第一章 幼年期編:あれはマオーですか?…いいえ、マザーです。
<Side:テレーゼ>
その日、パトライアス夫妻はそれぞれの用事で個々に外出しており…
自分の用事を済ませたテレーゼは帰路についていた。
子供ができる前であれば…
用事を終えた後、バルトと落ち合って外食にでも出かけたりしていたかもしれない。
だが、アルトが生まれてからは…めっきり、そういう機会はなくなっていた。
「(今度、久しぶりにバルトを
誘ってどこかに出掛けようかしら…
でも、アルトがまだ小さいからねえ…
もう少し大きくなったら三人でどこかへ
出掛けるのも悪くないかも…)」
そんなことを考えながら、テレーゼは帰路を急いだ。
アルトが生まれておよそ一年と半年。
時間はあっという間に流れていった。
元々、夫婦それぞれ忙しくしていたが、
この半年は特に多忙を極めていた。
休んでいた分、やらなくてはいけないことは溜まりに溜まっており…
それらを消化するために、
夫婦はどうしても家を空けることが多くなっていた。
だが、まだアルトは小さい。
いくら使用人たちが屋敷にいるとはいえ、
出来る限りは側にいたい…
アルトに寂しい思いをさせたくない…
それがテレーゼの本音だった。
「はぁ…これもあのバカ貴族のせいね…」
誰かに聞かれたら、
不敬罪で取り締まられかねない内容だが…
テレーゼは意に介した様子もなく独り言ちる。
ただ貴族に生まれたというだけで、驕り、高ぶる。
そんな貴族のことをテレーゼは嫌っていた。
テレーゼは貴族であるからというだけで、尊ぶことはしない。
それは権力に縛られない彼女の強さの証左でもあり…
権力を嫌い、自由を求めた結果でもあった。
「って、ヤバ…
もうこんな時間じゃない…」
自宅に近づくにつれ…
テレーゼの足取りは自然と速くなっていく。
道中でちょっとしたアクシデントに巻き込まれ、
想定よりも帰宅が遅れたことで…
テレーゼの気はかなり急いていた。
…
テレーゼが自宅にたどり着いた頃には…
既に深夜と言って差し支えないほど、夜は更けていた。
「また遅くなっちゃったわ…」
そう独り言ちりながら…
テレーゼが玄関の扉を開き、屋敷の中に入った…その時。
テレーゼは大きな物音と誰かの悲鳴のような声を耳にした。
「(!?…い、今の音は何!?…
か、階段の方からしたわよね?…
い、一体…何かしら?…)」
屋敷の中は明かりが一部付いているものの、
昼間ほどの明るさではない。
肝こそ据わっているが、テレーゼとて女であり…
心霊の類はあまり得意ではなかった。
内心では戦々恐々としながらも、
テレーゼはあたりを見渡し…
階段から何かが落ちてきていることに気づいた。
「(ん?…なに?…
誰か何か落としたの?…
いや、そんなわけないわよね…)」
テレーゼは最初、使用人の誰かが荷物か何かを落としたのだろうと思った。
だが、よく考えると、
もうかなり夜は更けており…
使用人たちもすっかり寝静まっている頃である。
「(え、じゃあ何が…って、まさか…)」
テレーゼは考えれば考えるほど…
思考が心霊の類に埋め尽くされていた。
「(無理無理無理ッ…ヤダヤダヤダッ…)」
テレーゼは思わず顔を背ける。
だが、それはテレーゼのいる階下に向けて落ちてきており…
それとの距離はどんどんと近づいていた。
「(ひぃ!?…近づいてきてる!?…
逃げ…って、ダメ!…上にはアルトが!…
今日はバルトもいないのに!…)」
テレーゼは逃げようと思ったが、
上階で眠っているはずの我が子の存在を思い出し…
震える身体を奮い立たせ、それに向き直った。
そして、ようやく…
落ちてきているそれが…その我が子であることに気づいた。
「え?…アルトッ!?」
思いもよらぬ光景に…一瞬、呆気に取られたテレーゼであったが、
次の瞬間には…既に身体が動いていた。
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<Side:アルト>
「(っ…痛え…ってあれ?
止まった?…)」
階段を転がり落ちながらも、
アルトはかろうじて意識を保っていた。
落下時の衝撃と痛みはかなりのものであったが、
それでも守るべき箇所をしっかりと守っていたため、
意識を失わずに済んでいた。
あともう少しでも落ちていれば、
どうなっていたかはわからないが、
それでも意識を保っていたのだ。
だが、あえて気を失ったふりをしていた。
なぜなら…
「お、お化けじゃなくて良かったけど…
でも、どうしてアルトが階段から?…
気を失ってるみたいだし…」
どのようにして受け止めたのかはわからないが、
受け止めたのは自分の母親であるテレーゼだった。
どう考えても、怒られる。
そう思ったアルトは狸寝入りを決め込むことにした。
しかし、狸寝入りは長く続かなかった。
「とりあえず…『我が望むは大いなる癒し。
彼の者に再び立ち上がる力を。
【上位治癒】』」
「(!!!???
なんだこれ!?…)」
暖かい光に包まれ、
身体の痛みが消えていく初めての感覚に…
アルトはひどく狼狽した。
「(今のはなんだ!?…
ありえない…そんなものがあるわけがない…
そんなものが…だとしたらここは…)」
ありえない。
そう思いながら、
アルトの頭の中では、
ひとつの可能性が思い浮かんでいた。
「(ここは…異世界だとでもいうのか!?…)」
…
テレーゼが魔法を唱えはじめた時、
アルトは「西洋風の痛いの痛いの飛んでいけ。」
的なものなのかななんて考えていた。
重度の中二病患者ならそれが何かの詠唱であると
気づけたのかもしれないが、
まさか魔法なんてものがあると思うわけもなく。
ここが異世界である。
転生したという事実に気づいたその時から、
その可能性を考えなかったわけではない。
だが、アルトは心のどこかで否定してしまっていた。
そんなのはありえない…
ありえるわけがない…と。
転生なんていう…ありえないことが既に起きていたのにも関わらず。
「(俺の頭も凝り固まってんのなあ…)」
気づけるきっかけはいくらでもあったのに、
それを見逃してしまっていていたのだ。
アルトは自分の頭の固さにちょっぴり嫌気がさす。
「(いや…でも…よく考えたら、
異世界転生なんて、
すぐに気づける方がおかしいよな…)」
一年以上気づかなかったことを棚に上げ、
アルトは最終的にラノベの主人公たちってスゲー。
なんてよくわからん結論に至った。
閑話休題。
話が脱線したが、状況を整理しよう。
部屋から脱走した。
→階段から落ちた。
→テレーゼに受け止められた。
→治癒魔法?らしきものを掛けられた。
→狸寝入り(今ここ)
「(…バレたら絶対怒られる。
どうしよう?…)」
この場をどう切り抜けるか、
思案するアルトであったが、
なかなか上手い言い訳が思いつかない。
それゆえに狸寝入りを続けていると…
爆音が鳴り響いた。
まるで雷でも落ちたかのようなそんな轟音であった。
だが、目を瞑っているアルトには
なにがあったのかわからず、
バレないように…と、アルトは
おそるおそる薄ーく目を開ける。
「(ッ!?)」
すると、そこには…鬼がいた。
いや、鬼なんて生易しいもんじゃない。
さながら幾万の人々を食い殺した悪鬼羅刹が如く。
般若のような顔をした変わり果てた
テレーゼの顔があった。
テレーゼは抱えていたアルトを羽織っていた外套でくるみ…
階段の一段目へと下ろす。
「アルト…ちょーっと待っててねえ…」
それは笑顔と呼ぶには…あまりにも怖すぎた。
本人は笑顔のつもりなのかもしれないが、
目がまったく笑っていない。
そして、テレーゼはくるりと回り、アルトに背を向けた。
アルトには何が起こったのかはわからなかったものの…
そこには先ほどの轟音を聞きつけた使用人たちが続々と集まってきていた。
「…ギルバートォォッ!」
鼓膜が破けるかと思うほどの…
それほどの声量だった。
「は、はい。奥方様。
不肖、ギルバーt…」
名前を呼ばれた侍従が前に出て、
返事が終わる前に、テレーゼに吹き飛ばされた。
ギャグマンガのように壁に突き刺さるギルバート。
ギルバートは渋めのイケメンだ。
そんな男が壁に頭から突き刺さっている状況。
不謹慎かもしれないが…ちょっと笑える絵面ではある。
「てめえらはぁ…揃いも揃ってよぉ…
いってぇ何してやがんだあぁ?…」
使用人たちの間に戦慄と緊張が走る。
すると、一人のメイドが前に出た。
「し、失礼ながら、奥方様…
それはいったいどうi…」
メイドも吹き飛ばされた。
男女お構いなしである。
「ごちゃごちゃうるせぇぞ!…」
無茶苦茶である。
聞いたのは自分なのに、答えるとこの言い草。
どこの暴君であろうか。
いや、暴君の方がまだ多少は
話が成立するからマシかもしれない。
「とりあえず…
一発ずつ殴らせろ…」
テレーゼが言い終わる前に、
使用人たちはちりぢりに逃げ出していた。
だが、テレーゼは逃がさない。
驚異的なスピードで追いつき、
一人また一人と吹き飛ばされていく。
あたりはさながら阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
…
使用人たちは床や壁、
天井に突き刺さったりと死屍累々。
(※誰も死んではいない。)
ひととおり大暴れし、
テレーゼは若干の落ち着きを取り戻した。
だが、その顔つきは未だ険しいままである。
「ギルバート!」
テレーゼは一番最初に吹き飛ばした
執事の名前を呼ぷ。
「…はい、奥方様。」
ギルバートは服についた埃を払いながら、
呼びかけに応えた。
だが、見るからにボロボロである。
哀れギルバート。折角のイケオジが台無しである。
「どうしてまだ一歳やそこらのアルトが
階段から落ちてくる!?…
お前たちは一体なにをしていたのだ!?…」
テレーゼがブチギレた原因がアルトにはわかっていなかったが…
どうやらそういうことらしい。
「(ん?…
てことは…もしかしなくても、
この状況って俺が原因か?…)」
この地獄絵図をつくった原因はアルトだった。
自分が原因だと気づき、
アルトは使用人たちに多少の申し訳なさが湧いてくる。
だが、さすがにあのブチギレている相手に対し、
真っ向から立ち向かえる勇気は…アルトにはなかった。
「(ごめん…みんな…骨は拾ってやるからな…)」
※誰も死んではいない。
「申し訳ありません。」
ギルバートは深々と頭を下げた。
「そんな言葉が聞きたいんじゃあない!
なぜこんなことが起きたのかと聞いているんだ!」
テレーゼは声を少し荒げながら言った。
「全て私の責任です。申し訳ありません。」
それでもギルバートは他に何も言わず、
ただ謝罪の言葉だけを述べた。
「ッ!…何も言うつもりはないということだな?…
なら、もういい…今日限りで暇を出す。
二度と私の前に…」
テレーゼがそう口に仕掛けた…その時。
「待ってください!お母さま!」
鈴のなるような声が響いた。
「今の声は誰だ!?」とばかりに、
声の発せられた方向に…
その声の主に視線が集まっていき、
その場にいた他の誰もが驚愕の表情に染まる。
「「「「「!!!!!!?????」」」」」
「(うう…思わず、声を出しちゃったよぉ…
でも、俺のせいでクビは
いくらなんでも可哀そう過ぎるし…
出来る限り努力は…いやでもやっぱ怖いぃぃっ!)」
内心ではガクブルになりながらも、
アルトは二人の間に割って入った。




