ep.16 悪夢はすぐ先に
ごく普通の高校生活を送っていた相川蓮。
しかし「未来を垣間見るような違和感」に悩まされ始めたとき、隣に現れたのは親友・小田切翔の軽やかな笑い声と、転校生・篠宮彩花の静かな視線だった。
平穏と非日常の境界線が揺らぐ教室で、三人の言葉が交差する。
それは友情か、恋か、それとも――もっと暗いものか。
誰を信じ、誰を疑うのか。
ほんの小さな選択が、未来を決定的に変えていく。
第十六話 悪夢はすぐ先に
ニュースは、熱が冷めたようでいて、いつも同じ言葉を繰り返していた。
——東陵高校で起きた、授業中の突然の発火。
教室の窓越しに上がる炎の映像は、あの日から何度も流され、深夜のワイドショーは「化学反応だ」「悪質ないたずらだ」「いや、ありえない」と持論を並べた。
SNSは二つに割れた。超能力という言葉を面白がる層と、強く否定する層。
最初の一週間は騒がしかったが、二週間目には新しい話題に押し流され、三週間目には近所の子どもが真似するとかしないとかいう、どうでもいい論争まで生まれた。
一か月。
僕らの学校でも、話題はすり減った。休み時間の笑い声はいつも通りで、教室の空気は落ち着きを取り戻しつつある。
——でも、夜ごとの夢だけは、落ち着く気配がない。輪郭が濃すぎる、色の強い断片が、あれは噂じゃ済まないと告げ続けていた。
そして今日、目の前で“それ”が——
⸻
揺れが止んだ直後、広場の端で誰かが指をさした。
「おい、あれ見ろ——!」
そろって振り向く。
青い柱のバス停の足元で、アスファルトが内側から盛り上がっていた。
ぱきん、と乾いた音。亀裂が放射状に伸び、舗装が持ち上がる。
そこから——立ち上がった。
人、だった。
制服を着ている。ブレザー、白いシャツ、緩んだネクタイ。
ただし桁が違う。交差点の信号機の二、三倍はある。
信号の灯りが、腰より下に来る。
肩が街路樹の梢を払って、葉がざわと返った。
影が広場をまるごと覆い、昼の色が一段、暗くなる。
押しのけられた空気が風の帯になり、看板の鎖がびいんと鳴った。
輪郭は熱の蜃気楼みたいにわずかに揺れ、顔は混乱と苦痛で引きつっている。
巨大なネクタイが旗のように揺れ、ブレザーの布目が壁に見えた。
「……人?」
「でか……え、うそだろ」
「怪物だ、逃げろ!」
悲鳴が四方からせり上がる。
その“巨人”は、ただ立っているだけだった。腕を振り上げもしない。
けれど大きすぎる。足を半歩ずらしただけで道路の継ぎ目が裂け、
バス停の屋根がめりっと歪み、街灯に肩が触れて金属音が鳴る。
空気が押されて突風が走り、店先のビニール幕がばさばさと逆立つ。
(暴れたいわけじゃない。でも、抑えられていない——)
胸の針が、激しく揺れた。
「下がろう」
篠宮さんの声は低く、まっすぐだ。
僕はうなずき、彼女と目を合わせて——一回、うなずく。合図通り。
二、三歩さがった、その瞬間だった。
看板のボルトが、一つだけ外れかけている映像が、脳の内側に先に走った。
(落ちる——右)
「彩花!」
名前が先に出る。彼女の腕を掴み、右へ引く。
次の瞬間、さっきまで彼女の肩があった空間に、バン! と看板が叩きつけられた。
破片が跳ね、空気が震える。人々の悲鳴が一段高くなる。
近くの自販機の缶が、振動でカラカラと鳴いた。
篠宮さんは息を整え、僕を見た。
視線は揺れていない。確かめるみたいに、でもまっすぐに。
「知ってるつもりではあったけど……やっぱり、未来が見えるんだね」
僕は短く、うなずく。
「見える」
そのやり取りは、驚くほど小さく、静かだった。
周囲の騒音のただ中、僕らだけが、静まる。
「移動しよう。安全な影を取る」
「うん。右手、駐輪場の屋根の柱が強い」
僕らは低い姿勢で、連なる柱の影へ移る。
遠くでサイレンが遅れて重なり始めた。救急か、警察か、判断はつかない。
店の前で店主らしい男性が「こっちへ!」と腕を振るが、人波は指示を飲み込めず、渦になって流れた。
その渦から半歩外れ、影から影へ、柱から柱へ。
巨人が息を吐くだけで、遠くの窓ガラスがびりと鳴る。
見上げれば、電線の束が彼の腰より低い位置で細く震えていた。
「……あれ、誰」
「制服は、東陵じゃない。うちでもない」
「どこの高校生でも、ある」
言葉がうまく並ばない僕に、篠宮さんは首を振る。
「個人が特定できるのは、あとでいい。今は——人波から外れる」
合図の代わりに、彼女の袖を軽く押す。
人の流れは左へ逃げていく。僕らは右へ——逆に取る。
反射的に、もう一度“先”が揺れる。
(ガラス。三歩先、左上——)
「上」
僕が言い、彼女が身を沈める。
割れた小片が光って、僕らの頭上を越え、アスファルトに散った。
すぐそばで、駐輪場の自転車の列ががしゃと連鎖して倒れる。チェーンが地面を引きずる音が長く尾を引く。
その時、巨人が初めて大きく顔を動かした。
耳を塞ぎたいのに手がうまく運べない子どものように、肩だけが不器用に上がる。
表情はぼやけているのに、困惑と助けを乞う輪郭だけがはっきりしていた。
唇の震えが、「たす……け」と似た形をつくる。
(聞こえない。届かない)
胸の針がもう一段階揺れて、喉の奥が乾く。
信号待ちのバスが、彼の脇で模型みたいに小さく見えた。
「相川くん」
「ん」
「これはまだ“本番”じゃない」
「……ああ。前触れだ」
「だから、生きて下がる」
「下がる」
僕らは見つめ合い、一回、うなずく。
ゆっくり距離を取る。
耳の奥で鼓動が一定に戻るまで数を数え、影から影へ。
背後で、巨人の足元の亀裂がきしむ音がした。
それでも、踏み出す音はない。
彼は、ただ立ち尽くしている。
広場の外縁に出たところで、翔の声が飛ぶ。
「おい相川! 篠宮! 無事か!」
振り返ると、息を切らした翔が、手すり越しにこちらを見ている。
「生きてる」
「よし——やべぇ、でか……人?」
「後で説明」篠宮さんが短く言う。「今は外へ」
「了解!」
三人で足を速める。
横断歩道の向こうで、信号待ちの車がクラクションを短く鳴らした。運転席の顔はどれも固く、目は一点に縫いとめられている。
その上を、遅れて飛来したヘリの低い重音が撫でていった。
人々の声は、恐怖と好奇心と、現実感のない笑いが入り混じって、硬く反響する。
交差点の角まで来て、もう一度だけ振り返る。
青い柱のそば。
制服の巨人は、まだそこにいて、肩だけがかすかに上下していた。
世界が、いま新しい段に足をかけたみたいに、景色の色が一段濃く見えた。
——夢で見た倒れた人の群れは、ここにはいない。
でも、空気は同じ方向に傾き始めている。
「行こう」
「うん」
僕らは角を曲がる。
背中で、見えない針がかすかに鳴った。
次が来る。
それだけは、はっきりしていた。
そしてこれを機に、悪夢への門が開き始めた。




