ep.14 君のいない学校
第十四話 君のいない学校
朝のホームルーム。
出席を取る担任の声が、前から順に流れていく。
「篠宮——欠席」
その一語で、胸の奥の針が小さく揺れた。
(……見えてなかった)
昨夜、寝る前にかすかに「明日の黒板」「チョークの粉」の断片は見えた。空の席は見えていない。
僕の“見える”はいつも薄い。輪郭のメモだけ置いていく感じだ。だから外すことはある。けれど——友だちの欠席を見落とすのは、妙に収まりが悪い。
一限の前、翔が肘でつつく。
「篠宮さん、休みか。昨日ちょっと危なかったもんな」
「……そうだな」
「お前、放課後どうすんの」
「プリント届ける」
「それ。悩む前に決めた顔してる」
「悩むと動きが遅くなるから」
言いながら、自分の中の小さな空白を指でなぞるみたいな感覚があった。
(どうして見えなかった?)
見え方は揺れる。近い未来ほど鮮明というわけでもない。重要なことほど見えるわけでもない。
それが僕の“欠点”だ。だから——行って、確かめる。
⸻
放課後。
コンビニでスポーツドリンクとゼリー、のど飴。棚の前で少し迷って、全部カゴに入れる。
門柱の表札は白。インターホンの前で息を整える。
ピンポン。
少し間。
「……相川くん?」
かすれた声。篠宮さんだ。
「プリント持ってきた。少しだけ、いい?」
「うん。今、行く」
鍵の音。扉が開いて、白い廊下がまっすぐ伸びる。
マスク越しの彼女は、いつもより少し色が薄い。でも目はちゃんとこちらを捉える。
「入っていって大丈夫?」
「うん。リビングで」
靴をそろえる。心臓は少し速いが、ずれてはいない。
⸻
リビング。
ガラスのテーブル、薄いグレーのソファ、壁の絵。病院の待合室みたいに整っているけれど、花瓶の花が生活の温度を足していた。
「これ、プリント。差し入れも」
「ありがとう」
「食べられそう?」
「今は、あとでにする」
「無理しないで」
咳が一度だけこぼれて、彼女は眉を寄せる。
「熱、どれくらい」
「さっき三七・八。微妙に高い」
「氷枕ある?」
「ある。保冷剤をタオルで巻いた」
体温計が、さっきの数字をまだ画面に残している。
スポーツドリンクのキャップを回す。ラベルが小さく鳴った。
「開けておくね」
「うん、助かる」
彼女は背にもたれて、呼吸を浅く整える。
言いすぎないほうへ言葉を選ぶ。
「昨日の“続き”は、元気になってからでいい」
「うん。欠片の話、途中で止まってるし」
「焦らなくていい」
「焦らない」
少しだけ静かになる。
冷蔵庫の低い音が、時計の代わりみたいに一定で流れていた。
「相川くん」
「ん」
「来てくれて、嬉しい」
「来るよ」
「普通は迷うでしょ」
「迷った。でも、来た」
「結論がいい」
「たまには」
彼女が少し笑って、すぐ咳に変わる。背に手を添えようとして、膝の上で拳をほどく。
——今朝の違和感が、ここでやっと落ち着く。見えなかった分、確かめに来ただけだ。
「タオル、もう一枚濡らしてこようか」
「大丈夫——」
「座ってて。場所、どこ」
「流しの隣の引き出し」
水の冷たさがタオルに広がる。戻って額に置く。
指先が、少しだけ髪に触れた。
「冷たい」
「強すぎない?」
「ちょうどいい」
目が細くなる。ざわつきとは違う温度が胸に広がる。
言葉は少なくていい。でも、ほんの少しだけ話す。
「……風邪って、しんどいな」
「しんどい。体の輪郭がぼやける」
「ぼやけたら、寝てていい」
「寝る前に、一つだけ」
「なに」
「相川くん、今日はずれてない」
「わかる?」
「うん。たぶん、欠片が静か」
頷く。
(見え方は当てにならない。でも、今の“静かさ”は信じていい)
そう思えるくらいには、今日の自分は真ん中にいる。
ノックが二回。
扉が開く前に、消毒液の匂いが先に入ってくる。
「ただいま——」
落ち着いた男の声。
廊下の靴音。視線の向きが、一度で部屋全体を測る。
「お父さん」
篠宮さんの声が半音落ちる。
立ち上がりかけて、姿勢を整えた。
「友だちが来ているのか」
「うん。同じクラスの——」
「相川です」
軽く頭を下げる。(大人には丁寧に)
男はネクタイをゆっくり緩める。白いシャツ、袖口のボタンが光る。
口元は笑うが、目はすべてを笑わせない。
「いつも娘が世話になっている」
「いえ、むしろ僕のほうが助けられてます」
「そうか。——熱か」
「三七・八」篠宮さんが答える。
「この時期は広がりやすい。予防は若いうちから習慣に」
「……予防?」
「手洗い、睡眠、栄養。それから——」
彼の視線が、ボトル、体温計、濡れタオルを順に撫でる。
「管理。数値を見て、コントロールする。私が見るに、君はそういうのが得意そうだ。」
喉の奥がわずかに乾く。
褒め言葉なのに、体は緊張し、胸の奥がざわめく。
「病院、行く?」僕は篠宮さんに向けて言う。
「明日、様子を見る」
「送ろうか」
「大丈夫」
「そうだね」父親が淡々とつなぐ。
「明日、病院に来なさい。検査だけしておこう。高校生は、いろいろ反応が出やすい」
「反応?」
「環境の変化に敏感、ということだ」
笑ってはいるが、言葉は硬い。
「君は——相川くんだね」
「はい」
「体調は崩しにくいほうか」
「寝ればだいたい戻ります」
「それは良いことだ。無理はしないように」
半拍だけ置かれた沈黙が、部屋の温度をわずかに下げる。
言葉はそこで止まり、一般論として収まった。
「——ありがとう。相川くん、今日は帰って」
篠宮さんが小さく言う。
「わかった。連絡して」
「うん。……来てくれて、ほんとに、ありがとう」
「当然」
父親が玄関へ促す。手を軽く振ってから、廊下に出た。
消毒液の匂いが、靴音に合わせて濃淡を変える。
玄関。
「相川くん」
父親が、ごく自然なタイミングで呼ぶ。
「はい」
「君、注射は平気なほうかな」
「え?」
「いや。高校生は、たいてい嫌うからね。——失礼」
靴ひもを結ぶ手が一瞬止まる。
「……どちらかといえば、苦手です」
「そうか」
口元は笑う。目は、やはり全部は笑わない。
⸻
外に出ると、空の色が少し変わっていた。
塀を曲がったところで足が止まる。
胸が、熱を少し受け取ったみたいに重い。のどが渇いて、スポーツドリンクを半分飲む。
ポケットが震える。
篠宮さんから。
さっきより、少し楽になった。
今日は、ありがとう。
指が迷わず返す。
よかった。無理しないで。
明日、プリントの続き持っていく。
——足が、だるい。
階段を降りたあとみたいな、筋肉の重さ。
熱はない、はずだ。首筋の汗が冷えて、背中に貼りつく。
(今朝、見えなかった空白は——)
たぶん、こうやって埋めるものだ。見に行って、確かめることで。
“見える”は万能じゃない。だから歩く。手で触れる。言葉で聞く。
それで、だいたい足りる。
了解。おやすみ。
明日は状況により延長。
送信。
小さく「既読」。
風が一度だけ吹き、汗が一気に冷える。深呼吸をひとつ。
家路。
靴底の音を数えて、歩幅を一定に戻した。
見えなかった朝の分まで、今はまっすぐに。




