隔てる格子の隙間
リハビリがてら過去作のリメイクです。
拙い過去の自分の作品を眺める事がこれまたなかなかの苦行。
修正してみても拙い作品ですが、宜しければ読んでやって頂けると幸いです。
化け物と罵られて自らこの檻へと入った。
人の奇異の目が何よりの凶器だったあの頃、そうするしか方法はなかったからだ。
何もない殺風景なこの箱が、今は何よりも自分を癒す場所となった。
鏡も水もないこの場所には己の姿を映し出す物は何もない。
己ですら嫌悪し、周りからも嫌悪されたこの醜い姿を。
世に晒さずに済むのだから。
ある村に捨て子が置かれていたのは、もう20年も昔の話。
赤子とはいえ、その面妖さは半獣半人という名に相応しい出で立ちだった。
身体の造りは概ねヒトのそれだが、その殆どが獣の毛に覆われ、耳や鼻は狼や獅子の様に尖り、ヒトらしく映る部分は極僅かしかない。
その姿に村の者は恐ろしがって、その異形が声嗄らし泣くのもそのままに蔑み続けた。
このまま野垂れ死ぬか、はたまたヒトの手を下すのみか。
畏怖の念にそれを遠巻きに眺める人垣を抜け、一人の男が颯爽と進み出てその小さな熱を拾い上げると、腕の中でか細く泣いては薄らと開く瞳の色に、彼は過去を想い微笑みかける。
「おはよう。それとも、いらっしゃい、かな」
ようこそ、この美しい世界へ。
それを引き取ったのは村長の古くからの友人で、
10年前に刀自に先立たれた彼に家族と呼べる者は他に居らず、後添いも居ない。
刀自が亡くなった時にはその腹に子を宿していたのだが、彼女はその子を共に連れて雲の向こうへ逝ってしまった。
彼は自分の傍に置く事を決めたその半端な存在に『ティフェレト』と名を付ける。
セフィロト思想で『美』を意味するその名は、子が生まれた時に一番に贈ろうと以前から用意していた名であった。
美しい物を愛で、美しいという事を知り、己も美しい人で在れ、と願った言葉だ。
彼はティフェレトに人としての生き方を教えた。
この村にいる以上、獣として生きるべきではないと判断したのだが、それと共に、真にその様な生き方をヒトと云う種族で生きる彼には教えようが無かったのである。
だがその中で困る事も多々あった。殺生を教えねばならなかった時だ。
ヒトが獣を食らう道理を如何に理解させれば良いというのだろう。 この子にはどちらの血も通っているのに。
人のエゴでティフェレトを苛ませてよいものか、と彼は悩んだ。
人の常故仕方の無い事、と肯定してしまってはいけない。
それらに支えられて生かされている事を努努忘れてはいけない。
彼はティフェレトにこう告げた。
「いいかい、ティト?人は自分を取り巻く全ての物に生かされている。だから人間は罪深い。でも、だからこそ生かされている者は強く生きなければならない。勿論犠牲になった物への感謝を忘れてはいけないよ?まだ幼い君に……わかるかな?」
ティフェレトは複雑そうな顔をして首を傾げた。
「いつか君もわかる時が来る。その時は……何も、責めないで欲しい」
彼は少し悲しそうに呟いて、ティフェレトの頭を撫でた。
この子がこのまま育ってゆく時、自分はきちんと守ってゆけるだろうか。
半獣半人という立場を完全に理解は出来ない。
自分も同じ境遇でない以上わかってはやれないのだ。
幾ら綺麗事を重ねてもティフェレトの前では無意味な事を知っている。
優しく撫でられて気持ち良さそうに笑う子犬の様な幼児の行く先に一抹の不安を感じた。
数年後、彼は死の淵を彷徨っていた。
傍らにティフェレトを置き、苦しみに苛まれながら己の死を静かに見つめている。
小さかった獣の子は今では青年の姿にまで成長していた。
だが大きくなる程その姿は異様になってゆく。周囲の人間は更に遠巻きに彼を見る様になっていた。
「父さん……まだ、独りにはしないでよ……。どうして……」
傍で縋り泣くティフェレトの頭を柔らかく撫でてやると彼は濡れた瞳で微笑んだ。
「久しく……甘えん坊なのかい、ティト?……昔から変わらないなぁ……」
ティフェレトと過ごしてきた長い月日を思い返す。
刀自と過ごした日々に匹敵する程、ティフェレトと過ごしてきた日々は甚く充実していた。
一人、この孤独な獣を残してゆくのは忍びない。
だが運命には逆らえないのだ。
もう自分が時を刻む事を許されていない事を彼は痛切に感じていた。
「ティトはいい子だもんなぁ……強く、優しく、美しい、私の自慢の息子だよ。だから、私は神の下へ……いつまでも、ティトへの加護をして頂けるよう頼みに行くのさ……そして、妻と一緒にティトを見守っているよ……」
最後の力を込めてティトの手を握る。
強く握り返された手には不安と、悲しみと、それとは裏腹に在る必然の生きる力が有る事を伺わせた。
「生きなさい。君は強く生きるんだ。大丈夫……この世界は、美しい。そして、君は美しい物が分かる子だろう?それが分かれば問題はない。君は一人ではないよ……」
ありがとう、という言葉を最後に彼の瞳は永遠に閉ざされた。
泣き叫ぶ獣を傍らに残し、彼は天命を全うした。
ティフェレトは、独りになった。
『彼』を村の葬儀に出した後、長から告げられた言葉は残酷で、冷たい響きを宿していた。
「今までは彼が居たので君をここに置いていたが、その彼の亡き今、君が此処に居る理由は無い。村の者も依然君を怖れている。辛いだろうが……早い内に立ち去りなさい」
何も責めないで欲しいという生前の彼の言葉は、真実だろうか。
幼い頃に聞いたあの言葉はこの時の為に語られたのだろうか。
恨んで、責めて、衝動のまま壊せるのならばそうしたい。
だがそれは野性の獣のする事だ。彼は人として自分を育てたのだ。 この出来損ないの生き物を。
バケモノと蔑まれる存在を。
ならばそれに報いて、目を瞑ろう。
彼の気高さに免じて、この仕打ちを許そう。
救いの無い世から外れ、別の世界で生きるだけだ。
独りになる覚悟は、もう既に出来ているのだから。
昔、地に堕ちた神を幽閉したと言い伝えられている囹が森の奥深くにあった。
白く大きな箱の出で立ちに、金属の格子が横の一面にだけ不均等に張られている不思議な囹だ。
村を追い出された彼は彷徨い歩いた末に見つけたそこに自然と惹きつけられ、そこに足を踏入れる。
二度と此処から出る事はない。
バケモノの自分を留めるにはお誂え向きだ、と物悲しく笑って、人らしく在る事を放棄した彼は繰り返される日々、その夢の中で、優しかった養父の言葉のみを拠り所に夜に癒しを求めていた。
初めて迎えた独りの夜も、変わりゆく世界の有様も彼には苦痛でしかない。
生きる事を否定され、それでも大事な人との約束を守る為、ただその為だけに生きる。
存在の意味など皆無で。
孤独と己の身だけを呪い、時を無意味に刻んでいた。
それからどれだけの月日が経ったのだろうか。
彼はその檻から出る事無く、生きていた。
格子の前を横切る獲物や草を糧に彼は生き延びていたのだ。
だが生きる事に疲れ、痩せ衰えた彼の心は荒み、豊かな感情は枯れ死んだ。
そんな彼に最早、人の面影は無くなっていた。
唯一遵守していた『美しい』という観念すら消えてしまう程に、彼の心は疲弊を極めている。
生ける屍は、ただ其処に佇むだけであった。
「……そこに居るのだぁれ?ライオンさん?」
ある日、彼はその幼い声で目を覚ました。
見ると、格子の前に少女が立っている。
こんな森の奥に人が訪れた事など一度もない。
久方ぶりに目にする人間に格子を隔てているという事も忘れ、彼は反射的に身構える。
「怖がらなくていいのよライオンさん。大丈夫だよ」
屈託の無い笑みで微笑む少女に、敵意の無い事が窺えて、威嚇の唸りだけは解くことにした。
「なんでこんなとこにライオンさんが居るのかなぁ?」
格子にしがみ付く少女は彼をただの獣と思い込んでいるらしい。
返事を待たぬまま独り言のように問い掛けた。
「好キで、居る訳ジャ……な……」
久々に声に出して話す言葉は上手く紡がれず所々擦れていた。
「あなた、言葉が喋れるの!?」
少女の驚きの声の大きさに思わずビクリとする。 そのすぐ後に彼は後悔した。
喋らなければ自分をただの獣扱いして少女はすぐに立ち去ったかもしれないのに。
奇異の目に晒されるのは、もう、うんざりだ。
「あなた、凄いのね!お喋りできるライオンさん、私初めて見たわ」
意外な言葉に耳を疑った。
少女は眼を輝かせて彼をじっと見つめる。
「私の名前はヘセド。あなたのお名前は?」
「俺は……ティフェレト」
先程よりは上手く声になった言葉は、綺麗に響いた。
「ティトは……ヒトなの?何でこんな所に居るの?一人で淋しくない?」
格子を隔てた外の世界で彼と向き合いながら昼食を取る少女は、母親に作ってもらったというサンドイッチを頬張りながら問い掛けた。
「……あぁ『人』さ。ライオンじゃあない。この先の村から追い出されて……行く所が無くて此処に居るだけだ。今は、一人だ」
訊かれた全てに答え終えると彼は虚空を見つめた。
少女が彼の元に通い始めて早一週間が経とうとしている。
この小さな来訪者に彼は少し戸惑っていた。
だが少女の、彼に対する触れ合い方が決して互いに怖れを抱かせないものだと知り、少しずつ彼も口数が増えてゆく。
「何で追い出したりしたのかなぁ?ティト、こんなに優しい良い人なのにねぇ」
「こんなナリだからだろう……ヒトでも獣でもない生き物なんて、気持ち悪いだけだから」
皮肉っぽく笑うとヘセドは反論した。
「そんな事ないよ!ティトは良い人だよ。今ね、私の居る村で大人たちが戦争の用意してるの。他の国の人がね、襲ってくるらしいの……村の皆も、他の皆も、ティトみたいに優しい人ならいいのに……」
そう言って昼食の最後の一口をヘセドは重く飲み込んだ。
「なぁ、ヘス……『美しい』って…わかるか?」
白い壁に背を預け、まだ虚空を見つめている彼は徐に口を開いた。
「俺にはもうわからない事なんだけれどな……美しいという事がわかればそれでいいんだよ…皆にはもうわからなくても、ヘスがそれを忘れなければ……」
微かな願いの込められたティフェレトの言葉は、昼食を片しているヘスの手を止めた。
「うん……わかるよ。お花とか空とか絵とか……んー、あとは……ティトも」
一瞬、ヘセドに養父の面影が重なった。
唯一、自身を美しいと言ってくれた人の言葉が無意識に頭を過る。
「ティトの瞳の色、凄く綺麗よ。美しい、って感じる」
衣服に付いた土埃を払いながら立ち上がり、少女は微笑んでティフェレトを見やる。
「ティフェレトって言葉はセフィロトで『美しい』って意味でしょう?私のヘセドっていうのもね、『慈悲』っていう意味があるんだ。ティトの名前、あなたによく似合ってるよ」
そう宣うヘスの微笑みは、その名の通り慈悲深い女神の様であった。
一度村に帰ると言ってそのまま立ち去ったヘスの言葉を、彼は幾度となく反芻していた。
もう二度とこんな人間に出逢えはしない、と。そう思っていたのだから。
養父に人の全てを見ていた彼は、その周りの人間の闇を知らなかった。
それを目の当たりにした時から、世界は全て闇に包まれていると、そう思い込んでいた。
だが、ヘセドはその闇に満たされた世界に亀裂を入れ、その隙間から内に光を注ぎ入れる。
この檻に踏み込んだのが己の意志なら出て行くのも己の意志で、だ。
今一度踏み出す一歩を。
背を押してくれた少女の居る世界で、共に生きたいと願った今なら。
久々に見渡した世界は広く澄んでいて美しかった。
綺麗な風が流れ、生き物が在るがままに生きる。
懐かしい空は遠く高く彼を見下ろしていた。
天上を仰ぎながら肺に満たした空気の中に、どこか血生臭い物がある事にふと気付いた。
然程遠くない場所で血が流れている。
獣の勘、だろうか。それとも、ヒトの本能だろうか。
嫌な予感がして、その匂いを辿った。
段々濃くなるその匂いに吐き気を覚えながら進むと、自分が居たのとは別の村に突き当たる。
足を踏み入れると、其処彼処で木材が焼け落ち、辺り一面血が散った戦の跡生々しいその村は、生の気配を微塵も感じさせない。
殺戮を終えたその有様は地獄絵図さながらで、黒煙と生き物の焼ける匂いの混ざり合うこの場所を進むだけで酷く気分が悪かった。
点在する力無い肢体はどれも赤く染められ打ち棄てられている。
その中に見つけた小さな姿に目を見張った。
小さな塊がその母と思しき女性に硬く抱かれている。
微動だにしないその二つのヒトの形に、刹那、嫌な想像が頭を過った。
本当は知りたくもないが、答えが杞憂であれば、と安心したくて。期待と願いと最悪の想像の鬩ぎ合いに胃が焼かれる思いで。
彼は恐る恐るその肢体に近付く。
手を伸ばし、母親の腕を解いた先。
虚しくも願いは届く事無く、見間違うはずもない、ヘセドの姿がそこにあった。
動かぬその小さな塊を母の腕から奪い抱き寄せると冷たい死の感触がした。
折角、生きてゆけると思ったのに。
ようやく、本当に美しいものを見つけたのに。
亡骸を抱いて彼は叫んでむせび泣いた。
───カミサマ、これが美しい世界ですか───?