第七話 資格(side玲央)
『玲央くん、今日もとってもお利口さんにしてましたよ』
『手のかからない、本当に良い子だよね』
幼稚園の先生に始まり保護者、親戚、両親の知人友人etc.
大人たちは皆、口を揃えて俺をそう評した。
けど、別に俺は利口なわけでも良い子なわけでもない。
そうしてる方が、自分にとって都合が良いからそうしてるだけだ。
こっちは生きてるだけで精一杯なんだから、騒がしいことも面倒なことも、まっぴらごめんなんだよ。
ただそれだけだ。
俺には幸せな家庭の記憶はほぼない。
記憶の中にある両親は、いつだって互いを責める言葉のもと、派手に喧嘩を繰り返していた。
毎週のように付き合いだと言って飲み歩く父。
それに対し、子育てや家事を押し付けるなと、私はあんたの家政婦じゃないとヒステリーを起こす母。
車に乗れば、やれブレーキの踏み方が悪いだの曲がるタイミングが遅いだの、そんなくだらないことで常に言い争いになる両親。
父の平手打ちが、母の頬目掛けて勢いよく飛んでいく。
嫌な音がするたび、息をするのを一瞬忘れるほどの苦痛を感じた。
昔家族で住んでいた古めかしい社宅。爆発した感情の赴くままに壁を殴った父は、洗面所の白い壁に拳大の穴を開けた。
それを隠すために貼られたガムテープがやけに貧乏くさくて、みっともなくて、そんな人間が父親だと思うと情けない気持ちでいっぱいになった。
布団を被って、耳を塞ぎ、二人が鎮まるのをただじっと静かに耐えた日々。
『親が若くていいな、友達みたいじゃん!』
いや、全然。
『綺麗なお母さんで羨ましい!』
俺は全くそう思わない。
『お父さん、めっちゃ背が高くて脚長い!』
父の家系は皆背が高い。ただ単にそれだけ。
普通、俺は普通でいい。
普通のお父さんとお母さんが欲しかった。
人に羨まれるような、特別なことなんていらない。
普通に幸せであれば、それで良かった。
ヒステリックな金切声も、力で全てをねじ伏せようとする怒鳴り声もない、静かで平和な世界に行きたかった。
小六の秋頃、とうとう夫婦生活が限界を迎えたのだろう。
ある日突然、父は家を出て行った。
父がいなくなる直前の、小学生最後の運動会。
その日は珍しく一度も喧嘩にならず、両親共に最後まで上機嫌だったのを未だによく覚えている。
徒競走と障害走で一位を取ったら、二人でハイタッチして喜んでくれたのがすごく嬉しかったことも。
父のお気に入りだった、庭のシンボルツリーが葉を全て落とした頃、母から大切な話があると言われ、ようやく離婚を告げられた。
子供心になんとなく察してはいたものの、はっきりと言葉にして告げられたのは、実を言うと少しショックだった。
それと同時に、『今まで色んなことに縛られてきたから、私はこれから自分の好きに生きるんだ』と、母は俺に謎の宣言をした。
まさかそれが、十個年の離れた弟の世話を押し付けられることと、母親が子供よりも男を最優先にすることに繋がるとは、当時の俺は微塵も思っていなかったのだけど。
中二の三月。
久々に会いたいと父から連絡をもらい、迎えに来た懐かしい車に乗り込むと、助手席に見知らぬ女性が乗っていた。
後部座席で首を捻りながらも、美味い肉を食わせてやるとの誘い文句につられて、そのことには触れずに大人しくしていた。
十分も車を走らせれば、昔家族で何度か訪れたことのあるファミリー向けの焼き肉店が見えてくる。
軽快なハンドルさばきを見せ、手慣れた様子で駐車する父。
美味いって言ったって、どうせいつもの安いカルビだろと心の中で悪態をつきつつ、予約していたらしい個室に通される。
そこで、今まで見たことないほどの上機嫌な顔した父は、『お父さんの彼女なんだ』と助手席に座っていた女性を俺に紹介した。その女性は、父と同年代くらいか少し年下に見えた。
何をするにも自分は一歩下がり、父を立てるような物静かな女性だった。
もうすぐ蓮の誕生日だから何か買ってやってくれと小遣いをもらい、父の彼女だという女性が焼いてくれた肉を食べる。
良心的な値段の肉で腹が膨れたところで、父はしれっとこんなことを言い出した。
『来年玲央は受験だな。もうすぐ十五だ。知ってるか? 十五になると、自分で親権者を選べるんだ』と。
何を言いたいのか図りかねていると、さっきまで父の隣で黙々と手を動かしていた女性が、おずおずと口を開いた。
『玲央くん、良かったら……私たちと一緒に、暮らさない?』
『え、でも……学校は……』
穏やかで優しい声だったが、初めて会った人間からの急な提案に戸惑いを隠せない。
すると、すかさず父が口を挟む。
『転校することにはなるが、会おうと思えば友達だってすぐ会えるし、交通の便も良いところだから進学するにも便利だぞ!』
『でも蓮の保育園だってあるし……』
『蓮はまだ小さいから、母親と一緒が良いだろう』
『お父さん、さっきから何言って……』
父の彼女……名前すら覚える気もないその女性は、子供が出来にくい体質でとかなんとか話していた気がするが、そんなことはどうでもいい。
親の都合で勝手に離婚したと思ったら、今度は勝手な大人の都合で兄弟を引き離そうとしてるのか……?
確かに、蓮のことを邪魔だと思ったことは一度や二度ではなく、今までに数えきれないほどたくさんあった。
年が離れてるから、基本的に話は合わないし遊びも合わない。
にいに、そう呼ばれてまとわりつかれるのも正直言うとうざったい。
母親に頼まれて、部活の後に保育園の延長保育に迎えに行くのは面倒だったし、保育園の先生たちから偉いわね、と行く度に褒められるのは何となく気恥ずかしかったし。
でも――!
『これ返す。ごちそうさまでした』
父からもらった一万円札をテーブルに叩きつけるように置き、個室を飛び出した。
大きな声で名前を呼ばれた気もするけど、それどころではない。
ただひたすら、がむしゃらに走り、家路を急いだ。
ポケットの中で、スマホが何度も何度も繰り返し鳴っていた。
家に帰ると、母はリビングのソファで口を開けながら寝ていて、放置された蓮は、器用にタブレットを操作して静かに遊んでいた。
とりあえず自室に戻り、ポケットからスマホを取り出すと、大量の着信履歴の他に父からメッセージが入っていた。
『さっきは突然すまなかった。また会って欲しい』
うるさい。どうでもいい。
ベッド目掛けてスマホを乱暴に投げ捨てると、そこでふと我に返った。
しまった、頭にきて置いてきたけど、せめてあの一万円もらってくれば良かった。
引き出しにある五千円と合わせれば、蓮の欲しがってるブロックを誕プレで買えたのに……。
過ぎたことを嘆いても仕方ないと、机に座り引き出しを開けるが、ない。
どこにもないのだ、仕舞っておいたはずの五千円札が。
いやまさかな、まさかいくらなんでもそこまで。
嫌な予感が脳内を掠める。
荒々しい気分でリビングのドアを開けると、スマホをいじりながら『帰ってたんだ、おかえり』と、未だに蓮を放置したままの母が何食わぬ顔で言ってきた。
『お母さん、聞きたいことあるんだけど』
『なに?』
『俺の五千円知らない?』
『えーなぁにそれ?』
白々しい態度をとる母の視線は、さっきからずっとスマホの画面に釘付けだ。
『机の引き出しに仕舞っておいた五千円だよ!』
『やだぁ! 玲央こわーい!』
俺の剣幕にまずいと思ったのか、ようやく母と視線が合った。
『最後にもう一度聞く、俺の五千円は?』
『あのね……けいちゃんとのデートに着る服がなくてね、ちょっとだけ借りちゃった……』
てへっ――とでも言いそうな悪びれない様子に、俺は呆れて物が言えなくなった。
けいちゃんね、離婚してから何番目の男だ?
何度か家に来たことがあるその男は、俺たち兄弟にも割と好意的だった。
ただ、すぐ二人で部屋に籠っては鍵をかけてたけど。
日頃あまり料理をしない母だが、唯一その男のためには色々と趣向を凝らした手料理を振舞っていた。
蓮が美味しそうと手を伸ばすと、これはけいちゃんのだからダメ! と皿を取り上げていたのには心底呆れたが。
年下の甘え上手なその男に、母はだいぶご執心な様子だった。
***
『呼び出しに成功したら一人千円、告白に成功したら一人三千円』
昼休み。くだらない遊びを考えて仲間内で盛り上がっている浅はかな同級生に、そんなことやめろよって、笑って宥めるくらい、普段なら造作もないことなのに。
あの時の俺はそれが出来なかった。
むしろ、バカなクラスメイトから金を巻き上げてやろう、それくらいに思っていた。
とにかく、目につくもの、何もかもに苛立っていたんだ。
“賭け”を持ち出したクラスメイトたちは、それぞれが市議会議員の息子、地元で有名な地主の息子、大手銀行員の息子と、全員が何の苦労も知らない金持ちだ。
そんなやつらのおもちゃにされるくらいなら、俺がちゃんと責任持って付き合えば、それで全てが丸く収まるのだから。
傲慢にも、そんなことまで思っていた。
『れーおー、本当にやるのか?』
掃除の時間、近所に住む幼馴染の山中涼太が、ほうき片手に耳打ちしてくる。
『やるよ』
『でもさー、あのグッチだよ? あーいうおふざけって通じなくない? それに本気にされたらどうするんだよ?』
『構わないよ、そうしたらちゃんと付き合うし、大切にするつもり。でも多分、樋口さんは断ると思うよ、男自体苦手そうだから』
『えー! 付き合うって、玲央ってグッチのこと好きなん?』
『別に好きとか考えたことはないけど、好感は持ってるよ。係の仕事もいつも一生懸命だし、育ちだって良さそうだろ? それに、他の女子みたいに騒いだり色目使ってきたりしないし』
『うーん? 好感持ってるなら尚更やめた方がいいと思うけどなぁ』
『今切羽詰まってるから仕方ないんだ』
『園児の誕プレって、百均でよくね?』
『いつも邪険にしてるから、誕生日くらいはとことん甘えさせてやりたい』
『れおー! 優しいなーおまえは!』
『全然。俺はいつだって自分のことしか考えてないよ』
『いーや、お前は優しい奴だよ。でもなぁ……せめて告白するところは見に来ないよう、あいつらに釘さしておかないと』
『そうだな』
でもバカな奴って、釘さしてもやるんだな。
いや、救いようのない一番の大馬鹿野郎は、他の誰でもない俺だけど。
あの日、身勝手な理由から、何の罪もない純粋な女の子を傷つけた。
西日に照らされた、その子の深く傷ついた顔が未だに忘れられないでいる。
だから、彼女が望むならと、贖罪のつもりでリハビリに協力することを決めた。
彼女と会う目的はリハビリのはずなのに、いつの間にか、次の約束を心待ちにしている自分がいる。
自分と話すのは不思議と緊張しないと言われれば、悪い気がしないどころか、よく分からない優越感に浸って。
会う度に心を許してくれるのが嬉しかった。
膨れっ面すら可愛いと思った。
見たことない、知らない一面をもっと知りたくなった。
終いには、顔が見たくて仕方がなくなって、蓮を出しに使ってしまうほど。
嘘をついてまで、邪魔者を排除してしまうほどに。
白く小さな手に触れてみたい。
あの、軽やかに揺れる柔らかそうな髪にも。
はにかんだような優しい笑顔も、蓮に向ける穏やかな表情も、甘く可愛らしい声も、全部俺だけが独り占めしたくなる。
懐くのは俺だけでいい。俺以外の男になんて、永遠に慣れなくていい。
このままだと引き返せなくなる。
そう危惧して、引き返せるうちに突き放すようなことを言った。
淡い気持ちのまま、蓋をして、そのまま誰にも触れられないよう静かに葬り去るんだ。
人の心を弄ぶようなことをして金を得た俺には、誰かを好きになる資格はないのだから。