第五話 桜色に染まった日
公園から自宅までは徒歩数分。
自室に戻り、約束通り篠原くんに連絡を入れた。
「無事に着きました」と。
メッセージを送信した途端既読マークが付き、それとほぼ同時に『安心した』と短いメッセージが画面に表示された。
「はやっ!」
思わず独り言を言ってしまうほど早いレスポンスに感心していると、新たなメッセージを受信した。
『明日蓮とお花見行こうと思ってるんだけど、良かったら樋口さんも一緒にどうかな? 蓮が樋口さんと一緒に行きたいって言うんだけど』
これはリハビリなのか、お花見デートのお誘いなのか……。
レンくんいるから、デートではないな、じゃあ子守りかな?
名目なんて何でもいい。
「行く!」
***
「かのちゃん、おはようっ!」
私を見るなり、タタタ……と無邪気な笑顔で駆け寄ってくれたレンくんは、そのまま飛びつく勢いで私に抱きついた。
昨日会ったばかりだと言うのに、もう何年も会えなくて、今日が久々の再会と思わせるほどの熱烈な歓迎ぶりだ。
しかも、いつの間にか呼び方が“かのちゃん”になっているし。
名前呼びもいいけど、お姉ちゃんも捨てがたいんだよな。
「おはよう、レンくん」
「昨日、かのちゃん帰った後、おれさびしかった……!」
「そっか、ごめんね。今日はたくさん一緒に遊ぼうね!」
「ほんと?」
「うん、本当だよ」
腕の中にすっぽりと収まるサイズ感、きゅんとするような上目遣い、することなすこと全てがいちいちツボで、レンくんの可愛さにもうメロメロだ。
「蓮、いつまでくっついてる! 離れろ!」
たとえるなら、べりっと音がしそうな勢いで私たちは強制的に引き離された。
口うるさいお父さん……じゃなかった、弟想いの篠原くんの手によって。
「篠原くんもおはよう」
「おはよう、樋口さん」
いつもと変わらぬイケメンボイス。
だけど、ほんの少し苛立ちが含まれてるような気がするのは考え過ぎかな。
実は朝に弱いとか?
「兄ちゃん何だよ!?」
「『何だよ』じゃない。いいか? 女性にむやみに抱きついたらいけない。相手が不快だと思ったらたとえ子供だって――」
「ごめんなさい……」
レンくんの、今にも泣き出しそうなしょんぼり顔に胸が痛む。
子供相手にそんなムキになって怒らなくてもいいのに。
「俺じゃなくて樋口さんに」
「篠原くん、レンくんはまだ子供なんだから」
「幼児ならともかく、もう小三なんだから分別は必要だよ」
「はい、すみません……」
イケメンのシリアス顔は迫力ある。
早朝から何故かお説教されてしまい、私とレン君は出鼻をくじかれた気分になってしまった。
そんな時、ナイスなタイミングでバスが来てくれた。
まだ早い時間だったため、運良く前後に座れた私たち。
隠れてあくびをかみ殺している私とは違い、前方に座るレンくんは、眠気など微塵も感じさせないキラキラの笑顔で車窓の景色を楽しんでいる。
良かった、元気になったみたい。
今日の篠原兄弟は、パーカーに細身のパンツを合わせ、頭にはキャップを被った双子コーデ。
和服が似合いそうな、キリリとした涼やかな顔立ちの二人だけど、こんな風にカジュアルコーデも難なく着こなしてしまうのね。
でもいいですか。これは本当に偶然の一致なんだけど、平凡顔代表の私も今日はパーカーなんです。
まるで仲良しファミリーのお出かけみたいじゃない?
ひとりでニヤニヤしていると、急に篠原くんが振り返ったので、慌てて口を引き結んだ。
「樋口さん、さっきはキツイ言い方してごめん」
「ううん、私こそ口挟んでごめんなさい。ご家庭の教育方針とかあるもんね」
「……まぁ、それも多少はあるけど……大丈夫だった? 蓮に抱きつかれて、嫌な気持ちになったりは……?」
あんなに剣幕になっていたのは、男の人が苦手って言った、私への気遣いからだったんだね。
そっか。そっかぁ……。
「流石に知らない子だったらびっくりするけど、レンくんだったらいいよ」
「なるほどね、蓮ならいいんだ」
「え、なに?」
「そもそも原因作ったの俺だし、偉そうなこと言える立場じゃないよな……」
時間の経過とともに、人口密度が高まってきた車内。
もごもごした篠原くんの言葉は、反対側に座る人たちの賑やかなおしゃべり声で完全にかき消されてしまった。
「ごめん、さっきからちょっと聞こえずらいかも」
「何でもないよ」
あ、今のはちゃんと聞こえた。
何でもないと言うなら、それほど大した話ではないのだろう。
でもせっかくの楽しいお出かけだから、一言一句聞き逃したくなかったのにな。
三人で仲良くバスに乗り向かったのは、県内でも有名なお花見スポットになっている公園だ。
平日とは言え春休み中。園内は多くの人で賑わっている。
あっちもこっちも見渡す限り人、人、人!
小柄なレンくんが人波に埋もれてしまったら大変!
それだけじゃなくて、人さらいにでも遭遇したら……!!
「すごい人だよ! 篠原くんたち手つないだ方が良くない?」
「そうだな、はい蓮」
差し出された大きな手をスルーし、レンくんはあどけない眼差しで私を見上げた。
「おれ、かのちゃんとつなぐ」
「え、私……? いいよ!」
ふにゃっとした柔らかい手の感触に内心感動している私の横で、行き場を失った大きな手は寂しげに下ろされた。
「兄ちゃんは、かのちゃんとつなぎたいでしょ?」
「え、なんでよ? ね、ねぇ篠原くん?」
「そうだな、樋口さんも迷子になったら大変だから繋いでおこうか?」
「おお大人だもんっ! ま、迷子なんてなるわけないでしょっ!」
「残念、良いリハビリになるかと思ったのに」
「かのちゃん、顔真っ赤〜」
どぎまぎする私の横で、篠原くんはいつも通り冷静だ。
そうだよね、ただ単にリハビリの提案をしてくれただけだもの。
なのに……ひとりで顔を赤くして馬鹿みたい。
「もう良いから行くよっ!」
離れないよう小さな手をぎゅっと握り、スタスタと歩き出す。
混雑する人の隙間を縫うよう移動し、一通り桜を愛でスマホのカメラに収めると、キラキラしたレン君の純粋な瞳は広場の屋台にくぎ付けになった。
キョロキョロ何を見てるのかな。
チョコバナナ? それともわたあめ?
実を言うとお弁当を作って来たから、がっつり系は出来れば避けて欲しいところ。
「何食べたい? 何でも買ってあげる!」
もはや親戚のおばちゃん気分の私に、慌てた様子で篠原くんが口を挟む。
「樋口さん、俺買うから!」
「心配しなくても、ちゃんとお金あるから大丈夫だよ」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らす私。
「いやそうじゃなくて」
「チョコバナナ!」
ようやく狙いを定めたらしいレンくんを連れて、篠原くんは屋台の列に向かった。
なーんだ、私が買ってあげたかったのに。
しばらくして、にっこにこの満足気な顔でレンくんは戻って来た。カラースプレーがまぶされた、カラフルなチョコバナナを大事そうに持って。
「樋口さんは何食べたい? 今日のお礼に何かごちそうさせて欲しい」
「私? 私は……」
お弁当のこと言ってもいいかな?
今になって急に迷惑かもと思い始めたんだけど。
口ごもる私を、心配そうに覗き込む奥二重の涼し気な瞳。
「もしかしてつまらない? 蓮が食べ終わったらすぐ帰ろうか……?」
「ち、違うの! 実はお弁当を作ってきまして……」
「お弁当っ!」
口の周りがチョコでべたべたになったレンくんの嬉々とした声に、心底安堵するのだった。
「言ってくれれば良かったのに」
芝生コーナーに移動し、家にあった大きめのレジャーシートをリュックから出すと、篠原くんが広げるのを手伝ってくれる。
「ごめんね、何となく言いそびれちゃって。勢いで作って来たけど、後になって迷惑かな、とか考えちゃったし」
「迷惑なんて思うわけないよ。ありがとう」
「う、うん」
優しい声に穏やかな表情。
憧れた人の姿が今目の前にある。
しかも、あの頃よりもずっと近い距離で。
「おれも手伝う!」
「レンくんもありがとう、お手伝い出来て偉いね」
「あらあら、仲良さそうな兄弟でいいわね」
息の合った連携プレイ、偶然のお揃いコーデが功を奏したのか、通りがかりの老夫婦が、私たちを見て目じりを下げる。
「兄弟だって!」と嬉しそうにはしゃぐレンくんの無邪気な姿に、私と篠原くんも顔を見合わせほっこり。
無意識に視線が合ってしまったのが恥ずかしくて、「日が出てきて眩しいね!」なんて言いながら片手で顔を覆った。
すると篠原くんが、被っていたキャップを取り、私にすぽっと被せてくれる。
「違うよ! 今のは帽子を貸して欲しくて言ったんじゃなくて……!」
「いいから被ってなよ」
「……分かった、ありがとう」
今日は寒いと思ってパーカーを着てきたのに、午後になって日差しが急に出てきたから暑くて仕方ない。
暑さで赤らんだ顔を見られたくなくて、つばをぐっと深く被り直した。
ピンと張ったレジャーシートの上で、リュックの中身をお披露目すれば。
「うわ~! すげぇ~!」
カフェランチっぽい、使い捨て容器にぎゅうぎゅうに詰めてきたおかずを見て、元々キラキラの瞳がより一層の輝きを増した。
「レンくん、いっぱい食べてね。篠原くんも良かったら」
卵焼きに唐揚げ。タコさんウインナーとベーコンのアスパラ巻きは、可愛いピックに刺しておめかし。おにぎりの具は、梅と鮭の定番にした。
唐揚げとアスパラは前日に下ごしらえを済ませて、朝は出来るだけ簡単な調理で済むように。
横に張り付き監督していた母は、逐一あーだこーだ言って口も手も挟もうとしてきた。
いつもなら弾丸トークの母に負けてしまうけど、今回ばかりは譲らなかった。
唐揚げは揚げすぎだし卵焼きは焦げている、これじゃまだまだね、なんて母にはケラケラ笑われたけど、自分としては良く頑張ったと思っている。
「美味しい!」と次々におかずを頬張るレンくんの姿に、早起きしたかいがあったと頬が緩まる。
「こんなにたくさん……大変だったよね?」
「ううん、大丈夫だよ。ほら、昨日夕飯作るの手伝うって言ったのに何も出来なかったし、そのお詫びも兼ねて……的な?」
「美味しいよ。こんなに手の込んだ料理は久々かもしれない」
「そんな大げさな! 篠原くんだってカレー作ってたじゃない!」
「大げさじゃないよ」
だって、カレーなんて材料切って煮るだけじゃん? って冗談ぽく笑っていたけど、その表情はどこか憂いを帯びていたのが気にかかる。
頼りないけど、何もできないかもしれないけど、辛いことや大変なことがあるなら何でも聞くのに。
そうは思っても、私たちの関係性ではこれ以上踏み込めるわけもなく。
私への償いのつもりで、彼は会ってくれているだけ。
今日こうしているのだって、たまたま弟のレンくんが私を気に入ってくれたから。
子供のレンくんはともかくとして、高校時代も含め、男子と話すのは手汗かくほど苦手だったはずなのに。
あんなことをされて深く傷ついたはずなのに、その元凶である彼となら普通に会話出来るのはどうしてだろう。
自分でも不思議で仕方ない。
だからこそ、再会した日にリハビリを思いついて、今こうしているわけだけど。
二日連続で会って、楽しい時間を過ごして、しかもずっとこの時間が続けばいいなんて、そんな風に感じてしまうなんて。
いつか手放さなくてはならない関係なのに――。
***
すっかり軽くなったリュックを背に乗車した帰りのバス。
お腹が膨れた後は食休みと称し三人でボートに乗り、その後は大型遊具で遊び、たくさんはしゃいだレンくんは、出発して五分と経たずに瞳を閉じた。
「樋口さんも寝て大丈夫だよ」
後ろの座席から、気遣しげな優しい声がかかる。
振り返った私は、「篠原君こそ疲れたでしょう? 着く前に起こしてあげる」とにっこり。
ここぞとばかりにイケメン兄弟の寝顔、満喫しちゃおう。
そんな邪な考えを見透かされたのかは分からないけど、篠原くんはあっさり「俺眠くないよ」と。
「そっかぁ」
若干の残念さを滲ませつつ前に向き直すが、すぐに名前を呼ばれて再度振り返った。
「なに?」
「今日は本当にありがとう。蓮のこんなに楽しそうな顔は久々に見たかもしれない」
「レンくんほんと可愛いね。私ひとりっ子だから、こんな弟欲しかったな」
「邪魔に思う時もあるけどね」
「え! こんなに可愛いのに!?」
意外な返答に思いの外大きな声が出てしまう。
迷惑そうな視線が向けられた気がして、声をひそめた。
「意外だね、篠原くんってお父さんみたいに弟を可愛がってるじゃない?」
「まぁ、歳離れてるから可愛いけど、俺だって自由に遊びたい時もあるよ。そもそも今日だって、俺のバイトが休みなのをいいことに、前々から蓮の面倒見るよう母親に言われていてさ」
珍しく饒舌な篠原くんは続ける。
「それで自分は男とデートだし」
「お母さん、彼氏いるんだね」
「離婚してから男切れたことないのって、どう思う?」
どう思うって……返答に困る。
当たり障りのないことしか返せないよ。
「……お母さんモテるんだね。篠原くんと似てるの?」
「他人からは似てるって言われるけど、正直よく分からない」
「じゃあきっと美人さんなんだ!」
「別に、大したことないと思うよ」
弟想いの優しいお兄ちゃん、そんな彼の嫌みっぽい口調に驚いたけど、離婚したということはお父さんはどこか別の場所に住んでいて、お母さんは別の人とって、自分に置き換えたら複雑な気持ちになるのも分かる気がする。
苦々しい表情で語る篠原くんに胸が締め付けられたので、思い切って話題を変えることにした。
「私、入学式が終わったら学校の近くで一人暮らしするんだけど、良かったらレンくんと遊びに来て?」
「一人暮らし? 通わないんだ。まぁ、ちょっと遠いか」
「そうなの。通えなくはないけど、実家からだと最低でも二時間はかかるでしょ。お母さんは反対したけど、帰り遅くなるのもかえって危ないし、良い勉強になるからってお父さんがね……」
「蓮いなくても遊び行っていい?」
「え……う、うん! そうだね、良かったら来て! 男の子が家に来るって言うのも、多分だけど良いリハビリになると思う!」
「樋口さん、それ絶対、俺以外の男に言ったらダメだからね?」
「うん?」
今日の篠原くんは虫の居所が悪かったのか、度々お説教モードになるみたい。
でも、自分から振った話題に、思いの外食いついてくれたのが嬉しかった。
またいつものムズムズした気持ちになったけど、理由づけは出来ないままお別れの時間がやってくる。
「帰ったら念のため連絡して」
「うん、レンくんにまた遊ぼうねって伝えて」
待ち合わせした朝とは違い、帰りは最寄りのバス停で別れた。
降車ボタンを押す時も名残惜しくて、降りる直前に振り返ってもう一度手を振った。
気づいて手を振り返してくれた篠原くんは、傾いた日に照らされて綺麗な茜色に染まっている。
それを見た私の頬は、一瞬で昼間見た桜と同じ色に染められたのだった。