第二話 新しい世界
人界歴1090年。
ここは東の大陸、ヒューマニア王国領の中でも北東に位置する広大な森林。人々からはリルの森と呼ばれている。
朝霧が森全体を包み込み、静寂の中に木の葉が風に揺れる音だけが響く。
そんな森に一人で住んでいるモニカ・フリーダは、いつものように薬草を集めていると、奇妙な光景を目にした。
少し大きめな網目の籠が、木の下にポツンと置かれていたのだ。
モニカは、恐る恐るそのバスケットの蓋を開けてみる。
「えっ!?」
その中身を見てモニカは自分でもどこから声が出たのか分からないほど素っ頓狂な声を上げていた。
バスケットの中には、すやすやと静かに寝息を立てているまだ生後数週間程度の赤ん坊が入っていた。
この国では珍しい黒い髪を持ち、包まれた毛布の上には濁った宝石のようなものが埋め込まれた見たことのないブレスレットと、一通の手紙が入っていた。
モニカはその手紙を手に取り、中を開く。
手紙には、この子の名前が”アヤト”という名前であること、そして自分たちの代わりにこの子を大人に成るまで育てて欲しいという旨が書かれていた。
しかしモニカはこの手紙の内容に顔色を曇らせていた。
モニカはヒューマニア王国の中でも5本の指に入るくらいには強大な力を持つ魔法使いだ。その実力は、物心付く前から魔法という神秘の力に触れ、自身も魔法に関する探究心と、飽くなき努力によって掴み取った結果であると言えるだろう。
だがその弊害ゆえに、モニカにはそれ以外の知識が全くなかった。子育ては愚か、一般的な教養もまともに身に付いていないほどに。
それにモニカが暮らしているリルの森は、凶悪な魔獣が多数生息する危険な森だ。モニカですら少しの油断で命を落としかねない森で、自分よりも非力で小さな命を守り育てることなど出来る筈もない。
とすれば、近くの村でこの子を引き取ってくれるところを探すしかない。だが近年はどこも魔獣による被害が拡大しているため、そう簡単なことではないだろう。それでも自分と一緒にいるよりかは、恐らく手紙を書いたであろうこの子の親の願いを叶えることが出来るだろう。
そう思い至ったモニカは、籠を抱えると村がある方角へと足を向けた。
”それで本当に良いの?”
しかし、そんな考えがまるで針でも刺されたかのようにチクリと頭の中をよぎり足を止める。
そして頭の中に浮かんできたのは、最近ずっと見ている夢の内容だった。
どこまでも続く暗闇に囚われたモニカに手を差し伸べる人影、そしてその後ろには巨大な狼のような魔獣と小さなスライムがこちらを見つめている。その手を取り、永遠に続くと思われていた暗闇から抜け出そうとするところでいつも目を覚ます。
夢の中に出てくる人影と2匹の魔獣は、いったい何者なのか。その人影というのが、もしかしてこの赤ん坊なのか。
根拠は無い。期待も出来ない。でももしかしたら…。
そんな淡い希望がフッと心の奥底で湧き出る。
「アヤト…。アヤト・フリーダ、か」
モニカはクルリと反転して帰路へと着いた。その顔はいつもより少しだけ晴れやかな表情を見せていた。
そんな彼女に呼応するかのように晴れた霧の間から太陽の光が二人を眩しく照らしている。その光は、まるで二人の新しい出会いを祝福しているかのようだった。
◇
────、──────。
──────、─────。
耳元で誰かの声のようなものが聞こえる。
僕、紡木綾斗はその聞き覚えのない声に目を覚ます。
朧げな視界の中、最初に映り込んだのは茶色い天井。視界の端では光り輝く暖かい何かがユラユラと揺れている。
ここはいったい。それに直前の記憶が何だか曖昧だ。僕、どうなったんだっけ…。
しかし確認しようにも体を自由に動かすことが出来ない。まるで自分の体なのに自分のものじゃないような感覚だ。
「──────!」
再び耳元で誰かの話す声が聞こえたかと思えば、体全体が一瞬の浮遊感に襲われる。そのことに頭を困惑させていると、急に視界が少し暗くなる。
目線を上に上げると、そこには金色の長い髪に宝石のように透き通った青い瞳をした女の子がこちらを覗いていた。
えっと…誰?
一度も見たことが無い人だった。記憶を遡ってみるが、僕の知る限り親戚や近所の知り合いにこんな美人な女子は存在しない。
じゃあ一体誰なのか。どうやら僕は寝たきりみたいだし、病院の看護婦さんとかかな?
だが彼女の恰好は僕が知っているような白衣ではなく、少し薄汚れたローブを羽織り、その下にはベージュ色の見窄らしい服を身に付けていた。
何だか混乱してきたぞ?落ち着け、落ち着くんだ紡木綾斗。そう、まずは深呼吸。はい吸って~?吐いてー。
などという茶番を頭の中で展開してお茶を濁す。その甲斐あってか、段々と意識も記憶もハッキリしてきた。
僕はこの見知らぬ場所で目が覚める前、学校の屋上で嫌がらせをしたやつらを呼び出して3人全員を殺そうとした。
ボロボロになりながらどうにかリーダー格の奴だけ家から持ってきた包丁で腹を刺せたけど、そこで僕はたぶん屋上から落ちたんだ。最後に感じた全身で感じた強い衝撃。そして目を閉じる前に辛うじて見えた真っ赤な血溜まり。あれは僕の血だったんだ。
その後はどうなったんだろう。やっぱり警察とか救急車が来たのかな。だから今も僕は生きているのかもしれない。一瞬しか見えなかったから分からないけど、あの出血量じゃ助からないと思うんだけど。
でもこうして生きているんだから、奇跡的に一命を取り留めたってやつなんだろう。まあ目が覚めた部屋が全然病室っぽくないし、僕の看病をしてくれる人の恰好が看護婦さんじゃ無いんだけどね。
ん、ちょっと待てよ?僕がこうして生きてるってことは、僕が刺したアイツも生きてるってことじゃないのか?
クソ、やっぱり僕じゃダメだったのか。
彼女の自殺を止めることも出来ない。そして、彼女を自殺に追い込んだ復讐相手すら殺すことも出来ない。
アイツらの言う通り、僕は一人じゃ何も出来ない、力の無い弱者ってことなんだな。
「──────、──────────?」
そんな僕の様子を心配そうな顔を浮かべながら、金髪の美少女がこちらを見つめてきたかと思った次の瞬間、突然まるで大地震でも起こったかのように視界が左右にグワングワンと揺れ始めた。かと思うと次は上下に小刻みな振動が体全体に伝わってくる。
なな、何だ!?ちょっと、地震ですよ!身を隠さないと!
しかし僕の声は彼女には届いておらず、それどころか彼女はそんな状況にも拘らずこちらに微笑みを見せていた。
彼女は時折変顔を披露しながら僕を再びベッドの上に寝かせると、最後に手を振ってから部屋の奥へと消えてしまった。
ふむ。どうやら彼女は僕のことをただ抱っこしていただけのようだ。それなら視界が突然揺れた原因にも納得がいく。それと同時に突発的な大地震じゃなくて心底ホッとしている自分がいた。
しかしここで、とある違和感があることに僕は気が付いた。
僕を抱っこしていただと?
高校生である僕を?恐らく僕と同い年くらいの女の子が?笑顔で軽々と抱っこしている?あり得ない。
僕の身長は173センチ。体重は、最近測ってないけどたぶん60キロ行かないくらいだ。
それに比べて、目の前にいる彼女は同い年の女子にしては少し高めで身長は165センチくらい。
彼女が実は着痩せするタイプで、実は服の下が筋骨隆々なゴリマッチョでない限り、僕を抱っこすることなんてできないはずだ。
だが僕が抱っこされていた時に感じたあの柔らかい感触から推測するに、彼女はボディービルに勤しんでいるような肉体では無いだろう。
とすると、彼女は僕のことをどういう原理で軽々と抱っこしたんだ?
僕は、ふと直感的に自分の手を眺めてみた。
そこにはいつも見慣れた手ではなく、プニプニと丸みを帯びた小さな小さな手があった。
僕はそこでハッと息を飲みながら自分の体をペタペタと物色する。
ひと通り体を触って導き出された一つの答え。それは──。
僕、赤ちゃんになってるううぅぅぅぅぅ!?!?
◇
僕の名前は紡木綾斗。とある高校に通う高校生です!現在は赤ちゃんの姿になって知らない女の子のお世話になっています!
自分で言ってて訳が分からないけどこれは紛れもない事実だ。
僕がこの部屋で目が覚めてから今日で一週間ほど経つ。さすがにこのままじゃいけないと思い、出来る範囲で情報収集をしてみた。といっても基本ベッドの上だからかなり偏った情報だけどね。
単刀直入に言うと、どうやら僕がいるこの部屋は、少なくとも僕が今までいた地域ではない。おそらく海外の、それも人里から離れた場所だ。
彼女がまた抱っこしてくれたときに窓ガラスから外を見てみたが、たくさんの木が生えている光景しか見えなかった。
だからなのか、建物は鉄骨やコンクリートではなく、全て木で造られている。食器や家具に関しても同様だ。
それと、彼女の服装や光源にランタンを使用している状況から見るに、文明レベルも現代のものからはかなり劣っている印象だ。
「────────♪────────♪」
すると、部屋の奥から陽気に歌う金髪女子の歌声が響いてきた。相変わらず何を言っているのかは全く分からないけど。
これも僕の推測を裏付ける一つの要因になっている。彼女が話す聞き慣れない言語は少なくとも、英語やフランス語といった一度は聞いたことのある言語じゃない。
そういった観点から、ここは僕の知らない場所であることはほぼ間違いない。
しかし、どうして僕が高校生から赤ちゃんの姿に変わっているのか、その手掛かりを見つけることは残念ながら出来なかった。
しかしこの謎の現象についても一つ、心当たりがある。
それは、漫画やアニメなどで時々見かける異世界転生というやつだ。
何かしらの理由で死んでしまった現代人が、神様の力などを利用して今までいた世界とは全く違う世界、つまり異世界にて人生をリスタートすることだ。
僕もその手の作品は何度も見たけど、まさか自分の身に起こるとは。
でもどうして僕なんだ?生前の僕が神様と何か接点を持つような出来事は無かったはずだ。あるとしても、新年の挨拶で家族と毎年神社に行っていたくらいだ。
どんなに自分の過去を思い返してみても、やっぱり自分が転生した特別な理由は思い至らない。
まあそれは追々分かることだろう。そんな事よりも、当面の目的を考えなくてはならない。と言っても正直どうでもいい気分だ。だってこの世界にキミはいないのだから。
僕だけ生きていたって、キミがいなければ生きる意味は…。
そのとき、僕の中にとある考えが浮かんだ。
”もしかしたら、彼女もこの世界に転生しているんじゃないか?”
何の根拠も無い。か細すぎるほどの希望的推測に過ぎない。でも可能性は、ゼロじゃない。なぜなら、僕がこの世界に転生しているのだから。
だったら僕のやるべきことは一つ。
彼女を見つける。そして今度こそキミを幸せにする。それが僕がこの世界に転生した意味だ。
どんなに時間が掛かろうと、僕は絶対にキミのもとへ行くよ──!
この世界に来て一週間、初めて自分のやるべきことが明確に定まった気がした。
◇
それから僕はまずはこの世界のことについて知るために、文字を覚えることに尽力した。彼女を探そうにもこの世界のことを知らなくては探しようもないからだ。
幸いなことにこの家にはたくさんの本があった。そのため文字や言語習得するのにさほど時間は掛からなかった。勉強するのは嫌いじゃなかったし、陽菜のために少しでも早く習得して探しに行かないとという使命感もあったからだ。
文字を覚えたことで、僕の名前がアヤト・フリーダであること、そして僕を育ててくれたこの女の人は、モニカ・フリーダと言い、僕を赤ん坊の時に拾って母親代わりとなってくれたということを知った。まあ僕自身としては母親というよりも、姉という感覚の方が近い気がする。
それとこの世界についても知れた。
この世界の名前はモンステル。僕やモニカのような人族や、獣人族や竜人族のような亜人種族が、東西南北に分かれた4つの大陸それぞれに暮らしている。
僕らが暮らしているのは東の大陸。この大陸は自然豊かで、気候も比較的穏やかな大陸らしい。
東の大陸には国が二つあって、一つが僕たち人族が治めるヒューマニア王国。もう一つが獣人族が治める獣王国ビースターという国だ。
ちなみに僕らが住んでいるこの森は、リルの森というヒューマニア王国から北東にずっと行ったところにあるとモニカが言っていた。
それからこの世界には魔法と呼ばれる神秘的な力があることも知った。やっぱり異世界ファンタジーと言えば魔法だよね!まあ魔法の存在についてはもともと知ってはいたんだけど。
なぜなら、僕の母親代わりとなってくれたモニカは、何と魔法を使えるのだ!
炎や水を手の平から出すのはお手の物、他にも水を凍らせたり、風を吹かせたりも出来る。と言ってもその力を料理を作るときとか、風呂を沸かすときとか日常生活でしか使っていないんだけど。
だから意外とこの世界の魔法は誰にでも扱えるのかなと思っていたのだが、どうやらそういう訳でも無いらしく、魔法は、もともと魔力という特異な力を生まれつき備えていないと使えないらしい。
そんな選ばれた力を持っているモニカは、僕が思っている以上に凄い人なのかもしれない。
そして魔法を使えるのは僕ら人間だけではない。
この世界には魔獣と呼ばれる魔力を持ち、その力で魔法を使う生物が存在する。ゴブリンとかオークとか、僕らの世界で言うゲームやアニメに登場するモンスターといったところだ。
彼らはモニカのように魔法を日常生活を助けるために使用する種族もいれば、狩りや戦いのための戦闘手段として用いる種族もいるそうだ。
というのがこの5年間で僕が知り得たこの世界のざっくりとした内容だ。
しかし残念ながら僕のような異世界人や、転生者の存在についての情報は得ることは出来なかった。
そしてそのままさらに5年の時が経ち、僕は10歳になった。