79話 雪色エチュード
──低く垂れ込め、分厚い絨毯のような雲が天を覆う。
わずかな風すらなく、吐く息を白く染め抜く冷えた大気。
ふと、窓から外を見れば…
ちらり、はらりと雪が舞い始めた。
大都市、東京に雪が舞う。
アスファルトの大地に舞い落ちれば、スッと溶けてしまう儚い雪。
……なーんちって。
窓ガラスに映った自分の姿を見て我に返る。
ネクタイをハチマキ代わりに頭に締め、まるで泥酔した会社員のようだった。
いかん、現実逃避をしている場合ではない。
とっととお仕事を片付けて帰りましょ。
渋々とモニターの前に座り、キーボードを叩き始める。
これが、どうしても週明けに必要なのー。
あーあ、妖精さんとかが勝手にまとめてくれないかなー?
たまには、そんな妖怪妖精が俺の前に現れても良いと思うのー。
それにしてもお腹空いたなー。
「…ようやく終わった。」
「うーん」と腕を伸ばすと、クキッと関節が鳴る。
「次長! 終わりました。」
俺がそう声を掛けると、次長席で書類の確認をしていた次長が顔を上げる。
大西次長。長身の苦味走った渋い俳優のような男性である。
「おぅ、ご苦労さん。んじゃ帰るか? 」
そう言って次長は席から立ち上がり、コートを取る。
次長ってば、俺の仕事が終わるまで、わざわざ待っててくれたのかぁ。
管理職ってのも大変だなー。
「帰りはタクシー使ってもいいぞ? 領収書は貰っとけよ。」
2人でロビーへと降りながら、次長は笑いながら言う。
持つべきものは部下思いの上司よね。
次長は警備員の須磨さんへ
「遅くなってすまんね。お疲れさん。」と声を掛け労う。
俺も慌てて
「すいませんでした、お先に失礼します。お疲れ様でした。」と挨拶する。
須磨さんは笑って「大変でしたね。お疲れ様でした。」と軽く敬礼してみせる。
「そうそう、どちらかの良い女性かな? 外で美人さんが待ってますよ?」
須磨さんは、外をチラリと眺める。
「寒いから中で待っては?と声掛けたんですけどね。」
コートに袖を通しながら次長は
「そりゃ姫神のだろ。」とニヤリと笑いながら言う。
「若いって良いですなあ…。」
これまたニヤニヤと笑いながら須磨さん。
「ほら、美人は待たすな。」と次長に背中を押される。
「じ、じゃあ、すいません。お疲れ様でした。」と二人に頭を下げ外へと出る。
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──そこに居たのは……
綿雪のような雪が降る中、古風な和傘を差し
銀糸の雪の六花の刺繍の白い着物姿。
その上に、えんじ色の道行コートを羽織った雪の精霊だった。
……ツイと彼女は傘を上げる。
見事な黒髪をまとめ上げ、まさに雪のような雪白の肌。
そんな白と黒のコントラストの中に映える桜唇の鮮やかな紅。
そして伏せた黒目がちの瞳をソッと上げ、嬉しそうに微笑してきた。
雪音さんだった。
「……わざわざ迎えに来てくれたの? 寒くなかった?」
俺がそう言うと彼女はクスクスと笑う。
「……わたし雪女ですよ? 」
そう云いつつ雪の女神は俺にツイと歩み寄ると、さり気なくマフラーを直す。
甘やかな雪音さんの薫りが鼻孔をくすぐる。
そんな仕草に、何とも言えない愛おしさが、こみ上げてくる。
「……さ、帰りましょう? 」
雪音さんの和傘に二人で入り、舞い落ちる雪華の中を並んで歩く。
二人でしばらくの間、無言で歩いていたが
そっと手を伸ばし、雪音さんの手を握る。
雪音さんは、前を向き歩きながら「そっ」と微笑み
何も言わずに、俺の手を握り返してきた。
夜の闇から落ちてくる雪は牡丹雪へと変わり
それがビル風に吹かれると、まるで桜の花びらのように舞い上がる。
そんな中を二人で手を握りあったまま
習い始めたエチュードのように、ぎこちなく歩く。
雪の降る街はとても寒かった。
が、心はとても暖かな気持ちだった。