7/28 痛みとフキノトウ
加虐。
加虐とは人を傷つけること。
精神的・身体的問わず、意識的・無意識的問わず。
現代社会はまるで剃刀の刃が流れる川のように残酷で、人々の肌を切り裂いていく。
それに逆らうことも、悲鳴を上げることもなく、沈んでいく。
私はそれもイイと思う。全身血まみれで、周りから刺さる奇異と憐憫の視線。
もし本当に剃刀の刃で全身を切り刻まれたら、どれだけ周りの視線が随喜を与えてくれるか分からない。
痛いのも、痛くするのも嫌いだけれど、痛いのを見るのは大好きだ。
神経が全身の全ての細胞から拾う信号。
痛むということは生きているということだ。
本気で生きている人の苦痛がどれほどのモノかなんて私は味わおうとは思わないけれど、間違いなくそこには激しい痛みが存在するのだ。
それがどんなに素敵な事か、世界が弾け、反転した快楽となるのだろう。輝く激痛を受け入れるのも、獲得するのもそれすら痛みを伴うだろう。
私はその輝ける激痛から得られる快楽に酔いしれてみたいとも思う。それは未だ口にしたことないどんな美酒よりも絶品でどんなものとも交換できない得難い快楽だ。
得たくても得られない。そんな焦らすような抑圧感が私を興奮させる。
だから、私は人が生きているところを見るのが好きなのだろう。
私にとって痛みに発狂して、涙して、絶望して、藻搔くさまは正に生きているという感じがする。輝く激痛に通じる道は生きることにあるからだ。
人が最初に上げる産声も悲鳴なのだ。
生きているというどうしようもない激痛に衝撃を受けた初めての慟哭。
死ぬときは突然で泣いている暇もない。
だんだんと安らかに眠っていく、それは痛みからの解放。
生きているという激痛が取り除かれて、分解されていく安らぎなのだ。
死ぬことは恐ろしい。光が消える。自分を確認していた痛みが突然別れを告げる。痛み無しに私たちは私達であると定義することなんてできやしない。
苦痛があっての快楽であるように、苦痛があっての活力。
死は苦楽、与奪を許さない。
それは私にとって何よりも恐ろしく、しかし失われる様は煽情的だ。
恐ろしいことに出くわす度に自分の中の輝きがより一層増していく。
だから私は多くの絶望や死に思いを馳せて、自分を高みへ押し上げる必要がある。
生きることは激痛だ。
我々は痛みを嫌う。
けれど、本来の痛みを忘れてしまった。
思い出さなければ、激痛よりも恐ろしいことが始まる。
痛みを、痛みを、いきたくなる程の激痛を。




