第十六話 誕生日②
「わ、これすごく美味しい!」
「うん」
「フルーツの酸味と、クリームの甘さとのバランスがちょうどいいね!」
「うん」
「スポンジがほろほろって、口の中でとろけちゃうぅ!」
景観と日当たりの良い窓際の席に座り、色鮮やかなベリーのソースと、色とりどりのフルーツでおめかしされた、目まで楽しませてくれる素敵なデザートプレートを堪能する私たち。
さっきからずっと、玲央くんは笑顔で相槌を打つだけで、私ばかりベラベラと喋っている気がする。
それに、評論家ばりに色々語っちゃってるけど、実のところ緊張で味なんて全然分からない。
せっかくお洒落なカフェで、玲央くんの誕生日ランチしてるのにぃ……!
まだまだ半月以上あるからとのんきに構えていたら、例の誕生日はあっという間にやって来た。
のんきと言っても、やるべきことはきちんとやっておきましたよ。
プレゼントはもちろん用意したし、他にはムダ毛のお手入れとか、ダイエットとか、毎日クリームを欠かさずに塗って体中すべすべにしておくこととか……。
あのとんでもない約束を実行するための準備が主だった気もしないけど。
それでも一応、自分なりに抗って――もとい、代案をもとに交渉してみたんです。
『ね、ねぇ玲央くん、それはまた今度にしない? たとえばクリスマスとか……』
『なんでも遠慮なくって言ったのは花乃だよ? 俺のやりたいこと、いっぱいしようとも言ってくれたけど、あれは全部嘘だったの?』
『う……確かに言ったけど、でも……っ』
『こんなに待ち遠しい誕生日は、生まれて初めてかもしれない』
えも言われぬ圧、のようなものに押されまくった結果、残念なことに交渉は決裂してしまいまして。
一度言ったことは、簡単には取り消せない。
特に玲央くんの前では。今後気を付けよう。
一大決心のもと、今日と言う決戦の日を迎えたのでありますが――。
「待って! 今日は私が払うから!」
「いいよ、これくらい。いつも花乃の家で手料理ごちそうになっているし、材料費だって馬鹿にならないだろ?」
「でも、今日だけは絶対に私が払いたいの。お願い!」
ふぅ、危ない危ない。ちょっと目を離すと、すぐ伝票持ってお会計に行こうとするんだから。
無事に食事代を払い終えたら、次はどこに行こうかと店先で相談です。
「このあとどうする? どこか行きたいところある?」
「お腹も膨れたし、ゆっくりしたいから、花乃の家行こう」
「えっもう!? いくらなんでも早すぎない!?」
「行きたいところあれば、付き合うけど」
行きたいところとしばし考えて。
プレゼントは用意したし、手作りのお菓子も準備済み。
「ううん、特にはないかな。じゃ、じゃあ、そろそろ行ってみる……?」
「のんびり映画でも見ようよ」
「そ、そうだね! 面白そうなやつ、あったかもしれない!」
な、なーんだ。ウチに来る=さっそく……かと思ってたけど、なんだ映画かぁ。
全く、すーぐ紛らわしいこと言っちゃうんだから。
べ、別に食欲が満たされたら次は……なんて思っていたわけじゃないからねっ!
***
鬱陶しい梅雨の季節が過ぎたと思ったら、今度は茹だるような暑さの厳しい夏がやってきた。
カフェから数十分アパートまで歩けば、全身汗びちょびちょの不快極まりない状態になってしまう。
炎天下の灼熱地獄から解放されるかと思いきや、部屋の中はむわっとした熱気が籠っていてまるでサウナ状態。
お出かけ前にエアコンのタイマーをセットしておくべきだったと詫びて、手早くリモコンのスイッチを押した。
そして振り向きざまに「なにか飲む?」と尋ねれば、触れるだけの優しいキスが返事の代わりに返ってくる。
「んっ……。もう、玲央くんってば、質問に答えて?」
「ごめん、可愛いくてつい。で、なんだっけ?」
「暑いから、なにか飲むって聞いたのぉ!」
「さっき飲んだばかりだから、とりあえず大丈夫だよ」
「それなら、先にシャワー浴びちゃう? 私もだけど、玲央くんすごい汗!」
「……そうだね、シャワー借りようかな」
数秒間を置いたのち、玲央くんは納得した様子で同意した。
今の間は一体何だったのだろう。
「はい、これタオルと、玲央くん用に大きめのTシャツ用意しておいたの」
彼に手渡した無地の半袖白Tシャツは、先日プレゼントを探した時に一緒に購入しておいたもの。
「わざわざ俺のために?」
「うん、必要かなって」
「ありがとう、すぐ浴びてくる」
「ふふ、急がなくて大丈夫だよ、ごゆっくり」
彼が嬉しそうにしていると、胸の中がほんわかと温かい気持ちになって、私まで幸せな気分になれる。
他人同士なのに、それってかなりすごいことだ。
「すぐ済ませるから待ってて」
再び触れるだけのキス。
柔らかな唇の感触を残して、玲央くんは浴室へと向かった。
心なしか、いつもより軽やかな足取りで。
今のうちに部屋のチェックを……と思ったのに、あっという間に彼は戻って来てしまった。
真新しいTシャツ姿が眩しい、素敵。思った通り、ううん、それ以上にかっこ良くて、直視するのを少し躊躇ってしまうほど。
それに加えて、お風呂上がりの濡れた髪が、そこはかとない色気を放っている。
「シャワーありがとう」
「い、いえっ全然! そっそれより、ドライヤー使うよね? これ良かったらどうぞっ!」
ドギマギしながら、白いケースごとドライヤーを手渡す。
「髪乾かしてるから、今のうちに花乃も入ってきたら? さっぱりするよ」
「そそそうだね! 私もさっぱりしてくる!」
こそこそとクローゼットから着替えを取り出して、ぎこちない足取りで浴室へ。
自分の家なのに、これではまるで不審者のようではないか。
どうして玲央くんは、あんなにも冷静でいられるのだろう。
もしかして、自分で言った約束のことを、ここにきてすっかり忘れているのかな。
それはそれで、こちらとしては全くもって構わないのだけれど。
ワンルームなので、着替えとタオルを浴室に持ち込んでシャワーを浴びるしかない。
タオル一枚巻いただけの姿で出てきたら、流石の玲央くんもびっくりしてしまうだろうから。
濡れないよう、丸めた風呂蓋の上に衣類等を慎重に置いてから、シャワーの水栓をひねった。
鏡に映る、見慣れた裸体。
昔より痩せたと言っても、決して他人に自慢できるような体つきではないと思う。
もしこの後、そういう雰囲気になったとして、がっかりされないかな。
思っていたのと違うとか、それこそ、そういう気が失せたとか。
今更自分の体に羞恥など感じないけど、彼の反応を想像しては勝手に悲しくなってしまう。
でもそれは、玲央くんを好きだからこその女心なので仕方ない。
ここまできたら、どうしたって腹をくくるしかないのだ。
ある種の決意のようなものを決めた私は、ボディソープを丁寧に泡立てて、いつもより時間をかけて全身をくまなく入念に洗った。
髪の毛はどうしよう、せっかく綺麗にセットしたからいいかな。
朝洗ったばかりだもの、そっちは夜寝る前にしよう。
頭の匂いなんて、わざわざ鼻をつけてクンクン嗅いだりしないものね。
普段より時間をかけて施した、せっかくのメイクも落としたくないし。
体をピカピカに磨き上げたら、準備しておいたワンピースに袖を通す。
今はまだお昼を過ぎたばかり。
家だからと言っても、パジャマのような気の抜けた格好は好きな人の前では出来ない。
この日のために用意した、上下お揃いの下着を身に着けて、その上にはさらっとした素材のサックスブルーの色味が爽やかな、フレンチスリーブのワンピースを着ることにした。
浴室から出ると、ラグの上で寛いでいたらしい玲央くんと目が合う。
「あ、喉乾かない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ、お構いなく」
「じゃあ、冷蔵庫に色々入ってるから、飲みたくなったら自由に飲んでね」
「分かった」
ソファ代わりにしているベッドに腰かけて、なんとなく手持無沙汰でテレビのリモコンを操作する。
「なにか面白いのあったかなぁ。玲央くんは何系が好き?」
「俺はあまりジャンルに拘りないから、花乃が見たいやつかけて」
「うーん、そう言われると迷っちゃう、どうしよう……」
テレビ画面に夢中になっていると、いつの間にかラグの上にいたはずの玲央くんが私の背後に座っている。
いつものように、バックハグの体勢で。
「良い匂い」と、玲央くんが首筋に鼻を寄せる。
急に感じた熱い吐息に、心臓が激しく波打った。
「く、くすぐったい」
肩をすぼめてそれとなく逃れようとしたら、お腹に長い腕が巻き付いてきた。
薄着になって判明した、予想よりもずっと逞しい腕が。
お腹と言うか、胸の下と言うか、かなり際どいところをぎゅうっとしがみつくように抱きしめられている。
「な、なんか暑くない? エアコンの設定下げようか!」
「ちょうどいいよ」
「そうかな、やっぱり暑い気が……」
「その服、初めて見るけど可愛いね」
「そう? えへへ」
「花乃は何着ても可愛い、似合う。好きだよ」
「……っ」
イケメンボイスがこれでもかと耳元で炸裂している。
付き合い出してからの玲央くんはいつもこう。
キャラ変したのかと思うくらい褒め称えて、ひたすら私を甘やかすのだ。
でも正直なところ、ゾクゾクして妙な気分になるから、吐息を吹き込むように話すのはやめて欲しい。
「そうだっ! 忘れないうちに、玲央くんに渡したいものがあるの!」
巻き付いた腕を半ば強引に解き、クローゼットに隠しておいた大きめの紙袋を取り出した。
ショップのロゴが印字された紙袋を手渡すと、玲央くんの瞳がまん丸になる。
「これは?」
「お誕生日プレゼントです、開けてみて?」
えっへんと言わんばかりの得意顔で答えると、玲央くんは紙袋のシールを丁寧に剥がし、これまた慎重な手つきでリボンのついたラッピングバッグを中から取り出した。
綺麗な長い指先がリボンを解くのを、ニヤニヤしながら眺める私。
記念すべき初めてのプレゼントにと選んだのは、爽やかさ満点の白いボタンダウンシャツ。
長く飽きずに使ってもらえるよう、流行り廃りのないシンプルで定番の形。
半袖シャツや、柄ものと迷った結果、店員さんとも相談してこれを選んだ。
透明のフィルムに包まれたシャツを見ながら固まる玲央くんに、不安がよぎる。
どうしたのかな、嬉しさのあまり、声が出なくなっちゃった?
それとも、センスが悪くて、ショックのあまり固まっちゃった?
すごくお洒落そうな店員さんがアドバイスしてくれたから、何気に自信あったんだけど。
「あの、もしかして気に入らない?」
おずおずと尋ねると、口に手を当てた玲央くんが声を震わせた。
「違う。嬉しすぎて……」
「ほんと? 良かったぁ……! センス悪ぅって思われたのかと思って焦っちゃった! 改めて、お誕生日おめでとう!」
「そんなわけない……嬉しい、本当に……ありがとう」
じっくり、噛み締めるように呟いたあと、玲央くんは腕の中に私を閉じ込めた。
ふわっと甘い花の香りに包まれる。
使ったのは同じボディシャンプーのはずなのに、少しだけ違う香りが混じっている。
これはきっと、彼自身の香りだ。
「今日一緒に過ごせるだけで嬉しかったのに、さっきのお昼もそうだけど、まさかプレゼントまでもらえるとは思ってなくて」
未だ微かに声を震わせたままの玲央くんが、先ほどシャンプーを見送った頭に、子供が甘えるように頬をすり寄せてくる。
頭の匂い、大丈夫かな……。
広い背中に手を回しながらも、場違いなことが頭をよぎる私だけど、次の言葉にそんな瑣末なことはどうでも良くなった。
「どうしよう俺、花乃のこと、好きすぎて苦しい」
「苦しいってどこが!? 大丈夫?」
「ダメ、助けて?」
「え! どうしよう!? どうしたら良いのかな?」
狼狽える私をよそに、玲央くんは耳もとでふっと笑う。
「まだ明るいけど、もう我慢できない。いい?」
その“いい”とは、あれのことだよね?
勘違いじゃないよね?
こっちこそどうしよう!
お風呂でしたはずの決心が……!
返事をする前なのに、待てないと言わんばかりに唇を塞がれ、そのままベッドに押し倒された。