ep.11 火のあと
ごく普通の高校生活を送っていた相川蓮。
しかし「未来を垣間見るような違和感」に悩まされ始めたとき、隣に現れたのは親友・小田切翔の軽やかな笑い声と、転校生・篠宮彩花の静かな視線だった。
平穏と非日常の境界線が揺らぐ教室で、三人の言葉が交差する。
それは友情か、恋か、それとも――もっと暗いものか。
誰を信じ、誰を疑うのか。
ほんの小さな選択が、未来を決定的に変えていく。
朝のニュース、電車、昇降口
通学路のコンビニのガラスに、赤い帯が走っていた。
テロップは淡々としているのに、文字だけがやけに硬い。
《東陵高校で発火騒ぎの男子生徒、未明に死亡 火傷によるショック・合併症か 原因は不明》
店先の人だかりは小さい。それでも、視線は同じ一点に吸い寄せられていた。
「亡くなったんだって」「原因わからないんだと」——断片が朝の湿った空気に浮き、すぐ沈む。
電車に乗る。車内の広告はいつも通りだが、会話だけが薄い。
「東陵だろ? ここから二駅の」
「ニュースの書き方、逃げてね?」
「いや、逃げるでしょ。どうせ詳しく言えないんだよ」
隣の席の女子がスマホを伏せたまま小声で言う。「自殺じゃないって」。
その一語が、車輪の刻むリズムと一緒に腹の底に落ちる。
昇降口。マットのゴムの匂いが濃い。靴音が、いつもより吸い込まれない。下駄箱で靴を履き替えるあいだ、誰も急がないのに動きが速い。廊下で軽くぶつかった男子が「悪い」と言い、相手が「大丈夫」と返す。やり取りは平穏なのに、背中の筋肉は緊張している気配だ。
教室の温度
扉を開けると、教室の空気は低かった。ひとつの教室の中に「静か」がいくつもあり、互いに触れていない。
「……亡くなったってニュース、マジ?」
「病院でって。合併症とか」
「ライターだったらそんなことならないし」
「でも“危険物なし”でしょ?」
「じゃあ何で?」
「——まさか、って言うとバカっぽいけど」
「ないでしょ。ただ、説明できないだけで」
笑い声はない。
代わりに、教室の後方で二人だけ少しテンションの高い声が混じった。
「やべぇな、超能力とかだったら熱すぎ」
「動画ねぇの? 見てぇんだけど」
「お前、不謹慎だって」
「だよな……いや、でも、もし本当にそうなら歴史的瞬間じゃね?」
「歴史的って言うなよ」
浮いた笑いが一度だけ起き、すぐ沈む。沈んだあと、そこに空洞が残った。席の配置は昨日と同じなのに、机の距離が少し遠い。
チョークが黒板を引く音が、やけに白く響いた。
鉛筆が紙に当たる音が、砂を擦るみたいにざらついた。
誰も“超能力”という単語を口にしない。さっきの二人でさえ、それ以降は言葉を濁している。「ありえないけど、もしかしたら」の手前で、舌が止まっている。
翔が僕の机に寄る。いつもの調子で肩を小突くみたいに来て、指先を机に置いた。
「……相川」
「うん」
「これ、もうネタじゃねぇな」
「うん」
「昨日までは“ライターだろ”で笑えたけど、死んだってなると、何言っても手前味噌になる」
「手前味噌ではないだろ」
「言葉、間違えた。……軽い言葉は、全部足りないって意味」
翔はそこで口を閉じ、指先で机の角を一回だけ押した。音は出なかった。
窓際、篠宮さんはノートを開いたまま、ペン先を紙に触れさせて止めている。視線は動かない。呼吸だけが、整っている。僕はその呼吸を見て、少しだけ呼吸のリズムを合わせた。
一限と二限の間、昼前の廊下
休み時間。廊下の掲示板には何も増えていない。何も増えていないことが、逆に情報みたいに見える。
「先生、何か知ってるのかな」
「知ってても言わないでしょ」
「“原因不明”って言葉、怖すぎない?」
「だよな。『見つかってない』と『存在しない』は違うのに」
「お前、急に哲学」
その脇を通り過ぎる二人が、わざとらしく明るい声を作る。
「やっぱ出るのかな、うちにも。火のやつ」
「来たら動画撮るわ。炎上で炎上」
「——お前、それ、ほんとやめとけよ」
「冗談だって」
“冗談だって”。
冗談という言葉の殻は軽いのに、中身はもう軽くない。
教室に戻ると、窓の向こうの空が白く光っていた。目を細めると、視界の周りがわずかに滲む。眠気じゃない。目を閉じると、滲みは逆に濃くなる。
胸の奥で、鼓動が一拍だけ強く、その次は薄く鳴った。電車のレールを乗り換え損ねたみたいに、リズムが半歩ずれる。理由はない。説明もない。——終わっていない感じだけが、形にならずに残った。
昼休み、机の上の温度差
パンを齧りながら耳だけで会話の温度を測る。
「友達のいとこが東陵なんだって」
「出たよ“友達のいとこ”」
「いやマジで。危険物はなかったって」
「じゃあどうやって燃えるんだよ」
「さあ。静電気? 摩擦熱?」
「教室で?」
「だから“原因不明”なんだろ」
別の机では、盛り上がり派の一人が眉を上げて言う。
「なぁ、もしホントにさ——」
「やめろって」
「いや、わかってるって。不謹慎なのは。……でも、なんか、世界がちょっとだけ動いた気はしね?」
「動いてほしくなかったって話」
テーブルの上で牛乳パックが潰れる音がして、誰かが「ごめん」と言う。すぐに「いいよ」が重なる。
言葉のやり取りは全部優しいのに、優しさの下に張ってある膜が、薄い。
翔がこっちを振り向く。眉が少し寄っている。
「相川、顔、白いぞ」
「……そう見えるだけだと思う」
「体育サボる?」
「サボらない」
「そっか。じゃあ、ペース落とせ。お前、何でもいつも通りにやろうとして死ぬタイプだし」
「勝手に殺すな」
そこでやっと、翔が少し笑った。笑いが出るまでに、三拍くらいかかった。
午後、教室の音
三限、四限、五限。針が動く。
黒板の文字がいつもより太く見える。先生の声が、少し遠い。プリントを配る紙の音が、普段よりよく聞こえる。
篠宮さんはノートに「今日」の日付だけを書き、構図を決めるみたいにページの余白を分けた。その仕草に救われる。いつもの動作の中にある慎重さは、たぶん彼女の防寒具みたいなものだ。
六限が終わる。椅子の脚が床を擦る音がいっせいに鳴り、すぐ止まる。帰り支度は早いが、廊下に出る足は速くない。
放課後の帰り道——違和感と気づき
昇降口を出る。空は白く濁って、影が淡い。風は冷たくないのに、音が遠くまで届く種類の風だ。
僕と篠宮さんは、取り決めなく並ぶ。歩幅は自然に揃うはずが、今日はうまくいかない。半歩、速い。半歩、遅い。自分の足が自分のものではないみたいだ。
「……東陵の子、亡くなったね」
「うん」
「“自殺ではない”って」
「うん」
「——“原因不明”」
会話は四つで止まった。その四つの言葉の外側に、言えないものが残る。
信号が青に変わる。足が地面から剥がれにくい。腰の奥が重い。胸の奥の鼓動が、信号の点滅とずれる。ずれが気になる。気になるから、さらにずれる。
交差点の手前で、僕は無意識に歩幅を乱した。半歩、外へ。
篠宮さんが、立ち止まる。僕を見る。彼女は、真正面から見るときと横から見るときで目の使い方が違う。今は、真正面。
「……相川くん」
「なに」
「顔色、さっきから変わってる」
「大丈夫」
「違和感、あるでしょ」
ごまかしの言葉が喉まで上がってきて、そこで止まった。
“違和感”という語が、あまりにも正確すぎたからだ。
悲しいとも、怖いとも、怒っているとも違う。終わっていない感じ。届いていない感じ。目の前の世界と、体の内部の時間が、少しずれている感じ。
「……ある」
「どんな」
「上手く言えない。心臓の音が、街と合わない。歩き方を忘れたみたいになる。あと、……終わってないって感じがする」
「“終わってない”」
「ニュースは終わったって言ったのに、終わってない感じ」
篠宮さんは視線を落とし、信号の色を一度だけ確認して、僕に戻した。
「わかった。しっかり覚えておく」
「覚える?」
「うん。今日の“終わってない”を、覚える。……“合図”に関係ないときでも」
信号が黄色になり、赤に変わる。通り過ぎた風が、少し遅れて頬に触れた。
人の流れが切れた。空気がいったん透明になる。
「相川くん」
「うん」
「いったん離れよう、は、今日も有効」
「うん」
「使わなかったけど、“使わなくてよかった”ってことを、使ったのと同じくらい、覚えておく」
「……うん」
少し歩いてから、彼女が言葉を足した。
「それと」
「うん」
「クラスで“盛り上がってた”二人、いたでしょ。……嫌いじゃない」
「え?」
「怖さをごまかす方法が、たまたま“盛り上がる”なんだと思う。——嫌いじゃないけど、近づけない。その距離感も、覚える」
僕は頷いた。彼女の言い方は、いつも正確だ。正確だけど、冷たくない。
「ありがとう」
「どういたしまして」
分かれ道の手前、植え込みの葉が風に押されて、一枚だけ裏返った。表の緑より、裏の白が長く見えて、すぐ戻った。
「また明日」
「また明日」
彼女は背中を向けた。振り返らない。振り返らないほうが、今日の“終わってない”を正しく持ち帰れる気がした。
僕はその背中が角で消えるまで立って、それから歩き出す。足取りはさっきより揃っている。街の音と、胸の音はまだ少しずれているけれど、ずれを自分で見ることができたぶん、怖さは薄い。
夜、ノート
机に座って、ノートを開く。今日の日付。その下に、行を詰めて短く書く。
東陵高校の生徒が亡くなった。自殺ではない。原因は不明。
クラスは静か。否定と半信半疑と、少しの盛り上がり。
僕は“終わっていない”感じがした。
篠宮さんは、それに気づいた。「覚えておく」と言った。
文字は小さく、間隔は狭く。余白を広げると、そこに火が入りそうな気がして、今日は詰めた。
窓の外で、救急車の音が遠くを横切る。音は遠いのに、鼓動は近い。
“終わっていない”は、まだ名前じゃない。名前にした瞬間、逃げ道がなくなる。だから、今日はまだ名前にしない。
明日、廊下に出る前に深呼吸を一つ。
歩き出すとき、半歩だけ乱す。何も起きなければ、それを覚える。
もし何かが起きそうなら——いったん離れよう。
その順番で。
その精度で。




