ep.21 白衣の男たち
第二十一話 白衣の男たち
B1の廊下で、人の流れが一瞬だけ薄くなった。
上の会見準備に職員が吸い上げられて、足音の層が剥がれる。
「彩花」
『……蓮くん』
呼び方が変わったのを合図みたいに、僕らはB2直通の扉に手をかけた。
金具は乾いていて、冷たい。取っ手の上に小さな内鍵。
ポケットから、ただの薄い金属の定規を取り出す。角度を合わせ、呼吸の間で二秒だけ力を入れる。
——カチ。
赤いランプは橙に変わり、扉が一センチだけ動いた。
「今」
『行く』
隙間から滑り込み、扉を元の位置へ。
中は無窓で、声を吸う壁。照明は一定の間隔、床は白。
目印の緑のラインはここで途切れ、代わりに番号札がドアごとに打たれている。
B2-07 研究管理
B2-08 倫理審査
B2-09 被験者管理
視線で問い、視線で答える。
被験者管理の前で、一回、うなずく。
内側から、事務的な声が漏れていた。
感情の凹凸を切り落とした、報告のリズム。
「昨夜の回収、登録は?」
「完了。症例番号K-17-041、年齢17、男性、高校生。状態安定。指示は長期観察」
「処置は」
「なし。本部の命令で負荷試験は保留」
「了解。移送時の抵抗は」
「初期のみ。隊員二名打撲。拘束手順を改める予定」
胸の針が短く角度を変える。
——数字と命令。そこに、誰かがいる。
廊下の突き当たりに資料室のプレート。
扉は施錠されていない。
僕らは影の幅を測って、音が薄くなる瞬間に滑り込んだ。
狭い。棚と棚の間に、ラベルの貼られた背表紙がぎっしり。
——症例、報告、移送記録。
必要な言葉だけの世界。
「四分」僕。
『見るだけ』彩花。
K-17で始まる列を目で追い、三冊目の端を引く。
ざらつく青い表紙。右上の黒いスタンプ。
症例:小田切 翔
識別:K-17-041
分類:筋力増幅(推定)/短時間過剰出力
指示:長期観察/実験投入保留
搬送:○月○日 22:34
視界が一瞬だけ狭くなる。
指先に入りすぎた力で、紙がかすかに鳴った。
「……翔」
『ここに、いる』
彩花の声は浮きも沈みもしない。支える音だ。
一枚めくる。事実だけの箇条書き。
——回収地点:○○交差点付近
——抵抗:対象の右拳による打撃で隊員二名打撲(軽)
——鎮静:吸入○○、投与量○○
——観察:安静時筋出力 基準比2.4(±0.3)
——備考:家族連絡不要。問い合わせは本部管理に一元化。
「不要って、何だよ」
『経路を塞ぐ言い方。外からの連絡を止めるための文』
その文体が怖い。
人を、項目にするための言葉だ。
廊下から、二人分の足音。
「昨夜の個体、面談を16:00に。書式は青」
「K-17-041、面談室の準備、B2-12」
ドアが閉まり、鍵のピッという音。
彩花が僕の手からファイルをそっと受け取り、表紙を見ただけで元の位置に戻す。
痕跡を残さない動き。
目を合わせて——一回、うなずく。
資料室を出て、角で一度止まる。
通路の先、B2-12のプレートは外されていて、付け根の跡が同じ高さに並んでいる。
管制室側からは、119の受信数が小さく明滅し続ける。
「面談は職員と翔だけ。俺たちが入る場所じゃない」僕は低く言う。
『うん。割り込まない。——でも、時間と部屋が分かった。通る瞬間に、近づける』
「隙を探す。話せるかもしれない。見えるだけでもいい」
『決めつけない。可能性だけ持っておく』
胸の針が二度、短く鳴る。
——近い。まだ行ける。
僕らはB2-12へ続く通路の死角を選び、通常の速さで歩く。
角の手前、備蓄庫の扉が開いて、台車が一台出てきた。
白衣の職員が二人、談笑しながら通り過ぎる。
鼻先を掠めるのは、薄いゴムと紙の匂い。
彩花が手首で時間を示す。
15:28。
「三十二分」
『一回、外に出て戻る?』
「いや、動線だけ読む。押し込まれやすい場所と抜け道」
プレートの剥がれ跡、床のわずかな擦り、角に残る台車の黒い輪。
目に入るもの全部が、図面のように頭に並ぶ。
その時だった。
角を曲がった瞬間、白衣の三人と鉢合わせた。
「——君たち誰だ。ここは立入禁止だ」
「え、あの——」
「関係者証は? 学生か? B2にどうやって入った」
消毒液と糊の匂いが鼻先を刺す。反射で下がるより早く、左右から腕が伸びる。
「侵入者。確保します」
「ま、待ってください、広報に——資料を」
「広報は一階だ。言い訳は上で聞く。手を後ろへ」
篠宮が一歩出る。「すみません、迷って——」
「迷う場所じゃない。動くな」
手首を外側に返され、腱がきしむ。もう一方の肩を壁へ押さえ込まれ、ざらついた塗装が背中の布を引っかく。
「すぐ出ます、だから——」
「黙って。番号取る」
足元で靴のゴムがきゅっと鳴り、呼吸が半拍遅れる。
横で篠宮の息が細くなるのがわかった。
胸の針が暴れる。(まずい——)
「——待て」
低く、よく通る一本の声。
聞き覚えがある。
——あの日、彩花のお見舞いに行ったとき。
白衣たちの肩がわずかに下がる。
廊下の奥から、白衣の長身が現れる。
胸元の名札が光り、誰かが小さく「理事長」と息をのんだ。
彩花の横顔が、硬くなる。
僕は横目で彼女を見る。唇がかすかに動いた。
『……お父さん』
男は視線だけで周囲を退け、穏やかな声で言った。
「君たちはいい。ここは私が引き取る」
白衣たちは短く「了解」とだけ残し、足音を散らして去る。
廊下に、僕と彩花と、その男性だけが残った。
男は一拍置いて、こちらへ視線を戻す。
「相川くん、そして——彩花」
名前を正確に呼ぶ。胸の針が、最短距離を指すみたいに、ひときわ強く鳴った。
「話をしよう。ここではない場所で」
応接室のプレートが光り、金属のドアクローザーが無音を区切った。




