの胸元へ。
——白い光が破裂。
「——彩花!」
呼び捨てになっていた。考えるより先に、体が横へ入る。
耳の奥が白になり、右肩の内側で何かが弾けた。視界が半歩よろめく。
「蓮くん!」
篠宮さんの声が地面を掴み直させる。
僕は彼女を地面へ押し倒すように庇い、自分の背で二発目を壁へ死なせた。
熱と痺れで指がうまく動かない。息が短く切れる。
「——相川! 篠宮、伏せてろ!」
翔が前に躍り出て、銃の手首をはたき上げる。乾いた音、金属が転がる。もう一人が腰のホルスターに伸ばした腕ごと壁に叩き付けられた。
⸻
僕の肩の内側が焼けて、膝が落ちかけたとき——
篠宮さんの手が頬に来た。指先が震えている。
「やだ、やだ……行かないで、蓮くん……お願い」
掌が傷口に触れた瞬間、彼女の肩がびくっと揺れる。
「なにこれ、熱い……違う、わたしの手のほうが熱い……っ」
呼吸がばらけ、睫毛まで濡れる。
「分かんない、でも——直って、直って、蓮くん直って!」
彼女が息を落とすたび、胸の痛みの輪郭がほどけていく。
皮膚の下で糸が一筋ずつ縫い直されるみたいに、熱が退く。
「……待って、本当に……減ってる?」
「減ってる。今の、それ——君の……」
「違ったらどうしよう……でも、止まれ、止まれ、止まれ!」
篠宮さんは泣き笑いの顔で、もう片方の手も重ねる。
掌の下で鼓動が合う。僕の呼吸が通る。
「……痛み、引いてる」
自分の声が、信じられないくらい落ち着いて響いた。
彼女は目を大きくして、かすれ声で問う。
「ほんと? ほんとに?」
「ほんと。……ありがとう、彩花」
名前を呼んだら、彼女の目がかっと熱くなった。
「よかった……っ、よかった……もうやだ、怖かった……!」
そのまま僕の胸に額を押しつけてから、顔を上げ、短くうなずく。
「もう大丈夫。行ける?」
「行ける。篠宮さんのおかげで」
背後で翔が怒鳴る。
「相川! 篠宮! 離れんなよ!」
僕らは手を離さないまま立ち上がり、彼の背後に立った。
———スロープの口。
自動扉が割れて、父が白衣の影を連れて現れた。
「まだ逃げるつもりか。——愚かな子どもたちだ」
篠宮さんの手が、僕の袖を離さない。掌の熱はまだ残っている。
翔が一歩、前へ出た。
「黙れよ」
低い声だった。
「人を素材って呼ぶ口で、父親ヅラすんな」
父がわずかに顎で合図する。白衣が動く。
翔は一切見ない。足を半歩ひいて、拳をつくった。
「——終わりだ」
次の瞬間、音が一つ。
翔の右がまっすぐ伸び、父の顎を貫く。
白衣の巨体が遅れて浮き、机も椅子もないコンクリに崩れ落ちた。
「理事長——!」と誰かが叫ぶ。だが、誰も近づけない。
翔が振り向かずに吐き捨てる。
「お前が与えてきた痛みだ。覚えとけ」
沈黙。
廊下の空調だけが、何事もなかったみたいに回っている。
篠宮さんが小さく息を呑み、僕を見る。
「蓮くん……行こう」
「ああ。——翔」
「分かってる。相川、篠宮、前へ」
三人は目を合わせて——一回、うなずく。
誰も倒れなかった。
僕らは午後の光へ、同じ歩幅で出ていった。
てへぺろ




