第1章 第7話 本気
「いよいよですね、お嬢様」
翌日の行きの車内。緊張した面持ちの美兎が隣でお腹を押さえていた。
「そんな気張る必要ないわよ。美兎に手伝ってもらうことは昨日で全部終わったから」
「そういうわけにはいきません。私の使命はお嬢様を守ること。万一お嬢様が危険な目に遭うようでしたら何をしてでも守らないといけませんから」
美兎が固く拳を握りしめながら語る。本当に真面目だなぁ……。
「……本音を言えば、お嬢様にこんなことをしてほしくありません」
いつもの心配性かと思っていたが、美兎の顔は緊張というより神妙に近い。左手でお腹を押さえ、右手で拳を握りながら続ける。
「だって……だってようやく手に入れた自由じゃないですか。ずっと望んでたけど手に入れられなかった自由。不本意な形かもしれないけど、確かにお嬢様は今自由なんです。なのに空泉家のためにわざと悪役ぶって煽って……結果として空泉家は救われるかもしれない。でもお嬢様は? 友だちを作りたい、恋愛したい、そういう夢は嫌われたら叶えられなくなる! ……今からでも遅くありません。今までの態度を謝罪し、しおらしくしていればいつかはきっと……!」
美兎が私の行動を批判することは少なくない。もちろん私のことを思ってのことだが、それ故に私の無茶な言動に逐一口酸っぱく注意してくる。
でもこんな美兎を見るのは初めてだった。こんなに感情的な姿を。家ではなく私個人のことを思っての発言を。そしてここまで美兎が私という人間を理解できていないことは初めてだった。
「……お兄ちゃん。ここで降ろして」
「え? まだ学校遠いけど」
「いいから降ろして」
学校から徒歩でニ十分はあろうかという地点で無理矢理車から降りる美兎。私も一緒に降りようかと思ったが、美兎の横顔を見て動くことができなかった。
何かをあきらめるような、それでいて何があってもあきらめないと決意したかのような顔を見たら私は……何も……。
「……そんなに床に落ちたごはんを食べたのが気に入らなかったのかしら」
「確かに昨日めっちゃ怒ってたもんなぁ。どっちかというと主人にそうさせた自分に対してって感じだったけど」
「だから辛抱してくださいってお願いしましたよね!?」。昨日の帰りの車内でぷんすか怒っていた美兎の姿が脳裏に浮かんだのか、運転席のトラが困ったように苦笑する。確かに美兎の立場を考えれば軽率な行動だったかもしれない。もう一度同じことが起こってもきっと私はごはんを優先するだろうが。
「悪いな、千代。美兎も悪気があるわけじゃないんだ」
「わかってるわよ、美兎のことは誰よりも。きっと心配をかけすぎたのね。そういう意味でも早く空泉の潔白を証明しないと」
元々美兎の胃は弱かったけど、事あるごとにお腹を押さえるほどではなかった。空泉が叩かれるようになったことで傷ついているのは私や両親だけじゃない。美兎やトラ、玉手さん。空泉グループに属する人間、取引先、その家族……。様々な人が謂れもない罪で日々苦しんでいる。なのに次期当主たる私が一人遊んでいるわけにはいかない。でも美兎に負担をかけ続けるのも嫌だ。
「ねぇトラ。私を降ろしたら美兎の足止めお願いできないかしら」
「……そんなやばいことしようとしてんのか。だったら悪いけど、俺は止めさせてもらうぞ」
「そうじゃないわ。美兎に伝えておいてほしいのよ」
美兎は私が自己犠牲で動いていると勘違いしている。自らやりたくもない悪役を買って出て、学生生活を犠牲にして空泉家のために動いていると。でもそうではない。
「私は全てにおいて本気よ。学生生活も、空泉の復興も、何一つとして手を抜くつもりはないって」
美兎やトラにも作戦は話しているが、最終目的は伝えていない。だって完全に、私事過ぎるから。
「それと一番大事なこと。私、普通に性格悪いのよ」
学校に着いたので降ろしてもらい、そのまま教室に直行する。昨日は私への無視のせいでやけに静かだったけど、今日は少しざわめきが起こっている。
なぜなら今日のいじめは昨日より一段階上。私の机の上に花瓶が置かれていたから。
「昨日誰かの命日だと聞いたので献花をしておきました。誰の命日でしたっけね?」
その傍らにはもはや犯人だと隠そうともしない馬場園さんとその取り巻きたちが。まぁ色々言いたいことはあるけれどまず一つ。
「センスがない」
「……は?」
「本当にいけばな準優勝? くだらない出来ですわ」
私も華道の嗜みはあるのでいけばなの良し悪しくらいはわかる。ただ瓶に白いカーネーションが三本挿さっただけのつまらない作品。いじめが目的だとしても、家元の娘の作品がこれというのはがっかりという感情が先に来る。
「まず前提として花瓶の質が悪いですわよね。わざわざ買ったんですの? これ。審美眼を疑われるからやめた方がいいですわよ。紛いなりにも家元の娘なのですから。それに花も少し傷んでいます。私への嫌がらせのために雑に選んだのでしょうが、そもそも人に見られるものだということをお忘れなく。生け方もただ挿しただけで美しさがない。一流なら質の悪いものを活かしてこそでしょう。私なら……」
「黙れ!」
馬場園さんの絶叫の後、頭に強い衝撃が襲った。同時に頭上から冷たい水が徐々に全身に滴っていき、温かな水が顔に垂れているのを感じる。
「ちょっと……さすがにそれはまずいって……」
「救急車……でも……そうしたら……」
取り巻きたちが一歩ずつ後ずさりながら怯えるように口をもごもごと動かしている。そして当の馬場園さんは……。
「いつもいつも……見下して……!」
鼻息荒く、肩を上下させ、今までとは違う殺意のこもった瞳で私を睨みつけていた。私を殴ったことで割れた花瓶を手にしながら。
「ただ良い家に生まれただけのくせに……どうして私が……こんな奴らに……!」
正直ここまでやってくるとは思わなかった。せいぜい中に入った水をかけてくる程度だと思ってたけど、まさか殴ってくるなんて。感覚的に血は出ているだろうけど、そこまで痛みは感じない。安い花瓶だったおかげで軽かったのだろう。あーあ、結局美兎に心配かけることになっちゃった。でも……。
「待っていましたわよ、本気のあなたを」
これでようやく、私が相手するに足る存在になってくれた。
「昨日一瞬その顔を見せましたわよね。私がコンクールのことを口にした瞬間、口調を乱してハンバーグを踏み潰してきた。今思い出してもむしゃくしゃしますが、用があるのはそのあなた。くだらないカーストなんかじゃなく、本当にやりたいことのために感情を剥き出しにできるあなたに会いたかった」
「あ……? あんた何言ってるの……!?」
「本気を出しきれずに死ぬのは無念でしょうと同情しているのですわ!」
懐に隠していた数十枚の写真。それを宙に放り、教室中にばらまく。私が用意した、馬場園さんを殺す一手。そしてそれは同時に私を殺す可能性にもなり得る一手。
もっと安全に歩を進めることもできたが、私はあえてこの手を選んだ。これが私のやりたいことだから。
「お互い本気なら仕方ありませんわね。さぁ、心中しましょう?」