第八話 同級生
思い切り声を上げて泣いた後は、やけにすっきりした気分になった。
のそのそと玄関に戻り、置いて行かれた紙袋に手を伸ばす。
こんなにセンチメンタルな気分なのにお腹は減るのね、と苦笑する。
包装紙を丁寧に開け箱を開けると、中には美味しそうな焼き菓子が整然と並んでいる。
どれにしようかと指をさ迷わせたあと、一つだけ手に取り慎重にパッケージを開けた。
パクッとひと口。バターたっぷりの生地が、ホロホロと口の中で溶けていく。
美味しい。少しずつ、大切に食べよう。
大丈夫。優しい甘さに癒されたから、もう大丈夫、落ち着いた。
偶然の再会。蘇ってしまった心のモヤモヤを昇華させるには、彼の力が必要だと思ってた、けど。
あれはただ単に、あの頃の私がやりたいことを叶えてもらっていただけ。
憧れなんかじゃなかった。
本当は、あの頃彼を好きだった。
そして今だって――。
バカだな、私。過去と決別とか、前に進みたいとか、色々とそれらしい理由をつけたって、結局今も変わらず篠原くんのことが好きなんじゃない。
気持ちを自覚した以上、篠原くんの罪悪感で成り立つような関係を続けるわけにはいかない。
彼だって、そろそろいい加減解放してくれよと。
でも、立場上自分からは言い出せないから、あんな風に伝えるしかなかったんだよね。
いいな、賭けじゃなくて、本気で好きになってもらえる子は。羨ましい。
私は彼の恋愛対象にはならないってこと、この間のファミレスではっきりと思い知らされたのに。
ポタッ――。
どろりとした嫌な感情が、心の中に小さなシミを作る。
一滴、二滴と急速に増えていく、墨汁みたいに黒い感情のシミ。
心が全て真っ黒に染まる前に――。
週明けの学校。
二限が終わり、一人寂しく学食にやってきた。
いつも一緒にお昼を食べている友人に、今日は先約があるから仕方ない。
学校の近くにある本格的なカレー屋さんへ、彼氏と腕を絡ませ楽し気に出かけて行ったのだ。
売店で適当にパンでも買って済ませても良かったけど、ヘルシーなものでお腹いっぱいにするには学食のが安いし、何より温かくて美味しい。
なるべく人の視線が気にならない端っこに腰かけて、一心不乱に麺をすする。
ザ・ぼっち飯。別に、大学はそんな人他にもたくさんいるから、全然寂しくなんてないしっ。
「ごちそうさまでした」と返却口で声をかけ踵を返した時だった。
「おっ……と――」
目の前がグレー一色で染まる。
トレーを返すのに意識が向いていて、すぐ後ろに人がいたのに気づかなかった。
そのまま横に捌けるのが正解だったのに、真後ろに振り返ってしまったから。
私に当たらないよう、グレーのスウェットを着た背の高い男性は、顔の高さまでトレイを持ち上げている。
うわ、申し訳ないし恥ずかしい。
「すみません!」と一礼しその場を立ち去ろうとしたら、その男性が慌てたような声を出した。
「え、待って! グッチ!? グッチだよな!」
見覚えのない人のはずなのに、昔のあだ名を呼ばれて身が固まる。
いや、あの忌々しいあだ名を知っているから、知り合いには違いないけど、一体誰だろう。
「俺、俺だよ、俺! 分からない?」
背が高いだけでなく、がっしりとした体形の男性は、ニカッと白い歯を見せて笑う。
オレオレと、ニュースで耳にしたことがある詐欺のようなことを言われても、残念ながら浮かばないものは浮かばない。
こういう時は適当に話合わせれば良いのだろうか。
うぅ……でもこの人身体だけじゃなくて声も大きいし、なんか苦手かも。
せっかく声をかけてくれたのに、こういう風に思うところが良くないんだってば! でも、どうしよう。
あれやこれやと考えているのが、ぼうっと立ち尽くしているように思えたのかもしれない。
通路は邪魔になるからこっちと手招きされて、言われるがまま空いてる席に、テーブルを挟んで向かい合わせに座った。
手にじっとりした嫌な汗が滲む中、勇気を振り絞って声を出す。
「あの、中学の誰かっていうことは分かるけど、名前までは……ごめんなさい」
「あーいや、こっちこそごめん。あれから何年も経ってるんだから、名乗らなきゃ分からないよな。若林だよ、覚えてない? 中二の時同クラだった」
名前を聞いて、少しずつ記憶が蘇ってきた。
クラスの中心とも言える、陽キャグループの中の一人、若林くん。
私を『グッチ』と呼び始めた人と一番仲良かった人。
直接会話した記憶はほとんどないけど、言われてみれば、人懐っこそうな笑顔が昔の面影を感じさせる。
「若林、くん……うん、思い出した。で、でも、よく私のこと分かったね」
「分かるよ。グッチ、あんまり変わってねーもん」
「うそ!」
見た目だけなら相当変わったはずだと自負していただけに、図らずとも大きな声を出してしまった。
そんな私を見て、元同級生は嬉しそうに眉尻を下げる。
「あはは。うそ。すげぇ可愛くなってるからびっくりした!」
「そ、そんなこと……」
言われ慣れない誉め言葉に、体温が急上昇する。
こういう時、なんて返せば良いんだっけ。
篠原くんのおかげでだいぶ慣れてきたと思ったけど、こうして目の前にすると、やっぱり、彼以外の男子と話すのはまだ緊張してしまうみたい。
「そうやって、すぐモジモジしちゃうところも変わんねーのな」
「そんなに、モジモジしてた、かな……?」
「してたしてた! 金子がちょっと揶揄っただけで、顔真っ赤にして俯いてたもんなぁ」
あ、金子くん……グッチの名付け親。
変なあだ名を命名されただけでも苦手度マックスだったのに、それに加えて金子くんのうぇーい! みたいなノリが実を言うとすごく嫌だった。
あの時さ、この時さと、特に交わりのなかった昔話に花が咲く。
「そういえば俺……ずっとグッチに」
「ごめん、若林くん。私三限取ってるからもう行かなきゃ」
「おう、分かった! じゃあさ、連絡先聞いてもいい?」
有無を言わせないような笑顔の圧を感じ、つい連絡先を交換してしまう。
若林くんとは、そのまま学食で別れた。
男子と、しかもあの苦い思い出がある、二年の時同じクラスだった人と連絡先まで交換してしまったことに、我ながら驚きを隠せない。
話のネタが出来たと、家に戻ってすぐに篠原くん宛てのメッセージを作成した。
『今日学食で懐かしい人に会ったんだよ!』
あとは送信ボタンを押せば……。
画面に少し触れるだけなのに、そんな簡単なことがどうしても出来ない。躊躇してしまう。
今までどうやってやり取りしていたんだっけ。
ファミレスで言われたことを思うと、自分からは連絡しづらい。でもそのくせ、一丁前に彼からの連絡を待ってしまう。彼女でもないのに。いつからこんな欲張りな人間に私はなったのだろう。
スマホが光る度に反応し落胆する自分にとうとう嫌気がさしたので、流行りの曲を流しながら、作り置きおかずの作成に勤しむことにした。
メッセージを受信する度に曲が途切れる。
それに合わせて集中力まで途切れてしまったけど、篠原くんから連絡がくることは結局なかった。
***
次の日、驚くことにまた学食で若林くんと遭遇した。
「グッチ! 偶然じゃーん!」
自分にはないテンションの高さで声をかけられて戸惑う。
「あ、若林君……」
「友達?」
隣で友人がこそこそと耳打ちをしたので、アイコンタクトと共に軽く頷いた。
「俺ちょっとこの子に用あるから先行ってて」
若林くんが声をかけたのは、中学時代と変わりない陽キャ軍団ぽい人たち。
ふぅーとかへぇーとか聞こえて、上から下まで舐めるように見られた気がするけど、自意識過剰というか、それこそ考え過ぎだよね。
「え、何! もしかしてそういうこと!?」
「なにが?」
「あーはいはい! 邪魔者は消えるから安心して」
「え、ちょ待って……」
一体、何が『はいはい』なんだろう。ニマニマしながら立ち去った友人の背中を呆然と眺めてると、「グーッチ」と快活な声が響く。
気が付くと真横に若林くんが立っていて、反射的に体を逸らしてしまった。
なんか今の感じ悪かったかも。
気を取り直し、口の両端を出来る限り上げて笑顔を作った。
「若林くん、あの、用って……?」
「グッチ、次の時間授業?」
「ううん、空きコマ」
「じゃあ、ちょっと場所移動するか!」
決して威圧的な態度なわけではない。彼の名誉のためにもそこはしっかりと否定しておきたい。
でもなんて言うか、やっぱり押しが強いと言うか笑顔の圧には逆らえず、言われるがままに中庭へと移動することに。
うららかな春の午後。
春光をたっぷりと浴びた木々たちは、浅緑の葉をそよそよと風になびかせている。
等間隔に並んだ木製のベンチには、楽しげに語らう男女のグループや、スマホや本を読んで静かに過ごしている人の姿があった。
唯一空いていたところを見つけ、若林くんと横並びで腰を下ろした。
しまった、思いのほか近すぎたと、腰を浮かし距離を取って再度座り直すと、若林くんがフハッと笑い声を上げる。
「さっきの子、グッチの友達? 絶対俺のこと勘違いしたよな」
「勘違い……?」
「そ。グッチの男だと思われたんじゃね?」
「え、男って……? あ! ち、ちがっ……!」
「反応おそっ!」
「ごめんね、あとでちゃんと否定しておくから!」
「んなの、わざわざ否定しなくていいよ。俺は別に困らないし」
「で、でも彼女さんとかに失礼になるんじゃ……」
「今は特定の子いないから別にいいよ」
特定の子、だって。そんな表現人生で使ったことない。
慌てふためく私をよそに、若林くんはなんだか余裕だ。
流石陽キャだと感心していると、「グッチこれあげる」と言って彼はチケットのようなものを差し出す。
「かぶぬしさま、ごしょうたいけん……? え? 株主様!?」
「そ、ファミルンランドの」
ファミルンランド――正式名称はファミリールンルンランドと言う。
県内にある中規模の遊園地で、地元の小学生ならば必ず一度は遠足で訪れたことがあるであろう、県民にとっては非常に馴染深い行楽地だ。
手渡されたチケットには、『ファミリールンルンランド』の文字の下に、株主様ご招待券と書かれている。
「これを、どうして私に?」
「親父がここの株主で、やるって言われたけど俺行かないからさ、良かったらグッチにと思って」
「株主! すごい、大富豪みたい!」
「食いつくのそこかよ! しかも大富豪って……」
よく分からないけど笑われた。でもたくさん友達いそうなのに、どうして私に?
チケットを眺めながら小首を傾げていると、「すごいのは、俺じゃなくて親父ね」と若林くんが言う。
「そうかな? でもやっぱりすごいと思う!」
「そう? じゃあそういうことで!」
陽キャは切り替えも早いらしい。
ニカッと白い歯を見せられて、それにつられるように私も自然と笑顔になる。
「グッチ、そうやって笑ってた方がいいよ」
「そ、そうかな? ありがとう」
「うん、その方が絶対可愛い」
「えへへ……若林くんはお世辞が上手なんだね」
「お世辞じゃない、ほんと」
視線がぶつかる。私を射抜くような鋭くて熱い眼差しと。
前にも同じような視線を向けられた記憶がある。
あれは確か、篠原くんの家に初めてお邪魔した時だ。
うまく説明は出来ないけど、何故だかとても居心地が悪い。
「もし一緒に行く奴いなければ」
「こ、これありがとう! もうすぐ授業だから私行くね!」
若林くんがなにか言いかけてた気もするけど、それを遮ってその場を後にした。