ep.22 廊下のゼロ秒
第二十二話 廊下のゼロ秒
15:59。
B2-12の前の廊下は、相変わらず無窓で、音を吸う。
蛍光灯の白が床に落ち、付け根の跡だけがプレートの不在を示していた。
「——ここで待つ」
「うん」
目を合わせて——一回、うなずく。
胸の針が、秒針みたいに細かく震えている。
遠くで靴音が折れ、篠宮の父が一人で現れた。
護衛の影は引かれている。白衣の折り目は朝と同じで、目だけが温度を持たない。
「時間だ」
彼は僕らの前で止まり、息も乱さず言った。
「——その前に、一つ片をつける」
「片?」篠宮さんが眉を寄せる。
「彩花。お前は、ここで選べなかった」父は穏やかに言う。「ならば私が選ぶ。安全の反対側に立つ者は、排除する」
「……やめて」
篠宮さんの声は低い。
父は白衣の内ポケットから、細い筒状のものを出した。透明な液体がわずかに揺れる。ラベルは記号だけで、意味のある言葉を拒むみたいに短い。
僕は一歩、前に出た。
「話は終わったはずです」
「終わっていない。設計は未了だ」
父は視線ひとつで距離を測り、右手の指で蓋を外した。
静電気みたいな軽い音が、廊下の空気を切る。
胸の針が、突然跳ねた。
——次の一秒。
——彩花の喉元に白い点。
——床に落ちる無色。
——目が、捉えられなくなる。
(ダメだ)
「——彩花」
僕は彼女の手首を掴む。目を合わせて——一回、うなずく。
彼女の瞳が、僕の方へ焦点を結ぶ。
その瞬間、父の肩がほんのわずか沈んだ。次の動きへ入る前の、ゼロ秒。
僕は踏み込んだ。
体が先に出て、頭が遅れて追いつく。
白衣の袖が視界の端で弧を描く。
透明な液体のきらめきが、空中で角度を変える。
——冷たい。
皮膚の下に、すばやく冬が走る。
胸の針が裏返り、内側から強く叩いた。
足元が一拍だけ遠くなる。
「——っ、蓮!」
篠宮さんの声が地面を掴み直す。
僕は笑おうとしたが、口角は言うことを聞かない。代わりに首を横に一回振った。
(大丈夫。今は)
父の目が細くなる。
「……受けたか」
言葉は、観察記録の行末に打つ句点のように小さい。
「彩花を守るために、自分を差し出す。——優先順位の証拠だ」
「証拠? 人を——」
篠宮さんが踏み出す。父は正面に半歩だけ入って、彼女の行き先を塞いだ。
白衣の胸元で名札が光る。
「戻れ。——相川くんの時間は、もう短い。君が見ることができるのは、終わりだ」
(……終わり?)
耳鳴りが薄膜を張り、世界の輪郭がやや遠い。
足を踏みしめると、重力だけは正確だった。
僕は彩花の腕をもう一度、軽く引いた。
目を合わせて——一回、うなずく。
(逃げない。ここで終わらせない)
「——開けろ!」
鋭い声が、廊下を割った。
同時に、B2-12のドアが内側から叩きつけられ、蝶番が悲鳴を上げる。
面談の時刻。
二名の白衣が制止の声を上げる間に、翔が出てきた。
手首に固定具の跡。
目の焦点ははっきりこちらを捉え、呼吸は荒いのに、動きは迷わない。
「——相川! 篠宮!」
彼の視線が、白衣の男に移り、溶けない色に変わる。
「お前が——お前が!」
父は体の向きを半身に変えた。
「K-17-041。面談は——」
言葉が終わる前に、翔の肩がぶつかった。
壁が低く鳴り、照明がわずかに揺れる。
翔の拳は音を伴わないのに、空気だけが遅れて崩れた。
白衣の胸元に一撃。
父の身体が斜めに滑る。
「——小田切くん!」
篠宮さんが叫ぶ。
彼は一瞬だけこちらを見て、頷きも謝りもせずに前に戻る。
(わかってる、という目)
父は倒れず、受けて、ずらして、立て直す。
息は乱れない。
「力は暴走する。証明してみせるか」
「——力が暴走してるのは、あんただ!」
翔がもう一度、踏み込む。
壁の付け根がうなり、床のゴムがきゅっと鳴る。
僕は一歩だけ前へ出る。
視界の端で、彩花が僕の袖を掴んだ。
彼女の指は震えているのに、つかむ力はまっすぐだ。
目を合わせて——一回、うなずく。
(ここにいる)
父の視線が、僕に戻ってきた。
「相川くん。時間だ」
その言い方は、時刻の告知と同じ平坦さだった。
胸の中の針が、ひときわ強く鳴る。
——まだだ。
——終わらせない。
「翔!」
僕は呼ぶ。
彼の首がわずかに動き、耳がこちらを向く。
「止めるなって顔をするな。止める。でも——一緒にだ」
翔は瞬きし、うなずく代わりに歯を食いしばった。
拳が、今度は父の手を狙う。
白衣の指が握る細い筒が、廊下の光をはねた。
「——彩花、下がって」
僕は彼女を壁際へ促し、翔と父の間に半歩だけ体を入れる。
耳鳴りは強い。でも、線は見える。
次の一秒が、どこに落ちるか。
父の肩が沈む。
翔の足が軸を取る。
廊下の空気が、薄くなる。
ゼロ秒。
僕は前へ。
胸の針は、まだ動けると言った。




