ep.13 私の想い
第十三話 私の想い
朝。
黒板の端にかすれた白い線が一本残っている。消し忘れ。教室の空気は静かで、窓から入る光が机の角で四角く止まっていた。
相川くんは二列目の真ん中。ノートの端はそろっていて、ペン先の置き方が毎日同じ。——そういう“同じ”は、見ていて落ち着く。
昨日の放課後、私は「自分の気持ちに詳しくない」とだけ話した。
今日はその続き。気持ちの“中身”ではなく、届き方の話をするつもりだ。
「篠宮さん、プリント回してください」
先生の声で、手元から後ろへ紙が流れていく。
ページをめくる音。チョークの音。椅子が小さく軋む音。
相川くんは一度だけ、教科書を逆にめくりかけて、すぐ戻した。——先を見てから現在地に戻る癖。私はそれをもう知っている。
背後から小さく囁く声。
「篠宮さん、今日の英語、小テスト、生存確率は?」
「0% 、自分で上げて」
「よしっ!相川!頼んだぞ!」
翔の声は、教室の空気に小さな穴を開ける。息がしやすくなるタイプの穴だ。
⸻
昼。
購買の列は短い。コロネを一つ、相川くんはバターロールを二つ。
席で袋を開ける音が重なる。
「一口、要る?」
「三分の一で」
「計算が早い」
やり取りは短いのに、机の上の空気が少しあたたかくなる。
相川くんのノートの文字は、今日もまっすぐ。私の胸の奥で、見えない重りが一段軽くなる。
昨日の“ざわめき”の話は、今日は出さない。出さないまま、続きへ進む。
「放課後、少し歩く?」
「そうだね。角の手前で決めるやつで」
「うん」
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放課後。
廊下の床は水拭きの匂い。昇降口で靴を履き替えると、外は薄い雲。風は弱い。
「延長、三十分」
「状況により延長」
「長くなる言い方」
「自覚あり」
校舎裏のベンチへ。体育館の影がのびていて、自販機の低い音だけが一定だ。人が少ない。言葉が立ちやすい場所。
私は缶のココアを両手で持って、ふたを開ける音を合図にする。
言う順番を決めて、口を開く。
「ねぇ」
「うん?」
「——届き方の話をしてもいい?」
相川くんは頷くだけで、急かさない。待つのが上手い。
「昔から時々、人の声より先に、気持ちの“欠片”が来ることがあるの。温度とか、重さとか。言葉じゃないもの」
「……」
「ずっと“思い込み”だと思ってた。そう決めておくと、日常が崩れないから。
でも——相川くんと一緒にいると、“思い込みじゃない”瞬間がある」
相川くんが、少しだけ体の向きをこちらに寄せる。視線はまっすぐだけど、圧はない。
「たとえば、相川くんがページを逆にめくってすぐ戻すとき。
——“先が気になっている”っていう形じゃなくて、“少しだけ急いでる温度”みたいなのが、先に来る。
あと、歩き出す前に肩が固くなるときは、“準備する重さ”が先に来る」
「それは、心が“聞こえる”ってこと?」
「聞こえる、ではない。言葉じゃないから。
ただ、温度や重さの“欠片”だけが、ふっと先に来る。外すこともあるし、当たることもある」
「僕のときは?」
「……当たることが多い。たぶん、相川くんが“わからない”を隠さないから」
風が金網を通って、音が一度だけ弱くなる。
私は缶を膝に置き、指先を組む。
「怖い?」と彼。
「今は、怖くない」
「どうして」
「“欠片”が来ても、それを名前にしないでいられるから。……一緒にいると、そうできる」
相川くんは小さく息を吐いて、頷いた。
「じゃあ、これは二人だけの共有にしよう。
言葉にしすぎないで、覚えておく。必要なときだけ、合図みたいに使う」
「合図」
「たとえば、“いったん離れよう”と同じ棚に置いておく」
「同じ棚」
「取り出す位置も、戻す位置も、同じに」
その言い方が、私にはちょうどよかった。
私はうなずく。大きくは動かないけれど、腹の底で決まる感覚がある。
「——ありがとう」
「いいえ。篠宮さんが話してくれてよかった」
呼び方が、ちゃんと“篠宮さん”で固定されている。昨日より、その響きがやわらかく聞こえる。
「歩こう」
「はい。角の手前で」
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商店街。
揚げものと焼き菓子の匂いが混ざる。たい焼きの店は今日は列が二人。
並ぶあいだ、会話が切れても崩れない。沈黙が、間取りみたいに落ち着く。
たい焼きを受け取ってベンチへ。植え込みから灰色の猫が出てきて、すぐ引っ込む。
「今日の“見える”は?」と私。
「浅い。輪郭だけ」
「ちょうどいい」
「全部わかるより?」
「少しわからないほうが、歩ける」
彼は猫より私との距離を優先する位置に立って、自然に影をずらす。——こういう小さな配置換えに、私は気づく。
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図書館の脇道。
日なたと日陰の境界を何度もまたぐ。足音は二人分だけ。
「合図、今日は使わない」
「使わない」
「使わなかったこと、覚えておく」
「覚えておく」
言葉を短く重ねる。
昨日は“ざわめき”までしか話せなかったけれど、今日は届き方を渡せた。
名前をつけないまま、二人の棚にしまう。取り出す場所も戻す場所も、決めた。
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駅の手前。
信号は青に変わる直前。風は弱い。車は来ない。
「また、明日」
「また、明日」
私は振り返らず、小さく手を上げる。背中のまま手を上げるのは、少し勇気がいる。でも今日はできる。
歩き出すと、地面の影が細く伸びて、同じ速度で縮む。
気持ちの欠片は、名前のないまま、確かにここにいる。
それでいい。今日は、それで前に進める。




