婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
揺れる水面には、ところどころ氷の膜がはっている。
ここに落ちれば――痛いのだろうか。
痛くて冷たくて、息が止まって。
静かに消えることが、できるだろうか。
シャロンは冬枯れの立木の並ぶ、願いが叶うと言われている精霊池にかかる橋に一人佇んでいる。
黒髪が風に揺れて、大きな深紅の瞳に涙の膜がはり潤んでいる。
胸を満たすのは悲しみではなく、どうしようもないやるせなさだった。
学園の制服を着ているだけなので、身を切るような寒さを感じる。
指先がかじかみ、頬がひりつく。息を吐き出す度に白く濁る。
こんな時なのに――未だに、寒さを感じるなんて。
それがとても、奇妙だった。
「シャロン。俺は真実の愛をみつけたのだ。だが、お前との婚約はフェルマー公爵家との繋がりを深めるためのもの。それを破棄することはできん。俺の言葉の意味、望みは――理解できるな、シャロン」
噛んで含めるような優しい声で、オリバーがシャロンにそう言ったのは、つい数日前のこと。
シャロンは最後の審判を待つ罪人のような気持ちでそれを聞いていた。
第一王子であるオリバーの婚約者に、シャロンが選ばれたのはシャロンが十歳の頃。
フェルマー公爵家は厳格な家だ。
王太子の婚約者に相応しいように。国母として恥じることのない女であるようにと、それからは厳しい教育の日々だった。
遊ぶことは許されず、少しでも家庭教師からの評価が悪ければ両親は失望の溜息をついた。
必要以上に話してはいけない。
口答えはしてはいけない。
辛くても辛い顔をみせてはいけない。
妹と両親の笑い声を聞きながら、シャロンは一人静かに王妃教育に耐えていた。
それがこの国のためになると、信じていた。
両親の期待にこたえたい。オリバーの役に立ちたい。
ただその一心だった。
婚約者に選ばれる前からシャロンはオリバーを見知っていた。子供心ながらに美しい人だと感じていた。
婚約者に選ばれたのは純粋に嬉しく、胸に芽生えた淡い恋心は月日を経るごとに育っていった。
けれど、シャロンが十六歳で貴族学園に入学したとき。
すでにその恋心はシャロンの知らない間に、実ることなく枯れるしかなくなってしまった。
既に貴族学園の三年生としてあと一年で卒業を控えていたオリバーの隣には、シャロンの知らない女性がいた。
エミリアという名の、愛らしくも妖艶な女性である。
オリバーと同級の子爵令嬢で、オリバーが入学した当初から仲睦まじくしていたようだと、噂に聞いた。
シャロンとオリバーは険悪な関係ではなかったが、そこには婚約という契約があるだけの他人でしかなかった。
恋人というような甘い間柄ではない。
貴族の結婚というのは大抵の場合がそんなものである。
親の決めた婚約で、結婚後も夫婦仲は冷え切っていて、男性には愛人がいるのは珍しいことではない。
だからシャロンは、何も言わなかった。
王太子の浮気を咎められるような立場ではないこともまず一つ。
それに、シャロンの役割はオリバーに愛されることではないのだ。
ただ――嫁ぎ、子種をもらい受け、子を生み血を繋ぐ。それ以外は、余計な波風を立てない賢い女でなくてはいけない。
この賢いというのも、国政には口を出さず、余計なことをせずにただ微笑んでいることができるという賢さである。
シャロンの心には大きな水瓶がある。王妃教育がはじまってから、シャロンはその水瓶の中に様々なものを押し込んできた。
両親の期待にこたえたい。
フェルマー家の名を穢してはならない。
試験のできが悪く、家庭教師に叱られて辛い。不出来だと陰で両親に呆れられて辛い。
妹のほうが優秀だと、比べられるのが苦しい。
少しでいいから、褒めてほしい。
認めて欲しい。
私を――愛して欲しい。
寂しい。オリバーに、愛されたい。私のどこがいけないのだろう。
顔立ちだろうか。それとも、性格だろうか。私は、誰にも愛されないのかもしれない。
もっと頑張れば。もっと、王妃として相応しい女になれば――オリバーは愛してくれるのだろうか。
いつしか水瓶はもう、水があふれるほどに一杯になっていた。
ピシピシと罅が入り、砕け散り、押し込めたものが波のように溢れて体を満たしていく。
「駄目だった。何もかも、駄目だった。頑張っても、頑張っても……なにも、ならなかった」
呟く言葉が、心の中に黒いインクの染みのようにぽつぽつと落ちて広がっていく。
オリバーの浮気など気にもしていないという顔をして、学園での日々を過ごしていた。
誰にでも笑顔で。上品さを、心がけて。心の痛みなど気づかれないように。
いつしかシャロンは陰で、『鉄の女』と呼ばれるようになっていた。
そのようなシャロンの態度は、オリバーに対する無関心さか、もっといえば無感情に見えたらしい。
オリバーが学園で人目を憚らず堂々とエミリアと愛を語り合っていても、素知らぬ顔で学園生活を送り、オリバーとすれ違うときでさえ、一歩下がって笑顔で礼をする。
シャロンのそのような態度は、『さすがはフェルマー公爵家のご令嬢』という賞賛の声と『彼女には感情がないのではないか』という懐疑的な声、双方があがった。
何も――褒められたことなどない。両親はオリバーの浮気の噂を聞きつけて、それはお前に女としての魅力がないからだとシャロンを叱責した。
感情が、本当になければよかったのに。
そうしたら、心臓がひりつくような痛みも、血液が逆流するような苦しさも、味わうことなどなかった。
少しでも口答えをすると、両親はシャロンを不出来だと罰した。
食事が抜かれたことは幾度もあるし、暗い部屋に閉じ込められたこともある。
凍えそうなほどに寒い雪のふる庭に、追い出されたこともある。
いつしかシャロンは、聞こえのいいことしか口にできない人形のようになっていた。
誰にでも笑顔で、感情を殺して、優しい言葉をかける。
オリバーにもそうだ。学園の行事でも、パーティーでも舞踏会でも「先約がある」と言われれば「わかりました」とにこやかに頷いた。
先約など、どうせ浮気だ。案の定、シャロンの物わかりがいいことに甘えるように、オリバーはエミリアをどこにでも同伴するようになった。
そしてとうとう、「卒業式の前にかたをつけたいのだ」とオリバーに呼び出されて――死ねと命じられた。
直接言われたわけではない。けれど、言葉の含む意味ぐらいは理解できる。
婚約破棄はできない。そんなことをしたらオリバーの傷になる。
オリバーの浮気は今や誰もが知っている。ここで婚約破棄などしたら、オリバーは少なからず非難されるだろう。エミリアの立場もいいものにはならない。
けれど、シャロンが自ら望んで死を選べば、それは変わってくる。
オリバーが言っていたのは、死ねではなく、消えろということだったのだろう。
どこかに姿を消せと。例えば、オリバーの浮気を苦にしてシャロンが別の誰かと駆け落ちなどをしたら、非難されるのはシャロンである。
夫が浮気をしていようが、耐えるべきが貴族の妻。王の妃というものだ。
それすら耐えられずに逃げ出すなど、国母としては相応しくない。
だが、逃げろとは、身分を捨てて消えろとは――死ねと、同じだ。
シャロンには行く当てなどない。勉強以外はなにもしてこなかったシャロンには、心を許せるような友人は一人もいない。まして、恋人などいるわけがない。
ならば、死のうと思った。
私が消えたら少しでも、誰かが悲しんでくれるだろうか。
何のために生きているのかさえ、もうわからなくなっている。
心に大穴があいて、そこを風が吹き抜けていく。冬の寒さよりもずっと、シャロンの心はとっくの昔から冷え切っていた。
一歩足を踏み出す。踏み出す足が震えた。
ここにきてもなお、死への恐怖は体にべったりとはりついている。
それでももう、なにもないのだ。生きる理由は、なにも。
両親はシャロンを愛さなかった。オリバーもシャロンを愛さなかった。
だから――もう。
踏み出した足が空を切った。そこにはもう、橋板がない。
階段から足を踏み外したように、ずるりと落ちていく。
ざばんと音を上げて、水飛沫をあげて、学園の裏庭の林の奥にある精霊池は、シャロンの華奢な体を呑み込んだ。
◇
シャロンが目覚めたのは、美しい薔薇の花で埋め尽くされた豪奢なベッドの上だった。
花が敷き詰められているので、一瞬棺桶の中にいるのかと思った。
棺桶の中にいるのに意識があるというのもおかしな話だ。
だとしたら、ここは死後の世界なのだろうか。
頭が僅かに、ずきりと痛んだ。死後の世界でも痛みを感じるものなのか。
シャロンが起き上がると、体の上から赤い薔薇の花弁が散った。
花は床にまで広がっている。シャロンが眠っていた場所は、ベッドというよりも祭壇に近いのかもしれない。
「ここは……」
身に纏っているのは、湖に落ちたときの制服ではない。
美しいドレスが着せられている。倦怠感に眉を寄せながらなんとかベッドから降りると、物音を聞きつけたのか扉が開いた。
顔を出したのは、侍女のような女性だった。
その女性が慌てたように大声をあげる。
「アダム様! シャロン様がお目覚めになりましたよ!」
アダム――。
聞き覚えのある名だった。
ややあって部屋に慌てたように入ってくる男性の姿がある。
その男性は薔薇の花の中に所在なく佇んでいるシャロンを抱き上げると、再びベッドに寝かせた。
優しく手を取り、手の甲に唇を落とす。
「ようやく目覚めてくれた。私の、眠り姫」
鋭い目つきをした男性である。切れ長の青い瞳に、月の光のような銀の髪。
背が高く、体格もいい。美しい流線型の耳飾りをつけていて、首から頬にかけて黒い紋様が入っている。
美しいが、どこか退廃的で、恐ろしい雰囲気のある男性だ。
一目見たら忘れることのできない容貌をしているのに、どうにも思い出せない。
アダムという名前は聞き覚えがある。それに、その銀の髪や、青い瞳も。
「……アダム・グロス様?」
「よく、私だと気づいてくれた。嬉しいよ、シャロン」
ぱちぱちとまばたきをして、まじまじとアダムを見上げる。
アダム・グロスはシャロンの知る限りでは、線の細い病弱な少年だった。
シャロンと同級であったが、滅多に学園に顔を出すことはない。
一年の半分以上、熱を出して寝込んでいるのだという噂だった。
グロス辺境伯家の一人息子であったが、辺境伯家を継ぐにはいささか体が弱すぎる。
王都に来たのは学園に入学するためというよりも、療養のためというのが大きいらしい。
二、三度、言葉を交わしたことがある。
アダムは学園でいつも一人きりでいた。多くの場合は保健室のベッドで寝ていた。
アダムとはじめて言葉を交わした日のことはよく覚えている。
あれは、夏の終わりのことだ。フェルマー公爵家に呼び出されていたシャロンは、オリバーの浮気について両親にあれこれと聞かれていた。
父は「まだ殿下は子爵令嬢などに熱をあげているのか」と言い、母は「そんな娘の家など、潰してしまえばいい」と怒りを露わに父に進言していた。
そして最終的には、シャロンが全て悪いという結論になった。
シャロンはひたすらに謝っていた。その時点でシャロンの心は限界を迎えていて、心の不調が体に出るようにまでなっていた。
夜は眠れず、食欲もなくなった。時折、耳鳴りがして、体には常に倦怠感がつきまとっていた。
更に追い打ちをかけるように、秋のはじまりを祝う舞踏会で、オリバーはシャロンとは踊らずに、エミリアと何曲も踊っていた。
表向きは何でもないような顔をしていたシャロンだが、口にできない感情が胸にあふれて、ふとした瞬間、緊張の糸が切れるように――目眩がして、倒れてしまいそうになる時があった。
人前ではそのような無様をさらせない。
そうなってしまう前に、少しだけ休ませて貰おうと、保健室に向かったのである。
保健室を任されている保健医には「月の障り」だと嘘をついた。
そう言っておけば、体調不良の理由をあれこれ尋ねられずにすむ。
保健室にあるベッドにしばらく横になっていると、保健医は「模擬試合中に怪我人が出たらしいので行ってくる」と行って、保健室からいなくなった。
保健室にはベッドが数台ある。ついたてがおかれて、ベッドの間は区切られている。
今のところ、横になっているのはシャロン一人きりのようだった。
他に誰もいなくてよかったと思いながら目を閉じていると、保健室の扉が開いた。
中に入ってきたのは、具合の悪そうな少年だった。
彼がアダムだと知っていたシャロンは、ベッドから起き上がってアダムの元に向かう。
「先生は、怪我人の元に行ってしまって。今は私しかいないのです。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。少し横になれば、よくなりますので」
今にもアダムが倒れそうに見えたので、シャロンはその手をひいてベッドまで案内した。
シャロンも体調が悪かったのだが、少しばかり横になったので、目眩はおさまっていた。
アダムをベッドに寝かせて、丁寧にかけものをかける。
アダムは線の細い美少年である。シャロンとは同い年とは思えない。
失礼だとは思いながらも、どこか、弟のように感じていた。
誰の役にも立てない。誰にも認められないという気持ちにいつもつきまとわれていたシャロンにとって、アダムの手助けができることは嬉しかった。
「あなたは、シャロン――様、ですね」
「私たちは同級生なのですから、シャロンで構いません、アダム様」
「シャロン様はアダム様とおっしゃるのに?」
「私はそのほうが、落ち着くのです。ですが、私のことはシャロンとお呼びください」
「では、シャロン。……どうして、私に親切にしてくれるんだ?」
「具合の悪そうな方を助けるのは当然のことです」
「皆が私を避けるのにね。……病がうつると言う。うつるような病ではないのだけれど」
寂しそうに、アダムは言った。
孤独とは、シャロンにとってもよく馴染んだ感情だった。
だからアダムの気持ちは、よく分かるような気がした。
その額に手を当てて、熱の有無を確認する。さほど熱くはない。むしろ冷たいぐらいだった。
「熱はなさそうですね。アダム様はご病気なのですか?」
「昔から、光に弱いんだ。長い間、光の下にいると熱が出る。活動ができる時間が極端に少ないというだけで――体は健康なんだよ、おそらくは。けれどそれでは困るから、治療をしている最中でね。たまに、頑張りすぎると、倒れてしまいそうになる」
「そうなのですね。それでは、不自由な思いをされていることでしょう。ゆっくり、お休みください」
「待って」
退室しようとするシャロンを、アダムは引き留めた。
「すまない、シャロン。……少しだけ、傍にいてくれないか。私が、眠るまで。……心細くなってしまって」
頼られている。
それが、シャロンにとっては何よりも尊く、嬉しいことだった。
久々に、体に体温が巡る。頬が紅潮して、本来なら感情を隠さなくてはいけないのに、喜びが溢れてしまう。
「もちろんです。私などでよければ、お側にいます」
「ありがとう、シャロン。君も具合が悪そうなのに、甘えてしまい、すまない。……ついたての向こう側でいい。私の隣で、眠って欲しい。……駄目かな」
「構いません。……ありがとうございます、アダム様」
心細いという言葉は、本音だったのだろう。
けれどそれだけではなく、アダムはシャロンの不調に気づいていたのだ。
だから、寂しいと引き留めて、共に眠るように言った。
久々に触れる他者の優しさに胸が一杯になって、シャロンは再びベッドに横になると、涙を一筋こぼした。
それからアダムとは、何度か保健室で会った。
交わす言葉は多くはなかったが、アダムの顔を見ると、常に緊張していたシャロンの心は僅かに緩むことができた。
けれどそれも、いつもではない。アダムは学園にいないことが多く、冬の前には――領地に帰ったという噂をきいた。
思いのほか、その事実はシャロンの心に突き刺さった。
同じ孤独を理解していると一方的に思っていたアダムがいなくなると、シャロンの心はよりいっそう、鉄線で雁字搦めにされたように痛みと苦しさを訴えるようになった。
けれど――シャロンの知るアダムは、小柄で、まるで弟のようだったのに。
目の前の男は、少年ではない。
どこからどう見ても、男性だった。それも、とても立派な姿をしている。
「あぁ、よかった。本当によかった、私の姫。もう、二度と目覚めないかと思った」
「……アダム様、私は……ここは、一体……?」
「君は学園の湖に落ちたんだ。それから――三年」
「三年……?」
人は、三年も意識のないまま生きていられるのだろうか。
シャロンの体には、おかしなところは何もない。極端に細いわけでもなければ、起き上がれないわけでもない。
「精霊の湖には、精霊が住んでいる。願いを叶えるという伝説があるだろう? 君の願いは聞き届けられたのかもしれない。私が助け出したとき、君は冷たくなっていた。まるで、死体のようだった」
「アダム様が、私を?」
「あぁ。隣国で、私の病にきくという薬がみつかり、取りに行っていたんだ。ようやく学園に戻って、君に会おうとしたら――どこにも、君がいない。心配になって探し回っていたら、湖に飛び込む君をみつけた」
「私は……なんて、ご迷惑を」
「迷惑などではないよ。すぐに助けたのだが、水を飲んだ様子もないのに、君は目覚めない。オリバーや、公爵夫妻は君を、死んだと決めつけた。心臓が動いていて呼吸もしているのに、死んだわけがないだろう。だからね、私は君を盗んで、ここに」
そこにはシャロンの知る少年はいなかった。
面影は残るものの、すっかり立派になった、むしろ体格のいい美しい青年の姿がある。
愛しげに見つめられて、硬い指先で頬や唇を辿られて、シャロンは体が熱くなるのを感じた。
「目覚めてくれて、よかった。目覚めなくても、君を離す気はなかったけれど。体は、おかしなところはないだろうか。痛いところは?」
「ないです。大丈夫、です」
三年と、ぼんやりシャロンは考える。
身投げしたときシャロンは十六歳だった。つまり今は、十九歳。
両親やオリバーはシャロンを死んだといい、アダムだけが、シャロンは生きていると信じてくれていた。
「……アダム様。どうして、そこまで。あなたとは少ししか、話したことしかないのに」
「それは、食事をしながら話そうか。湯浴みもしよう。君の世話は、毎日私がしていた。だから、任せて」
「え……」
「大丈夫だよ、私の姫。おかしなことはしていない。ただ、君を誰かに触らせるのが嫌でね。私は他人を信用していないんだ。だから、この部屋に入れる侍女は先程のアレクシスだけ」
歌うようにそう言いながら、アダムはシャロンを抱き上げた。
それから思いだしたように「あぁ、ここは王城だよ」と、付け足した。
◇
アダム・エルミタージュがグロス辺境伯家に預けられた理由の一つは、グロス辺境伯家には子供がいなかったというものである。
アダムは、エルミタージュ王が侍女を手つきにして生ませた子である。
王は侍女に堕胎を命じたが、侍女はそれを聞き入れなかった。
城から逃げて密やかに子を生み、王の兵が侍女を見つけた時には、アダムは既に一歳。
侍女はその場で処断されたが、王の子を殺すわけにはいかない。
城に連れられたアダムの姿を見て、王妃は怒り狂った。
手つきにされた侍女は、美しい女だった。
アダムは侍女によく似ていた。銀の髪に青い瞳が侍女の姿を彷彿とさせて、王妃の怒りは全てアダムに向けられた。
アダムは秘密裏に、グロス家に預けられた。
王城にアダムをおいておくことなどできなかった。
王妃の手にかけられる危険が高かったのだ。
グロス家に預けられたアダムは、辺境伯家の嫡子として育てられた。
表向きは。
アダムは母の顔を覚えていない。だが、母が目の前で殺された記憶はある。
アダムを抱きしめて、「この子だけは助けて」と泣く母の温もりを覚えている。
その背が剣に切り裂かれて、小さな部屋に飛び散るなまぬるい赤い液体のことも。
アダムは王を恨んだ。そして辺境伯家もまた、王に恨みを抱いていた。
王は知らなかっただろうが――手つきにした侍女は、辺境伯の五番目の妹だったのだ。
辺境伯家は秘密裏に、隣国と通じた。王に反逆するためである。
そして、アダムは暗殺者として育てられた。それがアダムの望みだったからだ。
暗殺の仕事は夜が多い。昼間は眠って、夜になると動き出す。
そんな生活を幼い頃から続けていたせいだろうか、それとも心の傷のせいか。
アダムの成長は、極端に遅かった。けれどそれで困るようなこともなかった。
体が小さいほうが何かと便利で、俊敏に動くこともできる。
学園に入学したのは、全ての準備が整う前。
一度、兄の顔を見ておこうと思ったのだ。オリバーは知らないだろうが、アダムはオリバーの腹違いの弟である。
だが、まともに学園に通う気などなかった。
だから病弱だと嘘をつき、滅多に顔も出さなかった。夜の仕事があったということもある。
学園では保健室で寝ていることも多かった。
アダムにとって学園での教育など、十五になる前に終わらせたことをなぞっているにしかすぎない。
貴族たちとの会話にも興味が湧かない。
ただ一つ気になったのは、シャロンというオリバーの婚約者の存在だ。
母を殺した王と同じく、オリバーは女好きらしい。
エミリアという女の他にも、何人かを既に手つきにしているようだった。
シャロンはそれに気づいているのかいないのか、何も言わずに学園生活を送っている。
あと数ヶ月。準備が整えば、グロス家は王城を攻めるつもりでいた。
正面から軍を向けるわけではない。アダムが部隊を率いて王城に攻め込み、王の首を取るのだ。
アダムには正当な王家の血が流れている。
隣国はその後ろ盾となっており、証明するための王家の指輪も手にしている。
これは、母が王から受け取っていたものだ。かつてアダムと母が隠れ住んでいた小さな家の、焼け跡を探してみつけたものである。
辺境伯家は正当なる王を戴くと、声明を出す。いくつかの貴族たちにも根回しが済んでいる。
はじめは母を殺された復讐心であったが、それはきっかけにすぎなかった。
辺境伯家に賛同する者が多く出るほどに、今の王家はたちいかなくなっている。
侍女をお手つきにし、その侍女を殺し家を焼き――その子供まで手にかけようとするなど。
いくら王や、王妃といえども許されることではない。
それを当然と考えているのだから、その罪は氷山の一角にしか過ぎなかったのだ。
城が落ちれば、王家に連なる者は、投獄される。
当然オリバーも。そして、その婚約者であるシャロンもだ。
しかし――。
保健室で偶然を装いシャロンに接触すると、シャロンは何のためらいもなく、アダムに手を差し伸べた。
額に手を当てられた。手のひらは柔らかく、温かい。
ついたての向こう側で眠るシャロンは泣いていて――いつもはその小さな体に、感情を押し込めているのだとすぐに察した。
彼女だけは、助けよう。そしてできるのなら、傍におきたい。
そう思っていたのに、アダムが少し留守にしている間に何があったのか。
隣国との話し合いを終えて学園に久々に顔を出すと、シャロンはどこにもいなかった。
方々を探し回り、そして――精霊の湖に飛び込む姿をみつけたのだ。
すぐにアダムはシャロンを助け出したが、シャロンは目覚めなかった。
保健室に運ぶとすぐに大騒ぎになり、オリバーは深刻な表情で、けれど喜色を滲ませながら「可哀想に、俺のせいでシャロンは身投げしたのだ。死んでしまった」と繰り返した。
アダムの死んでいないという主張は退けられた。保険医も、心臓が動いていると言ったが、聞き入れられなかった。
シャロンの体は棺に入れられた。公爵夫婦も「身投げなどフェルマー家の恥だ」と言って、シャロンの顔をまともに見ようともしなかった。
そしてアダムは、棺の中からシャロンを盗んだ。
棺には、シャロンの代わりに適当にみつくろってきたシャロンとよく似た色合いの、女の亡骸を入れた。
棺は二度と開かれることなく、王都の外にある貴族墓地へと埋められた。
アダムはシャロンを辺境伯家へと連れて帰った。だが、何日経っても目覚めることはない。
もしかしたら、精霊の湖の呪いなのかと思った。
あの湖は、願いを叶えるのだという。シャロンは目覚めないことを望んでいるのか。
一体、何があった。浮気をされたぐらいで自死を選ぶほど、弱くは見えなかったのに。
シャロンは目覚めなかったが、月日は過ぎていく。
母を殺された恨みに、シャロンを傷つけて自死を選ばせた憎しみが加わった。
城を落としたのが一年前。
その後、反発する貴族たちを平定するのに一年。
逃げ出したオリバーと、共にいたエミリアを捕らえて、投獄した。
城門に掲げられた王の首を見て、戦意を喪失して逃げ出したオリバーは、アダムや辺境伯家に反発する貴族に囲われて酒浸りになりながらエミリアとの肉欲に溺れる日々を送っていた。
醜悪な姿を晒しているオリバーを捕らえて牢獄に入れ、ようやく全てが終わった。
これで、王族はいなくなった。反発していた貴族たちは旗印がいなくなり、粛々とアダムたちに頭を垂れた。
軍を率い、抵抗を続けていたシャロンの両親は、反乱分子のあぶりだしのために拷問の末に殺し、かつてシャロンの葬儀で「ごめんなさい、お姉様」と言いながら泣きじゃくっていた妹は救った。
牢屋の中で、オリバーは情けなく青ざめながら、震えていた。
エミリアは無様に泣きながら、どうか助けてくれと、うわごとのように言い続けていた。
「お久しぶりです、兄上。アダムですよ。覚えていますか?」
「お前がアダムなわけがない。アダムとは病弱な男だった。お前は誰だ」
「あなたの弟です。あなたに恨みはない――筈だったのに。私の姫に、何をしましたか?」
「お前の姫とは誰だ。一体誰のことを……!」
「シャロンは、何故湖に飛び込まなければいけなかったのかと聞いている」
牢獄の中にいるオリバーの背を踏みつける。
戦うことを知らないその背は薄い。これが兄かと思うと、虫唾が走る。
何一つ不自由なく育ったのだ。
王族という特権階級の上に、あぐらをかいていた。
かつて母を孕ませて、不都合になり殺した父と同じ。
――王が母に指輪を与えたのは、何故だったのか。死体を隠すために、小さな田舎町にある本当に小さな家ごと、母を燃やしたのだ。アダムの記憶にはその場所は残っていない。噂を頼りに何とかその場所を探し出し、骨を集めて、埋葬をした。
王家の指輪はその時にみつけた。
もしかしたら、母は出奔するときに、王家の指輪を盗んだのかもしれない。
せめてもの、抵抗だったのか。
辺境伯家に帰ってくればよかったものをと、義父は悲しげに言っていた。母は生真面目な女だったのだという。
辺境伯家に迷惑をかけられないと思ったのかもしれない。
一人で全てを背負って、アダムを育てようとしていたのだろう。
「兄上。何故、シャロンは湖に? あなたの胡乱な浮気ごときで、彼女の心は折れたりはしない。何をした。話せ」
「何もしていない! 今更、死んだ女のことを聞いてなにになる!」
「死んでなどいない」
「お前は、あの時もそう言っていたな。シャロンの死体を見て、死んでいないと。お前は、狂っている」
「黙れ。質問に答えろ」
背中を踏みつけていた足で、今度はその手を踏みつけた。
靴の裏側で、骨が砕ける音と感触がする。悲鳴が牢の中に響き、それを見ていたエミリアが牢の壁に背中を押しつけるようにしながら、両手で耳を塞いで耳障りな大声をあげた。
「三年も前のことなど覚えていない! だが……そ、そうだ! 俺の前から消えろと言ったのだ。婚約破棄はできない。だから、俺のためにいなくなれと……!」
「死ねと、告げたのか」
「違う! いなくなれと言っただけだ。死ねとは言っていない! あの女が勝手に勘違いをしたのだ!」
怒りにまかせて、オリバーの顎を蹴り上げた。
オリバーは壁に叩きつけられて、動かなくなった。どうせ、処刑をする。
その前にせいぜい、苦しむがいい。シャロンの分も。
アダムは牢から出ると、胸に手をあてた。
何故シャロンが目覚めないのか、ようやく理解できた気がした。
精霊の湖は、願いを叶える力があるという。
精霊が、住んでいるのだ。
信じてなどいなかったが、シャロンの望みはきっと、叶えられてしまったのだろう。
シャロンが望んでいたのは、自死ではなくて、消え去ること。
死ではない。消えること。だから目覚めない。その魂は、湖の底へと連れ去られてしまった。
どうか戻ってきてくれ。君を愛しているのだと、伝え続けた。
筋力が落ちないように丁寧に体を動かして、体を清めて。
食事は、受け付けなかった。けれど、その肉体は滅びなかった。
不思議な力が働いているとしか思えなかった。
精霊の湖に祈りを捧げ、シャロンを返して欲しいと伝えて――。
三年。二度とその目は開かないのかと思っていた。
肉体だけでもいい。ずっと傍においておこうと、覚悟を決めていた。
だって、これほどまでに愛しているのだから。
目覚めたシャロンは、少し話しただけだと言った。
シャロンにとってはそうかもしれない。けれどアダムは、三年間毎日ずっと、シャロンに話しかけ続けていたのだ。
誰にも話すことのなかった、過去の話も。
僅かに残った母の思い出も。
君にまた、撫でて貰いたい。
隣で眠って貰いたい。
君と話がしたい。声が聞きたい。助けられなくて、すまなかったと。何度も、何度も。
だから――。
「もう、君を脅かすものはなにもない。これからは、私の傍にいて欲しい。泣いたり笑ったり、怒ったり。君の心はもう自由なのだから」
「……アダム様。分かりません。私には、何が起ったのか。どうして、アダム様が私を……」
「これから時間をかけて、君に愛を捧げていくよ。覚悟しておいて欲しい」
手を握ってそう告げると、恥ずかしそうに微笑むシャロンが、愛しい。
どうか、思い知って欲しい。
どれほどこの気持ちが激しく重く、暗いものなのかを――。
お読みくださりありがとうございました!
評価、ブクマ、などしていただけると、とても励みになります、よろしくお願いします。
今年も一年ありがとうございました!
来年もどうぞよしなに、よろしくお願いいたします。