第二話 青春の痛み
あの日、思春期の繊細な乙女心は、深く残酷に傷つけられた。
同じく、思春期の多感な、ある少年のあまりにも無慈悲な行いによって。
中二の修了式を数日後に控えた、三月下旬のある日。
クラスメイトの篠原くんから、放課後空き教室に呼び出された。
何で私の連絡先知って……あぁ、クラスのグループトークから追加したんだ。
冷静を装ってみても、スマホを持つ手がカタカタと震える。
小刻みに揺れる画面を見つめながら、気持ちを落ち着かせるために胸に手を当て深呼吸を繰り返した。
密かに憧れを抱いていた彼。
その彼が、誰がどう見ても冴えない私を呼び出す理由って、何……?
今だって別に大したことはないけど、あの頃の私は今よりもっと、遥かにショボい見た目だった。
美人なわけでも可愛いわけでもない平凡な容姿に、高くもなく低くもない中途半端な背丈のぽっちゃり体形。
成績だけはどうにか平均より少し上をキープしていたものの、運動は苦手で、運動会や球技大会では完全にクラスのお荷物扱いだった。
進級に伴うクラス替えで、仲の良かった子と離れ離れになってしまった私は、結局最後までこのクラスには馴染めなかった。
人見知りで小心者の性格が災いし、ノリの良い陽キャばかりのこのクラスでは若干浮いていたと思われる。
同じ小学校出身の、正義感の強い心優しき委員長の成美ちゃんがいたからどうにか孤立は免れたけど。
せっかく話しかけてくれたから、何か面白いこと言わなきゃ!
みんなのノリに合わせないと場が白けちゃう!
考えれば考えるほど、会話のテンポが遅れてしまう。
そんな時は決まって母の言葉を思い出す。
『本当にとろいと言うか、のんびり屋と言うか』
クラスのみんなにもそう思われているのかもしれない。
だったら、余計なことは言わずに黙っていよう。
楽し気にじゃれ合うクラスメイト達を、クラスの一員として間近で見られるのが嬉しくもあり、時々悲しくもあった。
決していじめられていたわけではない(と信じたい)。
けど、何かといじられていた気はする。
『グッチ』という当時のあだ名が、何よりもそれを物語っている。
たとえそれが意に添わぬあだ名だとしても、スクールカースト上位の陽キャ男子が一度でも呼び始めたら、それこそ光の速さで広まりそのまま定着してしまうのだ。
男子が皆『グッチ』と呼ぶ中、篠原くんだけが『樋口さん』と呼んでくれたのがとても嬉しかった。
それだけじゃない。
男子たちがふざける中、彼だけが提出するノート集めを手伝ってくれた。それも快く。
一見すると、冷たそうにも感じる涼やかな顔立ちの美形なのに、親しみを感じさせる気さくな笑顔がとても素敵で。
男子に奪われた給食のプリン。がっかりしていたら、俺苦手だからあげるよって……。
単純にもほどがある。
たった数度の関わり。それだけで純情な乙女心は、幾度となくときめいてしまったのだ。
だって仕方なくない?
勉強も運動も出来て、誰にでも分け隔てなく優しい篠原くんは、スクールカーストなんて軽く超越した存在だったもの。
サラサラの黒髪にスラっと伸びた手足の彼は、紺色の詰襟が誰よりも良く似合っていた。
教室を出て人気のない寂しげな廊下を進み、空き教室の前ではたと足を止める。
まさかカツアゲじゃないよね?
爽やかな笑顔で彼に『出せ』と言われたら、大人しく聞いてしまいそうな自分が怖い。
今日はお財布持ってきてないんだよなぁ。
呼び出される心当たりがなさ過ぎて、とうとうそんな馬鹿なことまで考え始めた。
恐る恐る教室のドアを開けると、窓際、光を通しまくる安っぽいカーテンの前に険しい顔をした篠原くんが立っていた。
彼の背に強い西日が差して、まるで神に後光が差しているようにも見える。
私の姿を確認するなり篠原くんは表情を緩め、いつもと同じ柔和な笑みを浮かべた。
「樋口さん来てくれたんだ」
声変わりしたての少しかすれた声が、今日はやけに耳に響いてくすぐったい気持ちになる。
「あ……あ、うん。あの、ど、どうしたの?」
冷静になろうと努めても、意思に反して唇が勝手にフルフルと震えてしまう。
「突然だけど、樋口さんって好きな人いる?」
「へぇっ!?」
本当に突然すぎておかしな声が出た。
なんて返したら良いのか……。
まさか、あなたに憧れてますなんて、陰キャ代表の私が言えるはずもなく。
金魚みたいに口をパクパクさせていると、篠原くんは惚れ惚れするような真剣な眼差しで口を開いた。
「もし良かったら、俺と付き合ってもらえませんか?」
「きゅ、急にどうしたの!?」
「樋口さんに好感を持ってるから、っていう理由じゃダメ? だからもし嫌じゃなければ」
「ぜっぜひ! よろしくお願いします……っ!」
嬉しさのあまり、あっという間に沸く電気ケトルのように頭が沸騰して、彼の言葉に被せるように返事をした。
でも、それとほぼ同時に背後からも別の声が聞こえてくる。
「グッチ、マジかよ!」
「あ、バカ! 聞こえるだろっ!?」
反射的に声の方へ振り返ると、入り口のドアがほんの少し開いてるのに気が付いた。
おかしいな、さっきちゃんと閉めたはずなのに。
背後から私の名前を呼ぶ篠原くんは後回しにして、確認のためドアに近づく。
ドアの隙間に手を伸ばすと、「やべっ逃げろっ!」というどこか楽し気な声とともに、バタバタと慌ただしく廊下を走り去っていく数名の男子生徒の背中が見えた。
頬を掠めるヒンヤリした廊下の空気が、頭の沸いた私を冷静にさせてくれる。
やっぱりね、おかしいと思ったんだ。そういうことか。
悔しいとか、悲しいとか、怒りとか。
そんな負の感情じゃなくて、“スッと胸に落ちた”というのが最適な表現だと思う。
ただ、他の子よりも大人びて見えた彼が、こんな子供じみた安っぽいことに加担したのが意外で、少し残念に思ったけど。
と言っても、私たちはただのクラスメイト。
彼のことはよく知らない。
こちらが勝手に“クラスメイトの篠原くん”を理想化し、偶像のように憧れていただけ。
そしておそらく、必要以上に買いかぶっていた。
何でもそつなくこなすかっこいい彼だって、所詮はそこら辺にいる中学生男子と何ら変わりないのに。
「もしかして、罰ゲームか何か?」
納得の表情でくるっと身を翻すと、さっき窓際にいた篠原くんは私のすぐ真後ろに立っている。
驚いて私から一歩下がってしまうほど。
「……罰ゲームじゃないよ」
「じゃあ、みんなで何か賭けてた、とか……? 廊下にいた人たちがそうなの?」
長いまつげを伏せた篠原くんは無言を貫いている。
少しは申し訳ないと思っているのだろうか。
それにしても仲間を売らないなんて、また変なところで男を上げちゃうんだね。流石、後光が差してただけあるわ。
無言は肯定だって察した私は、「何を賭けてたの?」と冷静に問いかけた。
気落ちしてるなんて微塵も感じさせないよう、菩薩のように穏やかな表情で。
「お金」
案外ハッキリした物言いに唖然として心の中で突っ込む。
普通、こういう時は申し訳なさそうに言い淀んだり、聞き取れないくらい小さな声でボソッと呟くもんじゃないんかい! と。
何の取柄もない、浮いた存在のこんな私に、お金を賭ける価値あったんだ。
ジュース奢るとか、帰りにコンビニで肉まん買ってあげるとか、そんな子供だましの賭けじゃなかっただけでも良かったのかもしれない。
「分かった。これで成立したのか分からないけど、私もう行くね」
「樋口さん!」
「さ、触らないで……っ!」
向けられた憐みの視線は、見下されているような気がした。
言い訳なんて聞きたくないし、もしごめんなんて謝られたら、もっと惨めになるに決まってる。
掴まれた腕を勢いよく振り払う。
後ろは決して振り返らずに、何かを断ち切るようただひたすら走って昇降口へ向かった。
その後、どうやって家に戻ったのかは記憶にない。
よろよろと自室に入り、荷物を乱暴に投げ捨て、スカートのポケットからスマホを取り出して枕に放り投げた。
画面が光った一瞬、何かがポップアップ表示されているのを私は決して見逃さない。
別に彼だと期待したわけじゃない、けど。
無断欠席は厳禁! と、表示された画面を見てがっくり肩を落とす。
同じ美術部の友人からのメッセージだった。
「はは……」
心のどこかで、まだ期待を捨てきれていなかったのだと、騙されたのになんてバカな人間だと、自嘲するような乾いた笑みが零れた。
鼻の奥が少しだけツンとしたけど、どこかで現実味を帯びていないのか、不思議と涙は出なかった。
まだ恋とは呼べないけど、密かに、そして確かに育っていたほのかな想いは、無遠慮に暴かれただけでなくズタズタに踏み荒らされた。
その晩、急な寒気とともに高熱を出した私は、次の日から学校を休んだ。
結局修了式さえも登校出来ず、そのまま春休みを迎えることに。
二年生最後の思い出が、苦い残念なものになってしまったけど、良いこともあった。
修了式の日の夕方、クラスメイトの山中君が家を訪ねてきてくれたらしい。
らしい、と言うのは直接彼に会ったわけではないから。
彼が来てくれた時間帯に私は眠っていて、後になって母が教えてくれたのだ。
お見舞いにと持ってきてくれたプリンと、成美ちゃんからの体調を気遣うお手紙がとても嬉しかったのを今でもよく覚えている。
柔らかい雰囲気で、いつもクラスの雰囲気を明るくしてくれた穏やかそうな彼。
ほとんど言葉を交わした記憶はないけど、ああいう優しい人を好きになればよかったのに。
春休み終盤、始業式前の登校日。
クラス発表に若干怯えていたものの、不幸中の幸いと言えるのか、奇跡的に篠原くんとは同じクラスにはならなかった。
私は一組で、彼は七組。
先が見えないくらい長い廊下の端と端にある教室。
これなら普段彼との接点はほとんどないと、人知れずホッと胸を撫で下ろす。
学校行事でたまに見かけることはあったけど、卒業まで一切彼と接触することはなかった。
当然、廊下を駆け抜けていった人たち・・・が名乗り出るはずもなく、どこか釈然としない感情を、私は篠原くんただ一人に対してずっと燻ぶらせていた。
そのことを理由にはしないけど、中三の成績が怪しくなってきた私は、志望校のレベルを一つ下げる羽目になった。
卒業後は、男子の少ない地元の商業高校へ進学し、成績優秀な篠原くんは、県内有数の進学校である男子校へ進学したと風の便りに聞いた。
あのことは、家族はもちろん誰にも話せなかった。
それこそ母親になんて知られたら、私が鈍臭いからそんな賭けの対象になるんだと詰られるに決まってる。
それでも、ずっと負の感情を持ち続けるのは何気にしんどいもので。
いつしか私は、無意識のうちにあの痛みを胸の奥底に封印することに成功していた。
それに、少し大人になった今だから分かることもある。
あれはただ、いじられキャラの『グッチ』をからかって遊ぶっていう、陽キャ男子達のおふざけにちょっと乗ってあげただけなんでしょう。
正義感振りかざして止めたって白けるだけだもんね。
男子には、女子の分からないノリとか、仲間意識とかがあるもんね。
たとえば……そうたとえば、賭けで得たお金がないと一家全員飢え死にするとか、あのお金で病床に伏せる家族の誕プレを買ってあげたいだとか、そんな同情を誘うような理由があれば納得出来たのに。
この期に及んで、まだどこかであの淡い気持ちを捨てきることが出来ないのかと思うと、自分の愚かさに落胆する。
でもさ、誰だって思い出は都合の良いように美化しちゃうものじゃない。
もしあの時すぐに謝ってくれたら、言い訳の一つでもしてくれていたら、簡単に尻尾振って赦したのかな。
って、また無意味なことを考えてる!
大切なのは過ぎ去った過去じゃない。これから待ってる輝かしい未来でしょう?
そのために、償いとして彼に協力してもらうんだから。
ただそれだけであって、他には特別な意味なんて何もないのだから。
「待たせてごめん!」
多くの人でにぎわう午後の公園。
東屋のベンチを陣取り、ぼんやりと物思いにふけるわたしの頭上で、三日ぶりの爽やかな声が響いた。