《4》
「ウンディーネ、見て!宝石みたいだ!」
海の上へ辿り着いても尚、まだ僕にしがみつくウンディーネにそう呼び掛けて、上を向くように促す。
顔を上げたウンディーネは、見上げた先を見て、瞳をキラキラと輝かせた。
純粋なその瞳を見て、先程の不安は消えた。
「『星』って言うんだ」
突然そう言った僕を、ウンディーネが不思議そうに見つめる視線を感じる。
僕はそのまま、輝きを宿す空を眺めた。
「ここには、こんなに綺麗なものがある。一生見られなかったかもしれない、光の色」
暗闇を照らす光が、僕には眩しかった。
それは、どうしてなのだろう。
僕は、恵まれている。
家族に、愛されている。
だけど、何か違う。
僕が探しているものは一体何なのだろうか。
何が、必要なのだろうか。
「ウンディーネ、生まれたことを後悔してはいけないよ。どんなことでもきっと、意味のあることなのだから」
そう。
だから、生きなければならない。自分がこの世に生まれた意味を見つけなければ。きっと、何処かにあるはずなのだ。それを、探さなければ。
自分自身の意味を。
「神様はね、乗り越えられると信じた試練しか、僕らに与えないんだよ。だから、僕らもそれを信じて、懸命に乗り越えて行くんだ。どんなことでもきっと、僕らを強くしてくれるものがある筈だから」
輝く星空から視線をウンディーネに移す。見つめながらそう話した僕を何処か悲しそうな顔をしてウンディーネは見つめ返した。
「神様はね、僕らを信じてくれているんだから」
だからきっと、これから先も。
信じて。
「どうした?」
突然、目をまんまるにさせて、驚いたように僕にくっついてきたウンディーネ。
僕の問いかけに答える様子はなく、視線は僕の後ろを見たまま。
不思議に思い振り返った先には、大きく豪華な装いの船。
どうやら、初めて見る得体の知れない巨大なものに、ウンディーネはびっくりしたようだった。
「ウンディーネ、あれはね、船って言うんだ。陸の住人達が、海を渡るために使うんだよ」
驚きを隠せない様子のウンディーネに、僕は微笑みながらそう言った。
すると恐る恐る僕を見つめ返すウンディーネは、暫くこちらを見つめた。
そして、また僕の後方にある船を見つめる。
「ここまでは来ない様だから、このまま少し見ていく?」
僕の提案にウンディーネは、ゆっくりと頷いた。
どうやらやはり、少し興味があるようだ。
僕に隠れるように船を見つめるウンディーネは、本当に可愛らしい。
ゆっくりと船は、僕らから少し離れた場所を通り過ぎようと近づいてくる。
歌が、聴こえた。
優しく暖かい音。
澄み渡る水のような、綺麗な声色。
一瞬で、瞳を奪われた。
月夜に浮かぶ彼女の姿は、儚く美しいものであった。
瞳が、離せなかった。こんな気持ちは初めてだった。
彼女の全てに、心を奪われた様だった。
「⋯⋯?」
ふと、肩に僅かに圧がかかる。
それは僕に強くしがみついたウンディーネが原因だった。
その様子はさっきとは打って変わって、怯え一色の様だった。
「どうしたんだ?」
僕の問いかけにウンディーネが答えるよりも先に、海が、さざめいた気がした。
「王子様」
不意に、僕に声がかけられる。
何処からともなく現れたのは、水の精霊達であった。
半透明の蝶々の姿をした水の精霊達は、僕らの周りで囁く。
「もうじき、海が泣き始めます。どうか、王子様、安全な場所にお戻り下さい」
まさか、と思った。
思わず、船上の彼女を見た。
繊細で儚いその姿は、僕の心を絡め取る。
失ってはいけない、と。
必然的に思った。
「どうにか、あの船が海から逃れることは出来ないか」
問いかけたそれが、無謀であることは自覚していた。
それでも縋りたい、僅かな希望。
「王子様、それは運命でごさいます。手助けすることは出来ても、その先はそのお方の生命力によって生死は決まるのです」
⋯⋯ならば。
「それならば少し、あの船に水の加護を施してはくれないか」
それがどういう事を示しているのか、充分に理解していた。
「⋯⋯よろしいのですか?」
「命令だ」
「我が主の、仰せのままに」
⋯⋯運命は、託されている。
掴むかどうかは、自分次第だ。
水の精霊達は一斉に、彼女が乗る船へと向かう。
星月夜に輝くその蝶達は、光の反射で美しく輝く。
それでもその姿は、滅多に人が見ることは叶わない。
だから。
彼女が一瞬目を向けたのは、きっと何かの気のせいだ。
肌に触れる海の感触が、先程よりも冷たくなる。
寂しさを掻き立てるようなそんな冷たさに、心が痛む。
「ウンディーネ、大丈夫かい?」
未だしがみつくウンディーネに声をかければ、先程よりも怯えは消えていた。
きっと不安や怯えの正体がわかったからだろう。
仮にもウンディーネ。生まれたばかりとはいえ、水関連で怖がることなどそうそうない。
雲行きは怪しくならない。星月夜は尚も美しいまま。
しかし海は、それとは正反対に感情を露わにする。
船上で乗組員の焦る声が聞こえる。
僕とウンディーネは、一度海の中へ潜った。
船の無事を祈りながら、船が向かうはずであろう場所に先回りをしようと向かう。
泣いている海を進むことは、それ程簡単ではなかった。
それでも必死なのは、失いたくないものがあるから。
いつもより暗い海の中の淋しげな雰囲気が、僕を締め付けた。
もう一度海上へ顔を出せば、船上であたふたする乗組員達。
きっと彼等が護るべきであろう彼女は、あろう事か彼等の静止を振り切り必死に何かに手を伸ばすように、船から身を乗り出していた。
彼女の真下から落ちる、何かが光で反射して輝き、海へと落ちた。
思わず、また海へ潜る。
彼女同様、僕も落ちてきたものへ必死に手を伸ばす。
掴んだそれは、繊細な造りの薔薇を象った、優しいピンクの宝石のペンダント。
冷たい海に、そのペンダントはとても暖かかった。
「⋯⋯綺麗だ」
思わず口から出た言葉は、スッと心へ染みた。
突然、僕のすぐ横を何かが落ちてくる。
突然の来客に出来た泡から見えたのは、美しい彼女の横顔。
⋯⋯僅かに、瞳が合ったような気がした。
「⋯⋯っ」
彼女は息を吐くと途端に力が抜けたように更に落ちていく。
「っ、待って!」
必死、だった。
追いかけて掴んだ彼女の手首は細くて、力を入れることに戸惑う。
抱きとめたその体はまるで力が入っていない。
怖くなった。
人はこんなにも、儚いものなのかと。
海の中では、人はこんなにも儚い。
彼女を、失いたくなかった。
必死に陸を目指す。
おかしな話である。一目見ただけの彼女に、ここまで心を揺さぶられるのは。
それでも、気持ちに嘘などつけなかった。彼女と僕が違うと言う事実など、今は気にかける余裕も無かった。
ウンディーネは、心配そうに彼女を見つめ寄り添った。
やっとの思いで陸へ出る。
彼女が乗っていた船はもう姿が遠い。
海は相変わらず、泣いていた。
冷えきった彼女を砂浜へ寝かせる。
こんな時の対処法なんて、僕は知らない。
人と人魚がこんなにも違う事が、もどかしくてたまらない。
呼吸を確認する。
彼女はきっと、あの瞬間に海水を飲んでしまったに違いない。
それを出したほうがいい事は、必然的にわかった。
彼女の胸元辺りを何度か押す。
「っ、けほっ⋯⋯」
海水を無事吐き出す事が出来た様子に安易する。
安易からか僅かに笑みが溢れた。
彼女が、僅かに目を開ける。
「⋯⋯貴方は⋯⋯?」
まだ朦朧とする意識の中、彼女は僕に問いかける。
それに、答えることは出来なかった。
無言を貫く僕に、彼女はまた瞼を閉じようとする。
答える代わりに、僕は、
歌を紡いだ。
彼女があの船上で歌っていた歌。
あの歌は、対になる歌だ。
海の王家に古くから伝わる、愛の歌の一つ。
それを何故彼女が知っていたのかはわからない。
けれど、僕が誰なのか答えるわけにはいかないから。
僕が彼女に伝えられる事は、彼女の歌の対を歌うことだけ。
これが、僕なりの答えだ。
ふと、人の気配を感じる。
木々の向こうに、こちらに近づく気配が。
チラリと、彼女を見る。
また、瞼は閉じられていた。
呼吸は、している。
徐々に近づく人影は、こちらを焦らせた。
人に、見つかってはいけない。
この姿を、見られてはならない。
近くの岩場に身を隠した。
彼女を純粋に護れない自分に、深く失望する。
「人⋯⋯?」
聞こえてきた声は、呟く程度だったにも関わらず、僕の耳によく届いた。
現れたのは二人の男女。
僕自身と同じ歳くらいの青年と、少女。
彼女に近づく二人は、特に害がないように思えた。
それに、深く安易する。
彼女に駆け寄る少女と青年は、心配そうに様子を伺っていた。
「体が凄く冷えてる。すぐに暖めてあげなきゃ、」
少女は彼女に触れて驚いたように、青年を見つめ、そう言った。
青年はしゃがみ、彼女を心配そうに見つめる。
「連れて行こう。家についたらすぐに医者を呼ぶんだ」
そう言った青年は彼女を抱え、少女と二人、来た道を戻っていく。
黒髪から覗いた瞳は、美しい、バイオレットの瞳。
通り過ぎた青年の残り香が、酷く、色濃く、自分に残った。
それは、それは、懐かしい。
海の、香りが、した。