婚約破棄をされて森に捨てられた侯爵令嬢ですが助けたカラスが実は鳥じゃなかったようです
あら、あら、あらぁっ?
侯爵令嬢マリアベル=エルライドは、目の前で起きている騒動が何か理解できず、そんな間抜けな声をもらした。
『大事な話があるから来てほしい』
婚約者であるアデック=シスキア王太子にそう呼び出されて王宮まで来てみれば、彼は身に覚えのない罪をマリアベルに突きつけ「婚約は解消だ!」と一方的に叫んだ。
(これは何かの夢かしら?)
そう思いマリアベルは瑞々しい若葉のような緑の瞳を瞬かせる。しかし、淡い金のまつ毛が何度視界を往復しても、アデックは憎々し気に一段高い場所からマリアベルを見下ろしている。
そんなアデックの横には見覚えのない、黒の巻き毛に褐色の肌の美女がいて、黒い瞳で妖艶にアデックを見つめながら彼にしなだれかかっていた。
「マリアベル=エルライド! お前がこのサアディーヤに嫌がらせをしていたことはわかっている!」
どうやら、黒髪の女はサアディーヤという名前らしい。
響きからしてシスキア王国から遠く離れた砂漠の民の女性だろう。
肉体美を強調する砂漠の民の衣装はマリアベルから見れば下着同然で、乳牛のような胸が今にも布からこぼれ落ちそうだった。
(そう言えば、10日ほど前に砂漠の旅芸人の一座が王宮を訪れていたような……)
楽師と踊り子で構成された旅芸人の一座。
サアディーヤはその中の一人なのかもしれない。
事態を飲み込めないマリアベルがそうぼんやりと考えている間に、アデックの断罪は更に熱を増していく。
「俺がサアディーヤに惹かれていくことに嫉妬してサアディーヤの命すら狙おうとしたそうじゃないか?!」
「えぇっ?! 誰がそんなことを?!」
「とぼけるなっ!」
マリアベルの反応にますますヒートアップしたアデックの言葉を整理すると、つまりはこういうことらしい。
10日前、国王に謁見を求め素晴らしい舞いを披露したサアディーヤ。その月光の女神のような姿にアデックは運命的なものを感じる。
しかし自分はマリアベルという婚約者がいる身。
この想いは胸に秘めなければと節度を持ってサアディーヤに接していた。
だが。そんなアデックの姿にマリアベルは自分の立場の危うさを感じ嫉妬に狂い、荒れた。
アデックはサアディーヤと肉体的な関係は無くともサアディーヤと過ごす時間に癒やされている。
そう思い詰めたマリアベルは「サアディーヤさえいなければ」と、サアディーヤをシスキア王国から追い出すために様々な嫌がらせを開始する。
サアディーヤの衣装をズタズタに引き裂き、装飾品を盗み、アデックがサアディーヤに贈った花を踏み潰した。
更には彼女の食べ物に毒を混ぜ、階段から突き落とそうとしたことまであるらしい。
そしてアデックがマリアベルとの婚約解消を決断したのは、マリアベルがサアディーヤを口汚く罵っているところを目撃したからだと言う。
――そんな無茶な。そして馬鹿な。
マリアベルがサアディーヤの存在を知ったのが今日、今この場が初めてだ。
見たことも話したこともない女性にどうやって嫌がらせをし、命まで狙えると言うのか。
時系列的にも物理的にも無理だ。
毒物など、どこで入手できるかすら知らない。
あとついでに言えばアデックとサアディーヤに肉体的な関係が無いと言うのはどう考えても嘘だろう。
初心な乙女のマリアベルから見ても二人の関係はズブズブだ。
それなのに身に覚えのない嫌がらせの証拠が次々と目の前に並べられていく。
マリアベルが引き裂いたという砂漠の民の衣装を握り締め大仰に嘆くアデック。
そんな彼の様子を見ていたマリアベルは妙に納得し、自分が何故この状況に置かれているかを理解した。
何故なら、マリアベルを指差し唾を飛ばしながら糾弾するアデックの小鼻は、右側だけが膨らみピクピクと痙攣していたからだ。
(あ、これはアデック様が自分に都合の良い嘘をついてる時のクセですね)
アデックはどうしても自分と婚約を解消し、サアディーヤとの愛を貫きたいのだろう。
この国の王太子、アデック=シスキアは自分の欲望のためならば手段を選ばない。
そんな下劣で卑怯な男だった。
♛ ♞ ♛ ♞ ♛ ♞
「じゃあ俺はここまでだ。……悪く思うなよ」
覆面で顔を隠した男はそう言うと、マリアベルの方を見もせずにそそくさと御者台に乗り込んだ。
エルライド侯爵家の屋敷からこの目的地まではけっこうな距離があったはずだが、ここへ着くまでに男は一言も話さなかった。きっとマリアベルに素性を知られたくないのだろう。
ガラガラと車輪の音を響かせながら去って行く馬車を見送り、マリアベルはため息をつく。
「今日――森に連れて来られる日まで、あっと言う間だったわね……」
アデックに王宮へ呼び出され婚約解消を告げられてから3日。
マリアベルはシスキア王国に語り継がれる“呪いの森”に置き去りにされていた。
人を惑わし喰らう魔物が住むという呪いの森。
そんな薄暗く鬱蒼とした森への流刑。
それがアデックが『王太子の愛する女性を殺そうとした大罪人』であるマリアベルに言い渡した処遇だった。
あの一方的に婚約を解消された日から今日まで。
どんなに無茶苦茶で馬鹿馬鹿しい証拠と糾弾でも、マリアベルの疑いを晴らし、庇ってくれる人はあの国にはいなかった。
貴族たちは元々アデックとマリアベルの婚約を快く思っていなかったし、マリアベルの両親は王太子妃になれない娘にはもう用はないと忌々しげに吐き捨てた。
それどころか、マリアベルが呪いの森に行けばエルライド家は取り潰しにしないとアデックに言われると、早く娘を連れて行ってくださいとばかりに差し出した。
『お前は我が家の恥で汚点だよマリアベル。二度とエルライド家に、いや、王都に戻って来るんじゃないぞ』
使用人が着るような質素なワンピースに1日ぶんの食料と水。それだけを娘に押し付けて、父と母は大きな音を立ててを扉を閉めた。
(お父様とお母様は私がアデック様と婚約するまでは、お兄様とお姉様に夢中だったものね)
冷たく閉ざされた屋敷のドア。
目の前の扉の奥に、マリアベルの温かな思い出は一つも無かった。
父と母はいつも、優秀な兄と姉のことばかりを優先して、要領の悪いマリアベルのことを疎んでいたからだ。
しかし2年前。アデックの18歳の誕生祭の夜。
王宮には『王太子の婚約者を選ぶため』と、彼に年齢の近い貴族の娘達が集められ、それは当時16歳のマリアベルも例外ではなく。アデックがねっとりと見回す娘達の列の中に並ばされた。
他の娘達はどうだか知らないが、マリアベルはどうか自分だけは選ばれませんようにと祈りながらアデックの視線が通り過ぎるのを待った。
アデックが極上なのは外見だけで、女性に対してだらしのないところがあるという噂を知っていたからだ。
ふわふわとした淡い金の髪に緑の瞳。
儚げで可憐な外見のマリアベルは屋敷に出入りする画家に「妖精姫のようだ」などと称賛されることはあったが、噂によればアデックの好みは成熟した女性だという。
(だからきっと選ばるのは私じゃないはず――っ)
しかし、何故か先ほどからアデックの琥珀色の瞳がずっとこちらを見ている気がする。
(殿下、どうか私を選ばないでください……!)
淡いロゼ色のドレスの上で、震える手を握り祈る。
けれど――――――
『おい、そこの金髪の娘。お前を俺の婚約者にしてやる。お前が、この娘達の中で一番胸がデカいからな』
そんな理由で。マリアベルはアデックの婚約者にされてしまった。
「――アデック様のあの言葉、私は気絶しそうなほどビックリしたけれど『あんな風に男らしく求められてみたい!』っておっしゃるご令嬢もいたから、私はまだまだ世間知らずだわ……」
とぼとぼと、あても無く森の中を彷徨いながら、マリアベルは阿鼻叫喚の騒ぎになった当時のことを思い出す。
並べられた娘達の中には、生まれた時からアデックとの結婚を夢見て日々努力をしていた公爵令嬢も、アデックとは既に密会をする仲だと噂されている伯爵令嬢もいた。
当然、そんな彼女たちは選ばれたのがマリアベルなことに納得するはずもなく。
顔を合わせる度に嫌味を言われ、水をかけられたりゴミをぶつけられたりすることも何度も有った。
「でもアデック様は『王太子妃になるのだからそれくらい自分で跳ね除けてみせろ』と笑ってらっしゃったわね……」
そんな風に言っていたアデックがサアディーヤに対してはあの様になるのだから、人間というのは変わるものだ。
「まぁそれは、私がサアディーヤさんに嫌がらせをしていたことにした方が、アデック様にとって都合が良いからだろうけど……」
余談だが、候補者の中で一番胸が大きいという理由で婚約者に選ばれたマリアベルよりも、サアディーヤの胸は更に大きかった。
乳牛にも張り合えるサイズのサアディーヤに比べれば、小ぶりのメロンサイズのマリアベルは見劣りしたのだろう。
更には婚約してからの2年間。
マリアベルはアデックとダンスは踊っても、キスやそれ以上の行為を決して彼に許していなかった。
王太子妃としての教育を受けるため登城するたびに、アデックはあの手この手でマリアベルと二人きりで親密になろうとしていたが、そういう行為は実際に婚姻関係になってからすることだと思っていたからだ。
空虚で軽薄なアデックの愛の言葉をぎりぎりで受け流し、乙女の純潔を守ってきた。
横暴なアデックも、さすがに婚姻前の婚約者を妊娠させては不味いと思っていたのだろう。
様々な口車で誘いはするが、強硬手段には出なかった。
そうしてアデックとの攻防を続けるうちに、マリアベルは彼のある癖を発見する。
どうにかしてマリアベルを密室に連れ込もうとする時、アデックの右側の小鼻はいつもピクピクと痙攣していたのだ。
それが、彼が自分にとって都合の良い嘘をつく時の癖なのだとマリアベルは察した。
「サアディーヤさんの肩を抱くアデック様の右の小鼻も、すごいピクピクしていたものね……」
なんだったら過去最高の回数と速度でピクピクしていたかもしれない。
あんなわかりやすさで本当に国を治める王になれるか心配だが、呪いの森に置き去りにされこうして彷徨っている自分には、もう関係のないことだろう。
「人を喰らうっていう魔物に食べられてしまうのと、私が空腹で倒れてしまうの、どちらが早いかしら……」
両親に与えられた食料はほんのわずかで、辺りにはただ木々しか生えていない。
このまま安心して身を休める場所を見つけられなければ、獣に襲われる可能性だって有る。
アデックはマリアベルを斬首刑にしないことで自分の罪悪感を軽くしたのだろうが、この状況はアデックからも両親からも「死ね」と言われているようなものだ。
今日この日まで気丈に振る舞い涙を見せなかったマリアベルだが、さすがに心細さと不安で視界が滲んでくる。
「お父様、お母様。マリアベルはそんなに不出来な娘だったでしょうか」
二度と戻って来るなと閉ざされた扉。
そこに未練も温かな思い出も無いけれど。
けれど。自分のたった18年間の人生に意味は有ったのだろうかと、堪えきれなくなった水滴が緑の瞳から零れ落ちる。
しかし、神様はそんなマリアベルを見捨てなかった。
「あぁ、足が棒になってしまいそう。もうここで眠ってしまおうかしら。どうせもう、誰にも望まれていない命だもの。…………あら? あそこに見えるのって――――!」
小屋だ。
とても小さく、風が吹けば吹き飛んでしまいそうなほどに傾いているが、確かに木で出来た小屋が建っている。
外に切り倒された木と斧が転がっている様子から、木こりが使っている小屋かもしれない。
「どなたか、どなたかいらっしゃいますか……っ」
遠慮がちにコンコンとノックをしてみるが、返事はない。
しばらく間を置いて何度か声をかけてみても同じ結果だった。
「ごめんください……」
勝手に開けることを申し訳なく思いながらも粗末な木の戸を押すと、それは呆気なく内側へと動いた。
ギィっという軋んだ音と共に、埃で淀んだ空気が鼻孔に届く。
どうやら、この小屋には長いこと誰も出入りしていないようだ。
「きっと、前に誰かが使っていた場所なのね」
中には簡素なベッドと椅子、そして煮炊きができそうな鉄製の小さな薪ストーブが有った。
「ここなら夜が来ても大丈夫だわ……!」
ケホケホと咳こみながら窓を開け、新鮮な空気と光を取り入れる。
エルライド家の屋敷に比べれば物置のような広さだけれど、今のマリアベルには充分だ。
「元の持ち主さん、ごめんなさい。もし戻ってらっしゃったら、私はすぐに出て行きますから……。だからそれまで、ここに居させてください」
外で夜を明かさなくて良いと思うと、なんだかここには今まで無かった自由がある気がした。ふっと心が軽くなるのを感じる。
「ふふ、私ったら単純ね。ここに居させてもらうことを決めたなら、まずはお掃除をしないと」
マリアベルは貴族の娘だが、アデックと婚約するまでは屋敷の中で軽んじられていた。
両親のマリアベルに対する扱いが使用人たちにも伝わっていたのだろう。兄と姉のことを優先され、部屋の掃除を後回しにされることもよく有った。
「自分でお掃除をするのはアデック様と婚約して以来ね。うん、このモップとバケツ、まだまだ使えそう。……お借りします。お水、汲めるところ有るかしら」
そうバケツを持って立ち上がった瞬間――――。
ドサリと何かが落ちる音がした。
「えっ?」
小麦粉を入れた麻袋を落としたような重い音。
そんなドサリという音は小屋のすぐ近く、戸の外で聞こえた気がした。
まさか、森に住む獣が人間の存在を察知して襲いに来たのだろうか。
「それとも、噂の魔物だったりして……」
何人もの人間を惑わし、喰らったという呪いの森の魔物。
その存在こそが、マリアベルがここに連れて来られた最大の理由だ。きっと、アデックも両親も、マリアベルが魔物に食べられてしまえば都合が良いと思っている。
「休める場所を見つけたと思ったけれど、もし魔物だったらこの小屋ともすぐお別れね。せっかくだから、人生の最後にもう少し自由を楽しんでみたかったわ」
だからできれば、今の音は魔物の気配ではありませんように。
そう願いながらそっと外を窺う。
すると戸のすぐ側に、ボロボロになった黒いショールが落ちていた。
「これが飛んできた音だったのかしら? ――きゃぁ?!」
何枚もの黒い羽根を重ねたショール。
マリアベルが最初にそう思ったものは、よく見ると黒い嘴が付いていた。
その嘴は薄く開けられ、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。
きつく閉じられたまぶたに、艶がなく薄汚れた体。かぎ爪の足。
これは、鳥だ。
今にも死んでしまいそうな、鳥だ。
「大変――っ!」
考えるよりも早く。
マリアベルはその生き物を抱えて小屋の中へと踵を返した。
「この子、大きいけれどきっと鴉よね? 具合の悪い鳥の手当ってどうすれば良いのかしら……っ。とりあえず、温めなきゃ……!」
ベッドに有ったブランケットの埃を払い、そっと鴉の体を包む。マリアベルの知る鴉よりもふた回りほど大きいが、嘴も羽も真っ黒だから鴉という判断で間違いないだろう。確か、弱っている鳥は温めた方が良いと聞いたことがある。
「ええと、他には、他には……っ」
焦らずに冷静にならなくてはと思うのに。
何もない小屋の中では次の行動が浮かばず、つい鴉をブランケットごと抱きしめたまま歩き回る。
「ええっと、えぇっと……っ。頑張ってね鴉さん……! 今どうにかあなたを助ける方法を考えるから。怪我はしてないのよね? 大丈夫、大丈夫よ。私、あなたを死なせはしないわ」
だから、諦めずに生きましょう。
「――――えっ?」
突然。
鴉を抱える腕がジンジンと熱くなるのを感じてマリアベルは足を止めた。
何か、白い光のようなものがマリアベルの内側から溢れ出し、腕の中の鴉に吸い込まれていく不思議な感覚。
光が。熱が。鴉へと移っていく。
「えぇ……?!」
熱い。どんどんと強さを増す光が眩し過ぎて、目を開けていられない。
視界が真っ白に染まる。
「きゃあ……!」
けれどそれは一瞬の出来事で。
マリアベルが目を開けると、光も熱も嘘のように消えていた。
「私、白昼夢でも見たのかしら……? ――あら、あなた……!」
腕の中の鴉が紅い瞳でマリアベルを見上げ、ギュルギュルと鳴いている。
「目を開けられるようになったのね! ブランケットで包んだのが良かったのかしら? 小さい生き物って具合が悪くなる時も早いけれど、良くなる時も早いって言うものね。良かった。ふふ、あなた、柘榴みたいに紅くて綺麗な瞳をしてたのね」
てっきり黒いと思っていた鴉の瞳は、とても深く美しい紅い色をしていた。
もしかして、鴉とはまた別の種類の鳥なのだろうか?
マリアベルの知っている鴉という鳥は黒い瞳だったはずだ。
「えぇっと、鳴けるくらい元気になったなら、お腹空いてない? パンならあなたも食べられるかしら? それとも果物の方が良い?」
森へ来る時に両親から渡されたわずかな食料。
しかしだからと言って、その量を理由に自分一人だけで食べるという選択肢はマリアベルの中には無かった。
「本当はミルクやお肉の方が栄養が有って良いのかもしれないけど、それは貰えなかったら……。ごめんなさいね。でもここにある物なら好きなだけ食べて良いのよ」
マリアベルがそう話しかけると、鴉は首を傾げて紅い瞳で彼女を見つめ、またギュルギュルと鳴いた。
そして軽やな仕草でマリアベルの肩に飛び移る。
「ふふ。不思議ね。まるで私の言葉がわかってお返事してくれてるみたい。……ねぇあなた、もし良かったら完全に元気になるまで私と一緒に暮らしましょうよ。私、今日この森に来たばかりなの。森の夜も、あなたが居てくれたら心細くないわ」
頬に感じる鴉の羽。艶を取り戻したその体の温もり。
例え鳥だとしても、自分以外の存在が側に居てくれたら心強いだろう。
「私の名前はマリアベルよ。……あなたのことは、クライヴと呼んでもいいかしら?」
鴉は、今度は満足気に翼を動かした。
翌朝。
マリアベルは目を覚ましたつもりの自分がまだ、夢の中にいるのだと思った。
目の前の光景がとても現実だとは思えなかったからだ。
清潔に磨かれた床に、飴色に輝く椅子とテーブル。
ずっと人に使われず、荒れていた小屋の中が見違えるように綺麗になっている。
自分は確かに埃にまみれたベッドで眠ったはずなのに。ぺしゃんこでカビ臭かったマットからはお日様の匂いがして、まるで焼きたてのパンみたいにふかふかだ。
「えぇぇぇっ? このテーブル、昨日は無かったわよね? それになんだか広くなってるような……。あっ、クライヴおはよう。まぁ、あなた何を持ってきたの?」
いったいどこから見つけてきたのか。
クライヴの嘴には赤茶の籐で編まれたバスケットが咥えられていた。
「どうしたの、これ。重くなかった? ……なんてことかしら……!」
クライヴから受け取ったバスケットの中身を確認して、マリアベルは思わず声を上げた。
中にはチーズにソーセージ、卵、コケモモのジャム、葡萄酒の瓶が入っていたからだ。
「私に食べろと言ってくれているのクライヴ」
そうだと言うようにギュルギュルと鳴きながら、更にクライヴはマリアベルのスカートを嘴で引っ張りどこかへ連れて行こうとする。
「外? 外を私に見て欲しいの?」
クライヴに導かれて戸を開けたマリアベルは、今度こそ自分がまだ夢の続きを見ているのだと思った。
白、黄色、ピンク、薄紫。
昨日この小屋に着いた時には、倒された木と斧しか転がっていなかったそこに。様々な色の花が咲き乱れ、蝶や小鳥が飛んでいた。
花だけじゃない。
ラズベリーや葡萄に林檎、桃、いちじく。何種類もの果物の木が一晩で葉を茂らせ、季節を無視してたわわに実っている。
「ここは、呪いじゃなくて奇跡の森だったのかしら……?」
何度も瞬きを繰り返し瞼を擦るが、花も果物も蝶たちも、確かに目の前に存在していた。甘い芳香が暖かな太陽の光と共にマリアベルの全身を包む。
シスキア王国で何人もの人間が行方不明になった呪いの森。
大罪人マリアベル=エルライドが置き去りにされたその場所は、まるで楽園のようだった。
それからも、マリアベルの周りには奇跡が起き続けた。
小屋の中にはいつの間にか新鮮なミルクの入った壺が置かれ、そのミルクはどんなに飲んでも減ることも、腐ることも無かった。
またマリアベルが「お風呂はどうしよう」と呟けば、それを聞いたクライヴが大きく翼を広げ、次の瞬間には小屋の隣に立派なバスルームが現れた。小屋からそこに続くドアを開けると、猫足のバスタブにはいつでもお湯が満ちている。
甘い花の香りの石鹸や香油まで準備されていて、マリアベルは驚きに目を見開いた。
「クライヴってなんでも出すことができるし、気配り上手なのね」
湯を使いサッパリしたマリアベルは、これもまたクライヴが用意してくれた肌触りの良いネグリジェに着替えベッドに腰掛ける。
「でもこんなに次々に色んなものを出して、あなた疲れていない? 大丈夫?」
マリアベルがそう聞いて頭を撫でると、クライヴは紅い瞳を細めて満足気にギュルギュルと鳴いた。
クライヴに触れたマリアベルの掌から淡い光が溢れ、黒い体に吸い込まれていく。
どうやら、クライヴはマリアベルから溢れる光をエネルギーに活動しているらしい。
クライヴに光を吸い込まれると、少しだけ眠くなるが、それ以外にはマリアベルの身体に不具合はない。
その眠気すらも心地好いもので、マリアベルはクライヴの頬にキスをしながらベッドにころりと横になる。
「クライヴ、あなたはきっとカラスでなくて、もっと不思議な力を持った別の存在なのね」
呪いの森に住む人を喰らう魔物。
もしかしたらそれは、クライヴのことではないかとマリアベルは思い始めていた。
「でもねクライヴ。私はあなたに感謝しているのよ。こうして素敵な寝間着や、ふかふかのベッドを用意してくれたこともそうだけれど、私の側に居てくれて本当にありがとう」
マリアベルが汚名を着せられて森に置き去りにされてから数日。その日々をクライヴと過ごしたマリアベルにとって、常に側に居てくれる黒い鳥の存在は既に大切な心の支えだ。
「私、あなたが魔物でも、あなたが大事よクライヴ。だからもし、白い光だけで足りなくなってお腹が空いてしまったら。その時は遠慮なく私を食べてね」
私を食べてね。
そのマリアベルの言葉を聞いた瞬間。
クライヴがバサバサと激しく羽ばたき、黒い羽根が舞い散った。
何枚も何枚も。吹雪のように黒い羽根が視界を覆っていく。
「きゃぁ?! クライヴ……?!」
いったい、何が起きたのか。
混乱するマリアベルの身体を、誰かの腕が抱き締める。
硬くしっかりとした、男性の腕だ。
クライヴと自分しかいないはずの小屋の中で、誰かもう一人の人間がマリアベルをその腕の中に閉じ込めている。
「――あぁ、マリアベル。俺の愛しい番」
声だけでゾクリと震えが走るような。
もっと聞いていたいと懇願してしまいそうな。
そんな甘やかな美声が、マリアベルの耳元で聞こえた。
――この、目の前の美しい男は誰だろう。
自分をベッドに押し倒し、手首をシーツに縫い止めている男をマリアベルは呆然と見上げた。
絹のように艷やかで漆黒の髪に、透き通りそうなほど白い肌。通った鼻梁と薄い唇は人形のごとく整っている。
年頃はマリアベルよりも少し上だろうか。顔だけ見ると女性にも思える美しい容貌なのに、その喉にはくっきりとした隆起が有った。マリアベルをすっぽりと覆い押さえつけている肢体も長身の男性の物だ。
魔性の美貌を持った黒衣の男。
こんなに美しい男を、今までの人生でマリアベルは見たことがない。
しかし、自分を愛しげに見下ろす瞳の色には見覚えがあった。その柘榴のような紅い色。この森の中でマリアベルの心を支えてくれた瞳の持ち主は――――。
「まさか、あなたクライヴなの……?!」
マリアベルの問いを聞いて、蕩けるように男が破顔する。
「そうだよマリアベル。君が俺につけてくれた名前だ。俺はクライヴだよ」
「あなた、人間の形になれたの?!」
「これも君のおかげだよ。俺の本来の姿はこっちだけれど、ここ数年はこの森を訪れる人間がいなくて、とてもお腹が空いていたんだ。だから鳥の姿でしか動かなかった」
「お腹が空いて……。やっぱりクライヴは人間を食べるのね。私のことも食べたくなったの?」
今こうして、獣に捕食されるような格好でマリアベルがクライヴに押さえつけられているのは、つまりはそういうことなのだろう。
「食べさせてくれるんだろう?」
「ええ、もちろん。クライヴは私の恩人だもの。あなたが望むならかまわないわ。けど……」
「けど?」
「食べられてしまったら、もうあなたには会えなくなってしまうのよね? それが寂しい」
「まさか! むしろ、俺達は一つになるんだ。ずっと一緒だよ」
ずっと一緒。クライヴに食べられて、その一部として生きていく。
それはなんて甘美で、魅力的なことだろう。
「それなら、良いわ。……なるべく痛くしないでくれると嬉しいのだけど……」
「もちろんだよ。極上の快楽を与えてあげる」
快楽?
その言葉を不思議に思っているうちに、クライヴの顔が傾き近づいてくる。
あぁ、この唇に食べられてしまうのだ。
薄く開いたクライヴの唇からは紅い舌が見えて、目眩がしそうなほど蠱惑的だった。
(クライヴ、私、あなたと一つになって生きていくわ)
覚悟を決めたマリアベルが瞼を閉じようとすると、ふにりと柔らかい感覚がマリアベルの唇に触れた。
そして何度か啄むように角度を変え、離れていく。
「……唇から食べるの?」
「そうだね。唇から始めてだんだん下に行くほうがロマンチックかなって」
「ロマンチック……?」
そうマリアベルが疑問符で頭をいっぱいにしていると、今度は首筋にクライヴの唇が降りてきた。
ちゅっちゅっと音をたてながら移動していく。
「ふふ、マリアベルの新雪みたいな肌に、俺の所有の証の赤い花弁が散っていくのはとても良い気分だね。後で鏡を出現させるから、君にも見せてあげるね」
「後で……?」
おかしい。何かがおかしい。何かが、クライヴと自分とで食い違っている気がする。
「あの……クライヴは人間の肉を食べるのよね?」
「肉?! 俺が?! まさか!」
マリアベルの言葉を聞いてクライヴが悲鳴を上げる。
その声も瞳も、あり得ないと語っていた。
「俺が食べるのは肉じゃなくて、気。人間の生気だよ!」
「お肉じゃなくて、生気」
「そうだよ! それだって命を奪うまで吸ったことはない。今まで森に来た人間は、そりゃあちょっと驚かせて揶揄うことは有ったけど、みんな生きて帰ったはずだよ」
「何人も行方不明になってるって言うのは……?」
「こんな国の中心から離れた、人気のない森に来ようと思うのは後ろ暗いことのある奴が多いからね。きっと俺に喰われたことにして、自分から行方をくらました人間が何人もいたんだと思うよ」
「そう、だったの……」
まさかの呪いの森の真実。
たとえクライヴが過去に何をしていても、もう彼はマリアベルにとって無くてはならない存在だけれど。
(クライヴが人を殺めていないのなら、彼が討伐されたりする心配が減るもの)
そうホッとしている自分がいた。
「だからマリアベルに痛い思いをさせるどころか、俺は君をとびきり気持ち良くさせてあげようと思ってるんだ」
「どうして私を気持ち良くさせる必要があるの?」
「初めて君と俺が会った日のことを覚えてる? ボロボロだった俺を抱き上げてくれたマリアベルの腕から生気を貰った時に、なんて美味しんだろう! って感動したんだ。こんなに美味しい人間は初めてだって」
マリアベルが初めて森に来た日。
弱々しく浅い呼吸を繰り返すクライヴを抱えた腕から溢れた白い光。
確かにあの光はクライヴの体に吸い込まれていた。
「あの時の光、クライヴの食事だったのね」
「そう。しかも美味しいだけじゃなくて、俺とマリアベルの気の相性って凄く良いんだ。少し貰っただけで身体に力が溢れて、どんなことだって出来るようになる。マリアベルのおかげで、今まで使えなかった力まで使えるようになったんだよ」
一瞬でバスルームを出現させたり一晩で果物の木を生やせたのは、マリアベルの気を吸ったからできたことだと、クライヴは瞳を輝かせる。
「人間の気は、強い恐怖や快楽で大きく感情が揺れた時が一番美味しいんだよ。だからマリアベルが限界まで快楽を感じた時の気はどんなに美味しんだろうってずっと考えてた」
「恐怖や快楽で大きく感情が揺れた時……」
「あぁ、もちろんマリアベル以外の人間を気持ち良くしてやるなんてまっぴらごめんだよ。けど君なら、マリアベルならどんな場所にも全部触れて気持ち良くしてあげたい」
美しく妖艶な笑みを浮かべた男は、まるで忠誠を誓うようにマリアベルの指先に唇を落とす。
「マリアベルの一番深いところに触れられたら、俺きっとどんなことでも出来るようになると思うんだ」
だから君に触れさせて。
「それにね。魔物と人間の間にも子供が生まれるって知ってる? 俺とマリアベルの子供ならすごく可愛いと思うな」
そう言ってクライヴは片目をつぶって見せると、再びマリアベルに口づけた。
♛ ♞ ♛
『マリアベルの一番深いところに触れられたら、俺きっとどんなことでも出来るようになると思うんだ』
その言葉通りに、マリアベルを食べたクライヴは本当に色んなことをして見せた。
あっと言う間に小屋を立派な屋敷に建て直し、鳥以外にもライオンやウサギなど様々な動物に姿を変えられるようになった。変身後の動物は全て黒い色をしていたが、どの姿も本物にしか見えない。
特に黒猫になった後のふかふかとした毛並みはマリアベルのお気に入りだ。
それからクライヴはマリアベルの手をとって空を飛び、雲の上から満天の星空を見せてくれたりもした。
『マリアベル、俺の愛しい番。俺の命も力も全部、マリアベルにあげるから。だから君も、君の全てを俺にちょうだい』
そう星降る中でクライヴに跪かれて。
彼と共に生きると、改めて誓った夜の思い出はマリアベルの大切な宝物だ。
あの時から、マリアベルの時間は魔物と同じ刻の流れになっている。
そしてクライヴはマリアベルが知らないうちに、あることまでしていたらしく――――――。
「クライヴ! あなた、そんなことをしていたの?!」
ある穏やかな晴れの日。
床の上に手をついて直に座り、額を擦りつけて許しを乞う『ある人物』から事情を説明されて、マリアベルは悲鳴を上げた。
マリアベルの前で平伏する、もはや記憶の彼方で消えかけていたその人――マリアベルの元婚約者であるアデック=シスキア王太子。
彼は栗色の髪を乱し、血走った琥珀色の瞳に涙を浮かべながら「もう許してくれ」とマリアベルに懇願している。
どうやらクライヴはマリアベルが知らないうちに、シスキア城とエルライド候爵家の屋敷と領地の周りにだけ嵐を起こして大損害を与えていたらしい。
ひと月以上もの間、終わらない豪雨と雷鳴。
その雨でエルライドの屋敷は流され、両親は財産のほとんどを失ったという。
更にアデックは城が崩壊しただけでなく『こんな呪われた城で暮らすのはごめんだ』と、サアディーヤに別れを告げられてしまったらしい。
しかもその後、彼女はシスキア王家の宝を持って別の男と逃げてしまったというから驚きだ。もしかしたら元からサアディーヤはアデックを愛しておらず、金目のもの目当てだったのかもしれない。
「――この通りだマリアベル! 君に許してもらうためならなんだってするから、だから、その男にもう嵐を止めるように言ってくれ……!」
なんとクライヴはシスキア城とエルライド家にずっと豪雨を降らせた挙句『俺の大事なマリアベルを苦しめたのだから、もっと罰を受けてもらうよ』と脅しのメッセージまで残していたらしい。
それを聞いたアデックが慌ててマリアベルとクライヴが暮らす屋敷まで飛んで来て、今こうして床に額を擦りつけて詫びているという訳だ。
「アデック様……」
顔を上げてください。そう言おうとしたマリアベルの言葉をクライヴが遮る。
「俺の可愛い可愛い大事な奥さんをいじめたんだから、これくらいで許してもらえると思われたら困るなぁ」
「もうっ! クライヴ!」
確かに突然アデックに婚約解消を告げられ、森に置き去りにされてしまったのはショックな出来事だったが、今こうしてマリアベルの前で許しを乞うアデックはあの時のマリアベル以上に憔悴している。
それにもう彼はマリアベルにとって過去の人で、今更アデックに何かしてもらいたいとは思わなかった。
「クライヴ、私、アデック様のことは本当にもう気にしていないの。それにアデック様が婚約を破棄してくれたおかげでクライヴと出会えたんだから、そのことに感謝すらしているのよ。だからもう嵐を止めてあげて。ね?」
「……それもそっか。コイツにいつまでも床にへばりついていられるのも鬱陶しいし、雨を降らすのはやめてあげてもいいかな」
「本当かっ?!」
クライヴの言葉にガバ! っとアデックが顔を上げるが、視線だけで心臓を止められそうな不機嫌な紅い瞳に睨まれて、再び額を床に擦りつける。
「おい。言葉の使い方に気をつけな。マリアベルはもうこの俺、森の王クライヴの伴侶なんだから、お前みたいな下等な男が気軽に口をきいて良い存在じゃないんだよ」
「もうクライヴ! そんなにいじめないであげて! ……アデック様、後は私がクライヴを説得しておきますから、アデック様はもうお帰りください」
そうしないときっと、アデックの命が危ない。
そう判断したマリアベルはアデックに帰るようにそっと促す。
「――まぁそろそろ雨を降らすのにも飽きてきたし、やめてやっても良いかな。……その代わり、アイツの毛根が根絶やしになる呪いをかけておくよ」
やっとのことで馬車に飛び乗り逃げ帰るアデックを見送りながら、せめて少しでも彼の髪の毛が残りますようにとマリアベルは祈った。
呪いの森の人を喰らう魔物。
今や彼は楽園の森の王クライヴで。
その伴侶となったマリアベルは幸せな人生を送ったという。
fin
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