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覚醒の夜


 首筋に突き立てられた牙が、血を、生命を抜き取っていく。

 すこしずつ、死んでいく感覚。すこしずつ、人でなくなっていく恐怖。

 それゆえに、渾身の力を込めて握っていた鉄屑から、だらりと手が離れる。

 鉄屑は、だが、この手を離れてもなお、かの胸を貫き続けていた。

 そう、俺はたしかに心臓を貫いた。貫いたはずだ。

 しかし、牙はこの身に突き立てられたままだ。

 その吸血は微塵も衰える気配がない。


「――ああ、美味しかった」


 赤く染まった血牙が引き抜かれ、体温を失った身体はそのまま地面へと倒れ伏す。

 力なく仰ぎみた夜空に星はなく、月さえも失せようとしていた。

 見えない。夜空の輝きが見えなくなるほど、死に近づいている。


「んっ……はぁ……」


 ずるりと、抜ける。

 夥しい量の血を漏らしながら、彼女は胸から鉄屑を引き抜いた。


「うふふ。何時ぶりかしらねぇ、反撃を許したのは」


 不敵な笑みを浮かべた彼女の傷は、すでに癒えている。

 命懸けの反撃は、無意味に終わった。


「いいわ。あなた、とっても気に入――た」


 静けさに満ちていく。

 聴力も、もはや維持すら出来ない。


「あ――は、生かし――げる。私の眷――するの――そう」


 薄れ行く意識の中、強引に口を広げられ、何かを流し込まれる。

 噎せ返るような、血の臭い。

 甘く美しい、血の匂い。

 相反する矛盾を抱えながら、意識は闇へと落ちていく。

 そして、命を手放した。



「なんだよ、辛気くさいな。まーたあの夢を見たのか?」


 飾り気のない店内に充満する珈琲の匂い。

 寡黙な店主と、無駄話をしない店員。

 音量が控え目に設定された蓄音機。

 そんなゆったりとして落ち着いた雰囲気を、粉砕器でバラバラにぶち壊すかのように、育太いくたは俺をからかった。


「あぁ、そうだよ。悪いか」


 幾ばくか気分を害しつつも席につき、注文を済ませる。


「もう一ヶ月も前にみた夢の話だろ? いい加減、忘れろよ」

「それが出来りゃあ苦労はしないんだ」


 あの夢を見るたび、その日一日は陰鬱な気分になる。

 とにかく気が滅入ったように気力がなくなり、何も手に付かない。


「それに、なんだか最近、風邪っぽいんだよ」

「それで一段と。そういや、飲み物たくさん頼んでたな」

「あぁ、やけに喉が渇くんだ」


 悪夢にうなされ、風邪に苦しめられ、散々だ。


「吸血鬼に殺される夢、ねぇ。でも、生きてるだろ? 宵噛帳よいがみとばりはここによ」

「まぁ、そうだけどさ」


 生きているんだから殺される夢なんて気にするな。

 何度も何度も育太に言われた言葉だ。

 だが、そう言われても簡単に拭い去れるようなものではない。

 脳裏にべったりと、それこそ血痕のように、貼り付いて離れない。

 あの光景が、映像が、目に焼き付いて、いつまでも消えてなくならない。


「――それより、だ。ほら、お目当てのノートだ」


 話のすり替えを計るため、今日ここにきた目的を果たす。


「おっ、待ってましたっ! いやー、ほんと助かるぜ。お前がいるから俺は留年せずにいられるってなもんだ。よっ! 日本一!」

「あぁ、わかった。わかった。わかったから静かにしろ。ほかの客に迷惑だろ」

「あ、あぁ、悪い」


 育太でも気恥ずかしさは感じるようで、素直に声量を落とした。


「ま、とにかく夢なんて気にするなよ。だって、吸血鬼だぜ? 御伽噺の住人だ。そうそうばったり出くわしたりはしねーよ」

「そう……だな」


 吸血鬼と鉢合わせるなんてことは、ない。


「――っと、もうこんな時間か」


 ふと、腕時計に目をやった育太は、受け取ったノートを仕舞い込んで立ち上がる。


「まーた女のところか?」

「あぁ、そうだよ。悪いか?」

「意趣返ししてんじゃねーよ」


 そいつは俺の台詞だったはずだ。


「はっはー。じゃ、またな。可愛い彼女が俺を待ってる」

「あぁ、七人目の彼女によろしくな」

「ちげーよ、これで八人目だ」

「悪化してんじゃねーか」


 ジゴロというか、たらしというか、だ。

 会う度に彼女が変わっていると言っても過言ではない、かも知れない。

 それくらい育太は女を取っ替え引っ替えしている。まぁ、育太のポリシーとして二股は掛けないと言っているが、それはそれである意味、残酷な話でもある。


「あ、そうそう。美味いラーメン屋を見つけたから、今度一緒に行こうぜ」

「あぁ、楽しみにしてるよ」


 出入り口のベルが鳴ってテーブルに一人になると、見計らったように注文していた飲み物がくる。

 これを飲んだら家に帰ろう。そう思いつつ、コーヒーカップに手を伸ばした。



「――お客さん。お客さん」


 誰かの声に引き上げられるように、微睡みから意識が覚醒する。


「あ、れ。寝てた……のか」


 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 硝子越しにみた空はすでに暗く、満月が居座っている。

 街灯には明かりが灯り、行き交う人達は心なしか急ぎ足であるように映った。

 しかし、そんな人とは対象的に、自動車だけは動いていないように見える。

 そのことを少し不思議に思いつつ、席を立つ。


「すみません。こんな時間まで」

「大丈夫ですよ。お得意様ですから」


 店員さんの優しい言葉に安堵しつつ、会計をすませて喫茶店を後にする。

 ベルの付いた扉を開けると、途端に耳を覆いたくなるような音に襲われた。

 それはとても聞き覚えのある音。自らの存在を周囲に知らせるためのサイレン。

 音の発生源に目を向けると、すぐに大きな白の車体が通り過ぎていった。

 救急車。どこかで事故があったらしい。

 この渋滞もその所為か。


「夜も遅いですから、夜道に気を付けてくださいね。あと、吸血鬼にも。ないとは思いますけどね」


 あの話を聞かれていたのか。

 すこし照れくさい。


「どうも、ありがとうございます。じゃあ、また」


 見送りに来てくれた店員さんにそう返し、寒空の下に身を晒す。


「はぁー」


 息を吐くたび、白く色づいては霧散する。

 ふと見上げた空には星の輝きが散りばめられていた。

 あの夢のように。あの吸血鬼に出遭う直前のように。


「喉……渇いたな」


 風邪だからか、寝起きだからか、空気が乾燥しているからか。

 喉が、渇く。


「……家になにかあったっけ」


 はやく帰ろう。身体の芯まで凍えてしまわぬうちに。

 寄り道などしている余裕はない。その思いで爪先を自宅に向け、歩幅を広く鳥ながら歩く。

 しかし、その思いとは裏腹に、この足は数分と経たずしてその動きを止めることになる。


「なんだ? この匂い」


 仄かに香る、甘い匂い。

 周囲を見渡してみても、それらしい飲食店はない。

 だが、たしかに漂ってくる。この先から匂ってくる。

 誘われるように、背中を押されるように、ふらりと爪先は帰路から逸れた。

 普段なら避けて通るような薄暗い路地を通り、匂いだけを道標に舵を切る。

 次第に濃くなる匂いと、それに比例するかのように騒がしくなる喧騒。

 この先にある匂いの元は、それだけ繁盛している店なのか。

 そう思いつつ、ようやく狭い路地を抜けて辿り着く。


「――なんだよ……これ」


 そこにあったもの。

 それは蠢く人の群れと、地面を紅く染め上げるほどの血溜まりだった。


「うわー、こいつはひでーな」

「事故った奴、どっちも血塗れだぜ」

「見て、道路めっちゃ赤い」


 交通事故現場。

 匂いにつられて辿り着いた場所は、そんな凄惨な光景が広がる地獄絵図だった。

 先ほど見た救急車もある。ただの鉄屑と化した自動車から、血塗れの怪我人が運び出されるのも見えた。

 匂いの元は、たしかにここだ。だが、ここに飲食店などない。

 この匂いは、甘い香りは――この血溜まりの匂いだ。


「――くそッ」


 自分が血の匂いにつられて来たことを理解し、ぞっとしてすぐに踵を返す。

 背を向けて暗い路地へと走った。この甘い匂いを振り切るように。


「……なんだよッ、これはッ!」


 どうして疑わなかった。

 どうして疑えなかった。

 どうして理解した、納得した、受け入れた。

 ほんの僅かにでも、違うと思えなかった。

 あれは血だ。血溜まりだ。血の匂いが、鉄の匂いが、甘く感じる筈がない。

 それでも、未だに香り続けるこの匂いは――この上ないほど甘くて美しい。

 そう思えてならない。

 渇く。渇く。渇く。渇く。

 喉が、渇いて仕様がない。


「どこだ……ここ」


 無我夢中で匂いから遠のくことだけを考えて足を進めた所為で、見たこともないような場所に来てしまう。

 夜で視界が悪いこともあるが、まったく土地勘が働かない。


「――公……園」


 だが、幸運にも公園を見付けた。

 公園には水道がある。水が飲める。この渇きを沈められる。

 そう思うと居ても立ってもいられず、水道の蛇口に手を掛けた。


「……な、んで」


 けれど、溢れ出る水をいくら飲んでも、この渇きが静まることはなかった。

 寧ろ、余計に酷くなる。

 海水を飲んでいるのかと錯覚するほど、喉の渇きは酷くなる。

 ダメだ。これではダメだ。水では、この乾きを静めることは出来ない。

 もっと濃いものが欲しい。

 水よりも濃くて、甘くて、美しいモノ。

 赤く、滴り落ちる、血液が――欲しい。


「――誰だッ!」


 感じたのは気配ではない。匂いだ。

 甘い匂いが、急に強くなった。血の匂いが、濃くなった。


「今日は……いい夜だなぁ」


 雲が夜風に流され、月明かりが公園と共に、何者かを照らし出す。

 闇に融け入るほど黒く塗り潰されたスーツを纏う、壮年の男性。

 彼はこちらではなく、月を見上げながら感じ入るように呟き、ゆったりとした動作で、なにか重い物でも引きずるように近付いてくる。


「一夜に二人もだなんて」


 一歩、また一歩と進む足取りは、重く鈍い。

 その原因は、彼が月明かりを歩むたび、すこしづつ露わとなる。

 初めは棒のような何かを引きずっているように見えた。だが、すぐにそれが何者かの片足だと気がつく。

 ずるり、ずるりと、無抵抗の人間を――いや、抵抗すら出来なくした誰かを、血塗れの元人間を、奴は引きずり歩いていた。

 死体を引きずる男。殺人犯。殺人鬼。

 違う。そんな生やさしい存在じゃあない。


「お前ッ――まさかッ」


 にやりと歪に笑う男の口元には、赤く滴り落ちた血の跡があった。


「あぁ、そうさ。その通り。私は吸血鬼。キミを美味しく喰らう者だ」


 瞬間、奴の背中から漆黒の翼が生える。

 人体から決して生えることない異形の羽根。

 鴉のような濡羽。

 それを目にした直後、認識した刹那、身体は逃避に向けて動いていた。

 眼前の脅威から背を向けて、地面を蹴ろうとした。


「逃がしはしないよ」


 けれど、間に合わない。

 すべては一瞬。

 背を向けた時にはすでに遅く、身体が宙に浮くほどの衝撃に見まわれる。

 何が起こったのかさえ理解も出来ないまま、身体は何度も地面と接触し、転がり、跳ね飛び、果てにジャングルジムに激突する。


「――かはッ」


 ずるずると、滑り落ちるように地に足をつく。

 全身を駆け巡る激痛に襲われ、火で炙られているかのような熱さに焦される。

 朦朧とする意識と霞み始める視界。喉の奥から込み上げてくる生暖かい何か。

 それは危機的現状を、死へと近付いたこと、如実に現していた。


「これ、なんだと思うね?」


 男の手のうちには、血に濡れた白い何かがある。


「キミの背骨の一部さ。逃げられないよう、抜き取らせてもらった」


 ぐしゃりと、潰れる。

 林檎でも握り潰すように、その背骨は破壊された。


「おや、反応が薄いな。もう立っているのがやっとかね? これはいけない。血は生きているうちに吸わなくては。本当は男の血など好みではないのだがね、若いだけ幾分かマシなもんさ」


 いつ――だっただろうか。

 あの夢を見たのは。


「さて、では早いところキミにありつくとしよう」


 あの夢も、あの時も、こんな風だった。

 吸血鬼に追い詰められ、死ぬ寸前にまで追いやられた。

 それから、俺は、どうしたんだっけ。


「いただきます」


 牙が、血牙が、この身に迫る。

 逃れようのない絶望を前に――身体は以前の行動をなぞるように駆動した。


「――が、あ?」


 この手に握るは、鉄の屑。

 衝撃で千切れたジャングルジムの破片。

 決して鋭いとは言えない鉄屑を、だが無理矢理その心臓へとねじ込んだ。


「あぁ、そうか。たしか、こうしたんだっけ」

「き、貴さ――」

「黙ってろ」


 より深く、深々と鉄屑を突き立てる。


「そうだ。思い出した――あの夢の続きを、あの日の続きを」


 あの日、あの時、命を手放した瞬間、俺は人間から吸血鬼へと堕ちたんだ。

 ごくりと、喉の奥から込み上げてきた、なにかを飲み干した。


「調子づくなよ、このちっぽけな人間風情がッ」


 命を刈り取ろうと、五本の鋭爪が空を掻く。


「俺は黙れって言ったんだ」


 迫りくる死の脅威よりも速く、吸血鬼の頭蓋を地面へと叩き付ける。

 音がした。

 鼻が潰れ、歯が折れ、眼球が破裂し、骨が砕ける音がする。

 そこへ更に畳みかけるよう、爪先で弧を描く。

 鎌で足下を薙ぐように、足は吸血鬼の首を捉え、刈り取るように蹴り飛ばす。


「これで少しは静かになったか?」

「かッ――あぁッ」

「そうか。そいつはよかった」


 ゆっくりとジャングルジムから背を離す。

 破裂した血管を、千切れた筋肉を、引き裂かれた皮膚を、抜き取られた背骨を、再形成しながら、再結合しながら、再生しながら、眼前に這いつくばる吸血鬼に近付いた。

 一歩、また一歩と進むたび、人から遠ざかり、吸血鬼へと近付いていく。

 闇夜に目が慣れ、嗅覚が敏感になり、体温が失せ、人間の感覚が吸血鬼のそれへと置き換わる。

 それが臨界にまで達した時、月光に照らされた俺の影に、背に、一つの異物が混ざり込んだ。


「片方だけの濡羽……だと」


 翼。

 片方だけの羽根。

 それは吸血鬼の証。


「ま、待ってくれ! 知らなかった! 知らなかったんだ! お前が半分だけでも同属だったなんて! そ、そうだ。お詫びの印に、そこの死体をやるよ。まだ死んで間もない。新鮮なんだ。な? な!?」


 潰れた鼻も、折れた歯も、破裂した眼球も、砕けた骨も、半ば再生しつつある吸血鬼は、勝てないと悟るや否や、そう命乞いをする。

 甘く美しい香りのする、喉から手が出るほど欲しい血溜まりを指差して。


「……お前も、覚悟の上なんだろ?」

「な……に?」

「殺される覚悟が、お前にはあったはずだ。誰かを殺そうとして、実際に一人殺しているんだ。当然、あるはずだよな? ないとは――言わせない」


 また一歩、近付く。


「お前は俺を殺そうとした。だから、お前は俺に殺されるべきだ」


 地面を蹴り、肉薄する。


「――や、やめッ」


 伸ばした手が吸血鬼の顔面を掴む。同時に、奴の後頭部を地面に叩き付けた。

 ぐしゃりと潰れる肉と骨。夥しい量の血液が周囲に血溜まりを作っても、吸血鬼にはまだ息がある。

 この程度では死にきらない。まだ殺せない。だから、止めを刺すべく、指先に渾身の力を込める。


「が――あ、ああッ――」


 手が、指が、吸血鬼の顔面に食い込んでいく。

 骨が砕ける乾いた音と、脳が崩れる濁った音。

 それらが重なって響き、最後に大きな音を鳴らして、この手は握り締められる。

 瞬間、顔を無くした吸血鬼は、一度、大きく痙攣した後に動かなくなった。

 いくら吸血鬼と言えど、頭を潰せば死ぬらしい。


「へぇー、やるじゃん」


 吸血鬼を殺害したところで、高い位置から声が降ってくる。

 立ち上がり様にそちらに目を向けると、街灯の上に一人の人間――いや、吸血鬼と思しき誰かを見る。

 月を背にした彼女には、俺と同じ隻翼の濡羽が生えていた。


「誰だ? あんた」

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