7/17 忙しさ
最近は忙しい。
違う。違わないか?
1日もなくしてしまった。
日記を書く時間がないというのはそろそろ学生本分テストの時期に差し掛かっているからだ。
人は挑戦することは好きでも、試されることは好きではないと思う。
自ら達成しようとする気持ちがあってこそ、やりがいは発生するのであって他者からの命令でやらされることにもしやりがいがないのならそこには責任感も使命感も生まれないことだろう。
結局やりがいがあったとしても、私は現実の辛さに打ちのめされて泣くしかない。
現実は子供が思うほど甘くないと大人は言う。だから私もそう思う。
しかし、甘ったるい子供の脳で考えた最悪な未来というのは結局それもシュガーエンドなのだろう。
果して大人の言う甘くないというのは何なのだろう。
後悔か?冷やかしか?善意か?寂寥感か?嫉妬か?優越感か?
私にはきっとまだその未来の本質がつかめていないので分からない。
甘くない未来というのは観てみたい。
そう思う好奇心がたるんだ甘さなのだろう。どんなことにも何で?と返す子供のように私も何故社会は世知辛いのかを知りたい。
皆が生きやすいような世の中というのはどうしてできないのだろう。
そこには結局自分個人を尊重しようとする人間の性があるからだろう。
人間は汚く、強く、か弱い。それだからこそ助け合い、貶め合ってしまう。
どこかでそんな言葉を聞いたな。
あれは夢の中の話だったか、それともサンタマリア教会でのことだったか。
まぁ、何でもいい。
言葉というのはどんな偉い人間が言ったというのが本質ではなく、どれほど多くの人間の心に響いたかで決まる者だろう。
それも違うな。
量の問題というのは浅はかだ、質の問題というのは惜しい。
言葉とは希望だ。信念を表す。
人はいつも自分に都合のいいような言葉を無意識のうちに頭の下に滑り込ませて、ソワソワと舌先を見せてくる。
生きやすい世の中にならないのは社会としての人間性が強まり、全体の言葉が統合されてきたからだ。
個々を見れば人間は言葉一つ力強く断言できない。
信念や特別な思いが欠落してしまった。
ゆえに私たちは死や断絶というモノに対してセンスが鈍くなってしまったのだろう。




