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未来を知る僕と、感情を探す君  作者: ヤナギハラマイ
12/24

ep.12 探る心

ごく普通の高校生活を送っていた相川蓮。

しかし「未来を垣間見るような違和感」に悩まされ始めたとき、隣に現れたのは親友・小田切翔の軽やかな笑い声と、転校生・篠宮彩花の静かな視線だった。


平穏と非日常の境界線が揺らぐ教室で、三人の言葉が交差する。

それは友情か、恋か、それとも――もっと暗いものか。


誰を信じ、誰を疑うのか。

ほんの小さな選択が、未来を決定的に変えていく。


東陵高校のニュースが流れてから、数日が経った。

 最初の二日は、廊下でも教室でもその話ばかりで、息抜きの雑談にも必ず「原因不明」という言葉が混ざった。

 けれど今は、話題はゆっくりと薄くなっていく。テストの範囲、部活の大会、購買の新作パン。

 “わからなさ”だけが、教室の机の裏に貼りついたガムみたいに、見えないところで残っている。


 黒板の端に残ったチョークの粉が白く光る。窓の外の空は低く、風は乾いている。

 僕はノートに今日の日付を書きながら、胸の奥の拍がわずかに整ってきたのを確かめた。昨日までのあの「ずれ」は、今日は薄い。


 前の席で、紙を閉じる音。

 篠宮さんがページの角をそっと揃え、顔を上げぬまま背筋を伸ばした。視線は机上、呼吸は浅くない。いつもの“調整された静けさ”。それを見ると、僕の呼吸も自然に深くなる。



階段


 放課後。六限の余熱が抜ける前の校舎は、昼間より音が遠く、足音だけがよく響く。

 昇降口へ向かう階段を、僕と篠宮さんは並んで降りていた。段の角は磨かれて少し丸い。窓から差す光は低く、手すりに長い影をつくる。


 そのとき——視界の隅に、ちいさな“これから”が差し込んだ。

 彼女の足首が、段の縁をわずかに踏み外す像。重心が前へ滑る。


「——」


 考えるより先に、からだが動いた。

 右手で彼女の肩を、左手で肘をとらえ、重心を自分のほうへ引き寄せる。体温と制服の布のこすれる音が一瞬近くなる。


 弾みで、掌が思わぬ場所をかすった。胸のあたり。

 反射で手を放し、一歩、二歩と下がる。


「ご、ごめん! わざとじゃない」


 階段の空気が少し固まった。

 篠宮さんは目を大きくして、すぐに瞬き一度。耳のほうが先に赤くなる。


「……ありがとう。助かった」


 ただ、それだけ。

 声は落ち着いていたけれど、語尾だけほんの少し柔らかい。僕はうなずくしかできず、視線のやり場に困って手すりの影を見つめた。


 数段分の沈黙。靴底が段に触れる音だけが、間を数える。



誘い


 昇降口の冷たいタイルに音が移る。靴を履き替え、ドアの前で一度足を止める。

 外の光は白く、夕方には少し早い。


「……相川くん」


「うん」


「今日、このあと、少し時間ある?」


 靴紐を結び終えて、顔を上げる。


「ある。どこか行く?」


「校舎裏でいい。風が通るから」


 校舎の裏手は、体育館の影が落ちていて、人通りが少ない。自販機の低いブーンという音と、金網越しの風だけが一定で、言葉が立ちやすい。



校舎裏


 ベンチに並んで座る。間に、拳ひとつぶんの距離。

 自販機で買った温かいココアの缶を手渡すと、彼女はふたつめの礼を言って、両手で包むように持った。缶の温度が指先の白さをやわらげる。


 しばらく、缶の中の液体の音だけが会話のかわりをする。

 やがて、彼女が息を一つ置き、こちらに顔を向けすぎない角度で口を開いた。


「……私、自分の気持ちに、あまり詳しくないんだと思う」


「気持ち?」


「うん。胸がざわついたり、言葉がうまく出てこなくなったり。最近、そういうのが増えた」


「……」


「本や映画でよく見る“あれ”なのかもしれないけど、自分のことになると、急に輪郭がぼやける」


 僕は缶を持つ手の力を少し抜いた。彼女の言葉はいつも端的で、嘘がない。


「……でも、なんで急に?」


 問いながら、自分の声が思っていたより柔らかいのに気づく。


 彼女は少しだけ視線を落とし、さっきの階段を思い出すように指先で缶の縁をなぞった。


「さっき、支えてもらったでしょ」


「うん」


「その瞬間、胸がざわついた。足は止まってるのに、内側だけが走ってるみたいに」


 ココアの缶が小さく鳴る。風が一度、金網を擦る。


「それをどう受け止めればいいのか、よくわからない。名前をつけるのは、まだ怖い。……でも、このままわからないままにしておくのは、もっと怖い気もする」


 缶を置き、彼女は両手を膝の上で組んだ。

 指の組み方は迷いがなく、でも少しだけ強い。


「だから——探ってみたい。これは何なのか」


「それを、俺と?」


「……うん。相川くんなら、と思ったから」


 返事の語尾が風に触れて、やわらかく崩れた。

 僕は、心臓の音が“ずれていない”ことを確かめる。代わりに、早さだけが少し上がる。整った早さ。嫌ではない。


「俺も、うまく説明できるタイプじゃないけど」


「知ってる」


「でも、たぶん——一緒にいる時間を、少しずつ増やしてみれば、見えてくるものがあると思う」


「例えば?」


「放課後を、十分だけ延長して歩く。目的地を決めないで。話題も決めないで」


「実験みたい」


「観察、に近いかも」


 彼女が、それはいい、と小さく笑った。笑う、と言っていいのか迷うくらい控えめな変化。けれど確かに、表情の温度が上がる。


「……もう一つ、試してもいい?」


「なに」


「手」


 差し出された右手は、指の節に小さな丸い傷が一つあるだけで、とても静かな形をしている。

 僕がそっと左手を合わせると、掌のあいだから、さっき買った缶の温度より低い体温が混ざって、ちょうどいい温度になる。


「どう?」


「少し、落ち着く。……相川くんは?」


「落ち着く。たぶん、さっきの階段より」


「階段の感想は要らない」


「ごめん」


 二人で小さく笑って、手を離す。手を離すと、空気が薄くなる。けれど、息苦しさではない。呼吸の仕方を覚え直すような薄さ。


「さっきの、質問の答えね」


「“なんで急に”の?」


「うん。急に、じゃないんだと思う。……少しずつ、溜まってた。今日、階段で零れただけ」


 それは、僕にも覚えのある感じだった。

 ニュースの音量が小さくなっていくいっぽうで、別の何かの音量が上がっていく。誰にも拾われない種類の音。二人のあいだだけで、確かに聞こえる。


「じゃあ、その“少しずつ”の続き、歩きながら探そう」


「うん」


「どっちへ行く?」


「決めないで、曲がる手前で決める」


「らしい」


「なにが」


「篠宮さんっぽい」


 彼女は答えず、立ち上がって一歩先に出た。

 その背中の線はまっすぐで、肩の高さは一定。歩幅は、僕が半歩だけ合わせると、すぐに重なった。



帰り道


 校舎裏を抜けると、住宅街の細い道に白い夕光が落ちていた。

 電柱の影が長く伸び、植え込みの葉の裏が時々ひっくり返る。


「相川くん」


「うん」


「“合図”は、今日は使わない」


「使わなかった」


「使わなかったことを、記録する」


「どこに」


「今、ここに」


 彼女は胸のあたりを指で一度だけ触れ、何も書かないノートに書き込むように目を伏せた。

 その仕草は、彼女の静けさの延長にあって、少しだけ僕の方へ曲がっている。


 分かれる角に着く。信号はまだ青になっていない。車は来ない。風は、一定。

 言うべき言葉は多くない。多くないから、こぼれない。


「……また明日」


「また明日」


 彼女は少しだけ顎を引いて、背中を向ける。振り返らない。

 背中の線が遠ざかるほど、歩幅の記憶が鮮明になる。僕は同じ速度で、別の方向へ歩き出す。


 ニュースの話題は少しずつ減っていく。

 代わりに、今日の会話の温度が、胸の内側でわずかに上がる。

 名前はまだつけない。つけないまま、確かなままで持って帰る。

 明日は、今日の続きから始めればいい。少しだけ延長した放課後の、その延長の先から。

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