第六話 波紋
ピーンポーンと玄関ドアの呼び出し音が鳴る。
いらっしゃい! と勢いよく開けたドアの向こうに立っていたのは……。
「あれ? 篠原くんひとり……? レンくんは?」
「蓮は急にお腹が痛いって言いだしたから、ばあちゃんの家に置いてきた」
置いてきたって、そんな荷物みたいな……。
またあの懐っこい笑顔に会えると思ってたから、ちょっと残念。
それは紛れもない本心なのに、心のどこかでは篠原くんと二人で会えるのが嬉しいと思ってしまう。
「そうなんだ。病院行かなくて大丈夫なの?」
「布団かけないで寝てるから冷えたんだと思う。それより樋口さん、確認せずにドアを開けたらダメだよ」
「あ、はい……ごめんなさい」
淡々とした、静かな口調がかえって怖い。
篠原くんだって確信してたから開けただけなのに。
会ってそうそう謎のお説教をくらった私は、そんな怒らなくてもええやんと、これまた急に浮かんだ謎の関西人の気持ちで肩をすぼめた。
大学の入学式を終えて、二週間があっという間に過ぎた。
オリエンテーションの時に、有難くも向こうから話しかけてくれたおかげでさっそく友達も出来たし、その子が頻繁に顔を出してくれるから、初めての一人暮らしでも案外寂しくない。
新生活でお互いにバタバタしていて、篠原くんと会うのはあのお花見以来だったりするけど、あれからもメッセージのやり取りは度々続いていた。
それで今日は、レンくんと一緒にウチに遊びに来てくれることになっていたんだけど。
「レンくんが来られなかったのは残念だけど、せっかく来てくれたから上がっていって?」
入ってと手招きしてるのに、開いたドアの内側に立つ篠原くんは、そこから一歩も動かない。
その代わり「これ渡したかっただけだから」と、こげ茶色の紙袋を手渡される。
どこかで見覚えあると思ったら、地元で人気の洋菓子店のものだ。
なんとなく中のものは予測つくけど「これは?」と一応確認してみる。
「この前お弁当ごちそうになったし、蓮ともたくさん遊んでもらったから、そのお礼」
「そんなのいいのに!」
お礼されるほどのことをしたつもりはないし、お礼欲しさにやったことでもない。
びっくりして紙袋を突き返したけど、今度は靴箱の上に置かれてしまった。
両者に受け取り拒否されたお菓子がかわいそう。
「だから遠慮せず受け取って」
「でも……。もしかして、これ渡すためにわざわざ?」
「近くで用事あったし」
「用事って、ウチに来る以外にもってこと?」
「あーうん。まぁ、そう」
首の後ろを搔くような仕草の篠原くん。
歯切れの悪い返答に、これは絶対嘘だと確信した。
「二時間もかけて来てくれたんだから、せめてお茶くらい飲んで行って!」
「いやでも、流石に中に入るのは……」
一歩、さらにもう一歩と篠原くんは後ずさる。
「どうして? もう引っ越しして二週間以上経ったから片付いてるよ?」
これだけ言ってるのに、なおも渋る篠原くんに小さな苛立ちを覚え始める。
今日は久々に会えるって楽しみにしていたのに。
買ったばかりのトップス着て待っていたのに。
三人でお昼ご飯でも一緒に作ったら楽しいかなって。
始まったばかりだけど大学生活どう? とか。
どんな選択科目選んだの? 友達出来た? とか。
積もる話がたくさんあったのに。
やっぱり、レンくんがいないと私と会うのは嫌なのかな。
ネガティブな感情が浮かび、気持ちがしぼんでいく。
「しつこくしてごめんね。帰り気を付けて。じゃまた……」
すっかり気落ちしてしまい、最後は蚊の鳴くような声になってしまった。
玄関ドアを閉めようと取っ手に手をかけると、それを阻むように篠原くんがドアを手で押さえる。
「篠原くん?」
「ここじゃなくて、どこか外でお茶しよう」
***
どこに行こうか頭を悩ませたものの、結局はアパートからほど近い、先日も友人とお世話になったばかりのファミレスにやって来た。
本当はお洒落なカフェにでも案内したかったけど、それはまた今度ということで。
「まだこの辺開拓してなくて、ファミレスでごめんね」
「何で謝るの? 俺ファミレス好きだよ。それにしても開拓って……」
好きだよ。この言葉に反応して一歩遅れたけど、何故この人は肩を震わせてくつくつ笑っているのだ?
「何か面白いこと言った?」
オレンジジュースを口に含み首を傾げる。
「いや、言葉のチョイスが秀逸だなって。前から思ってたけど、樋口さんちょっと天然って言われない?」
秀逸と言いながら天然とは、褒められたのか、それとも。
「……言われたことはあるけど、どうして?」
「うん、だよね」
「嫌だな、それ絶対褒められてないもの」
「そう? 褒めてるのとは少し違うかもしれないけど、多分それ言った人は樋口さんのことをかわ」
言いかけて途中で止めたけど、その後何て言いたいのか分かるよ。
優しい篠原くんの代わりに私が言ってあげる。
「変わってるって言いたいんでしょ? 自分でも分かってるの、どこか人とズレてるって」
「え、いや……」
「いいのいいの。だから中学の時も、男子からいじられてたんだと思うし」
気を使わせないよう、自虐交じりで明るく言ったつもりだったのに、話題の選択をミスってしまったらしい。
篠原くんが顔を伏せてしまった。
せっかくここまで和やかな雰囲気だったのに。
ほら、こういうところが空気読めてないんだって!
ガヤガヤと賑わう店内で、このテーブルだけ非常に気まずい空気が流れている。
あまりにもいたたまれなくなって、一度席を立った。
ドリンクバーでおかわりをしてから戻ると、篠原くんがゆっくりと言葉を選ぶようにして語り始めた。
「……樋口さんは、その、俺と……話すのは、だいぶ慣れたっぽい、よね?」
「あ、うん、そうだね。レンくんのおかげもあると思うけど、何故か篠原くんとはそんなに緊張しないの。変だよね? あの頃はあまり話せなかったのに」
「あの時のことは、本当にごめん。今考えても、取り返しのつかないことをしたと思ってる」
「もうそれは何度も謝ってもらったからいいよ。それにこうして会って、リハビリに協力してくれてるでしょ?」
「……リハビリは順調?」
こちらを探るような声色と視線。
もし順調って答えたら?
もう会ってもらえなくなる?
あんなに懐いてくれてるレンくんにも二度と会えない?
漠然とした不安で心が落ち着かなくなる。
「順調だとは思う。この間友達の……あ、大学で出来た友達がいるんだけど、その子の彼氏とも少しだけなら話せたから……。で、でもまだ全然!」
「そうか。じゃあ、もうすぐリハビリも必要なくなるかな」
「どうして……?」
どくん――心臓が嫌な音を鳴らす。
「これから友達もどんどん増えるだろうし、その気になれば、樋口さんは彼氏だってすぐ出来ると思うよ」
「そんなの出来ないよ……私、全然モテないもの……」
「出来るよ」
「出来ないよ」
「出来るって」
「じゃもし、もし……私に彼氏出来たら……篠原くんとか、レンくんとは会えなくなる……?」
「俺だったら、彼女が他の男と会ってたら嫌かな」
「と、友達なのに?」
「友達でも、俺は嫌」
「じゃ、じゃあ、彼氏なんて作らないよ! これからもレンくんと遊びたいし、篠原くんとだってこれからも――」
途中で、ごくりと喉が鳴る。
だけど彼は、私の言葉を待たず、むしろ遮るように口を開いた。
「それは難しいんじゃない? 俺だってそのうち好きな人出来るかもしれないし」
好きな人。私みたいに賭けじゃなくて、篠原くんが本当に好きになる人。
そうだよね、こんなに優しくて素敵な人なんだもの、そんな彼すら虜にするような魅力的な人が、いつか必ず現れるに違いない。
私とは仕方なく過ごしているだけで、本来なら私みたいな何の取柄もない人間が、一緒に過ごしてもらえるような人じゃないもの。
苦しい。苦しくて息が出来ない。
「まぁ俺はともかく、樋口さんには幸せになって欲しいと心から思ってる。だから――」
篠原くんの笑顔はいつも優しくて温かい。
弟に向けるような穏やかな眼差しを、他人……しかも本来なら関わりたくないであろう私に対しても同じように向けてくれている。
今もそう。泣きたくなるくらい綺麗な笑みを浮かべて彼は言った。
弟想いの優しい人だから、きっと、心からそう願ってくれたのだと思う。
変なの、喜ぶべき言葉のはずなのに、水の中に入ったみたいに息苦しくなって、おまけに周りの音まで聞こえづらくなった。
ありがとうって言わなきゃ。
私も同じように、篠原くんに幸せになって欲しいと思ってるよって。
でも、頭に浮かぶだけで言葉が何一つ出てこない。
「樋口さん?」
「樋口さん!」
強い語気に、ようやくハッと我に返った。
「あ、ごめん。何か急にぼーっとしちゃって」
「体調悪い? 大丈夫? これ飲んだら出ようか、アパートまで送る」
***
「じゃ、また」
「うん」
ファミレスでのお会計、家まで送ってくれたこと、手土産のお菓子。
何一つお礼が言えなかった。
初めて二人で行ったファミレス。
楽しい時間になると思って、出発する時はあんなに胸が高鳴ったのに。
『それは難しいんじゃない? 俺だって好きな人出来るかもしれないし』
さっきからずっと、この言葉が頭から離れない。
私の心を完全に支配している。
少しずつ小さくなっていく彼の背中を呆然と眺めていると、瞳の奥にじわっと熱いものが滲んできて目の前が霞んだ。
まばたきをする度にぽたぽたと落ちていく雫が、下ろしたてのトップスに、無数の波紋を広げている。
誰もいないしんとした部屋に戻ると、突然何もかもが悲しくなって、今度はわんわんと子供みたいに声を上げて泣いた。