第十二話 覚悟(side玲央)
観覧車に乗るタイミングが掴めないって?
少し恥ずかしそうに俯いた彼女の姿に、鎖骨の辺りがキュッと苦しくなった。
何故樋口さんは、可愛い仕草ばかりして俺を切なくさせるのだろう。
初めて繋いだ女の子の手は、想像以上に小さくて柔らかかった。
頼りがいがあると思われたくて、余裕ある素振りで彼女の手を引き、そのまま自然な流れで隣へと誘導する。
ふわっと香る、シャンプーの良い香り、触れそうで触れられない距離から感じる彼女の熱。
熟れた果実を思わせる、プルプルの唇にドキッとして、慌てて視線を外せば、今度は真っ白な太ももが目に飛び込んでくる。
観覧車という密室で、年頃の男女が二人きり。
意識しすぎなのは否定しないが、むしろ、自分の理性を試されてるような気さえした。
一瞬だけよぎった、不埒な考え。
俺は何を考えてるんだ。相手は男が苦手だと悩んでる清純な樋口さんだぞ。
しかも、俺のせいでそうなったんじゃないか。
せめて指先だけでも、このままずっと繋いでいられたら――。
小さくて華奢な背中がどんどん遠ざかっていく。
忙しなく行き交う人並みに紛れて、終いには全く見えなくなってしまった。
『篠原くんとは、もう会わない』
言葉の意味が理解出来ず、ただ茫然とその場に立ち尽くしていると、バッグの中から着信音が聞こえてくる。
彼女かと思って急いでスマホを取り出すが、なんだコイツかと落胆のため息が漏れ出た。
「はい」
『れおー今何してる?』
「忙しくしてる」
『今から玲央の家行っていい? 俺暇しててさー』
「聞いてたか? こっちは忙しいんだって」
『確かにガヤガヤしてるな、出先か?』
「そうだよ」
『じゃ、帰って来る頃連絡してよ』
拒否権はないのかと眉をひそめつつ、このどうにも説明のつかない感情を誰かに聞いて欲しいような気になった俺は、地元の駅まで戻った時点で幼馴染の涼太に連絡を入れた。
***
自宅に戻ると、何があったのかは知らないが、やけにご機嫌な様子の母親から涼太くん来てるからと言われた。
蓮はちらっとこちらを一瞥し「おかえり」と素っ気ない一言。今日置いて行かれたことをまだ根に持っているのかもしれない。
そういえば、蓮にお土産買ってくるのを忘れてる!
しまった、一刻も早く樋口さんから離れないと、これ以上自分でも何するのか分からなくなっていたから……。
なんか、何もかもが疲れたな。
腹の底から絞り出すような深いため息が出た。
自室に入ると、まるで我が家のように寛いでいる幼馴染の姿がまず目に飛び込んでくる。
「おかえりーどこ行ってたん?」
「おい、人のベッドで食べるな、降りろ」
ベッドに寝そべり、スナック菓子を頬張りながら漫画を読んでいる幼馴染をラグの上へ引きずり下ろすと、「暴力反対!」と涼太は口をとがらせた。
「珍しく機嫌悪いな」
「いや、普通にいつも言ってることだし」
「まぁそうだけどさ、なんかあった?」
心配そうに眉尻を下げ、気遣わし気な様子でこちらを窺う涼太。
普段からあまり感情を表に出さないよう人一倍気を付けているし、それを簡単に見破られたことはほぼないのだが。
以前から人の感情の機微には敏感な奴だと思っていたけど、俺の変化にはことさら敏感なようだ。
こういうところが、付き合いの長い幼馴染だとしみじみ思う。
肩に下げていたバッグを床に下ろし、涼太の反対側に片膝を抱えるようにして座った。
「……キスした子にもう会わないって言われるの、どういう意味があると思う?」
「え! なになに、玲央誰かとキスしたの!?」
「いいから、質問に答えろ」
「たくっ、普段にこにこしてるやつの不機嫌な時っておっかねー。まあいいや、要するに口臭かったとか?」
「くさ……」
気遣いの出来る優しい男だと思ったが、さっきのは訂正する。自尊心を著しく傷つけるような返答に、俺は絶句した。
マジかよ。それは完全に想定外だった。
定期的に歯医者で診てもらっているし、今朝も念入りに歯磨きして出かけたから、その線は全く考えが及ばなかった。
きつねうどんに載っていたネギなら、ちゃんと残したぞ。
女の子に、しかも樋口さんにそんなことを思われていたら、もうこのさき生きていけないような気さえしてきた。
それともまさか、それが原因で、俺とは二人で会わないし連絡もしないなんて言い出したのか!?
本当は嫌だったのに、断りづらくて仕方なしに受け入れた……?
もし仮にそうだとしたら、婦女暴行の罪に問われるんじゃ……。
両手で頭を抱えながら項垂れていると、少しも悪びれていない……と言うより、この状況を楽しんでるとしか思えない嬉々とした声が降って来る。
「冗談だって! まさかそこまで落ち込むと思ってなかったからさ~! 爽やかさの代名詞とも言える、玲央の口が臭うわけないだろ!」
「……その冗談笑えない」
「まあまあ、勉強はからきしだけど、恋愛に関しては俺のが先輩だからさ、何でも遠慮なく話してみろよ」
縋るような気持ちで顔を上げると、そこには仏のように微笑む涼太の姿があった。
「実は――」
過去、樋口さんとの間に何があったのか涼太はすでに知っている。おかげで簡潔な説明で十分事足りた。
と言っても、かなり端的と言うか、差し支えない範囲でしか話してないけど。
「なるほどねー、でも良かったやん! グッチは玲央のおかげで男慣れしてきたんだろ?」
「別にまだ慣れちゃいない。前に比べたら少し、ほんの少し男と話せるようになっただけだ」
「こわっ! 話聞いてやってるんだから睨むなよなぁ! でもほんとに何が気に入らないん? グッチには感謝してるって言われたんだろ? もうそこでおまえの役目は終わったも同然じゃん?」
確かに、言われてみれば、涼太の言う通りだ。
俺と樋口さんは、リハビリの名目で会っていただけ。
元々、特別親しかったわけではないし、俺のことは必要ないと言われたら、そこで関係は終わる。
そもそも、先に突き放すようなことを言ったのは、俺の方じゃないか。
それなのに、向こうから終わりを匂わされた途端、どうにかしがみついてやろうと言葉を重ねた。
情けないほどに。
彼女にしてやれることは、もう何もないんだ。
そして、彼女のそばにいる理由も。
頭では理解しているはずのに、心にぽっかりと穴が開いたような、空虚な感情に苛まれているのは何故なんだ?
「ちなみに、さっき言ってたキスの相手ってグッチ?」
「言わない」
「もうそれが答えなんだけどなー。まあいいや、元気出せよ! 女の子ならいくらでも紹介するからさ~!」
「いらない」
「なんで! おまえのこと紹介してくれって子ならいっぱいいるぞ? ほら、この子とかどう?」
涼太に向けられたスマホの画面には、好感の持てる樋口さんの化粧とは異なる、やたら化粧の濃い人形みたいなまつげの女子が決め顔で映っていた。
呆れ顔で「だからいらないって」と手を振れば、「じゃあ、こっちの子は?」と別の女子を見せられる。
「玲央は多分こっちな気がする、清楚系の可愛い子。どお?」
「別に何とも思わない。樋口さんの方がよほど可愛い」
ポロリと出た言葉にハッとした。俺は今、一体何を――?
「やっぱりなー、玲央、おまえの中では答え出てるじゃん?」
「いや、今のは違う……今のは間違えて」
「何でそんな頑なに認めないわけ?」
「認めないも何もあんなことした俺には、樋口さんを好きになる資格なんてないだろ」
「樋口さんは許してくれたんだろ? なら関係ないじゃん!」
「関係あるんだよ」
「へぇー、じゃあこれから先、樋口さんに好きな男が出来てもいいんだ?」
「……それで彼女が幸せになるなら良いことだよ」
「どうかなぁ、樋口さんってなんだかんだ男慣れしてなさそうだから、悪い男に騙されちゃうかもしれないよなぁ。それこそ、うまいこと言うやつにコロッと騙されて、えっちなことされちゃったりしないかなぁ」
「おい……っ!」
「いいのか? おまえも男だから分かるだろ? グズグズ資格がとか言ってないでいい加減認めろよ」
本当はもう、とっくに自分の中で答えは出ていた。
そうでなきゃ、好きでもない子にキスなんてしたりしない。
俺にとってあれは、初めてのキスだった。
友達が、観覧車のてっぺんでキスしたカップルは何とかってうざいほど惚気ていたから、少なからず影響されたのは否めない。
もちろん、彼女が嫌がったら何もしないつもりでいたけど、あの時返って来た言葉に歓喜で胸が震えた。
気づいたら、自分でも止められなかった。
しっとりと潤った唇は媚薬みたいに甘く魅力的で、あんな風に確かめ合うだけでは物足りなくなっていた。
名残惜しい気持ちに蓋をして、どうにかあの場をやり過ごしたほどだ。
「玲央、いいから今すぐ会いに行け。取り返しつかなくなる前に」
「会ってなんて言えばいいんだ?」
「はぁ!? 逆に、『好き』以外になんかあるか?」
「俺が言って、今更信じてもらえるか?」
「そこはもう、信じてもらえるまで永遠に言い続けるしかないな!」
「永遠に、か……。分かった」
そうだ。信じてもらえないなら、信じさせればいい。
「行ってくるから、うまくいくよう祈ってくれ」
「おう! 振られたら俺が慰めてやるから安心して行って来い!」
親指を立てながら不吉なことを言う幼馴染を背に、俺は勢いよく部屋を飛び出した。
今日の天気と同じ、一点の曇りもない晴れ晴れとした気持ちで、際限なく溢れ出す彼女への想いと共に。