33話 ハード・ボイルド
珍しく早め仕事が終わった。
会社を出ると、まだ陽がある。奇跡じゃなかろうか?
ちょっと頬を抓ってみる。「痛い。」…夢じゃない。
「こんばんわ。」
不意に声を掛けられた。もちろん知っている声だ。
振り向くと、やはり天狗の太郎坊だった。
先日のことがあったので若干ビビリながら
「な、何かな?」
レディースのメッシュジャケットとスカートのサマースーツ。
肩からブランドと思しきバックを下げて会社帰りの、ちょっと小粋な女性と云う出で立ち。
銀髪おさげの女は緑色の瞳をまじろがせ「ふふッ」と微笑む。
「少しアプローチ方法を変えようかな?と思ってね。」
俺のネクタイを直しながら見上げるように、大きな翠眼が俺の目を覗き込んでくる。
……こういう仕草を自然にしてくるところが逆に怖い。
(確かにかわいい。……可愛いのだが。)
残念な美人という言葉がある。
彼女の場合は何と表現すればいいのだろう?
「八咫式恋愛術指南は、どうにも逆効果でしかないようだからね。」
八咫の入れ知恵だったのか…
なんで、あの烏天狗の恋愛観は見敵必戦思考なんだろうね?
「まあ、最初はお友達から!ってことで。」
いきなり健全思考になった。
友達なら…まあ、いいよね。飛行機好きに悪い人はいないし。
「ちょっと一杯飲んでいかない?」
飲む?居酒屋とかかな?……焼き鳥とか食べたいなぁ。ゴクリ。
「少しだけならね。」
連れて行かれたのは、ビルの地下にあるバーだった。
どうも焼き鳥は食べられそうにない。
生演奏のピアノがジャズを演奏している。
そんな小洒落た雰囲気の中で上品そうな老紳士が
紫煙を燻らせながら静かにをオールド・ファッションド・グラスを傾けている。
ハード・ボイルドの世界だね!
……本当にいるんだ。こういう人達って。
とても酷い場違い感を感じる。思わずキョロキョロしちゃう。
だけども確かに静かで雰囲気の良いバーだった。大都会の隠れた穴場ってやつ?
太郎坊は慣れた感じでカウンター席に座り、その横に借りてきた猫みたいに座る。
「マスター。とりあえずの一杯。彼にも」と太郎坊が注文をする。
これまた渋いマスターが「畏まりました。」と慇懃に答える。
(かっこいい…あこがれちゃうなぁ。)
磨かれたグラスと氷、そして薄い琥珀色の液体が柔らかい照明の光に輝く。
「カランッ」と氷がグラスの中で踊る。
「乾杯」
太郎坊がグラスを軽く掲げる。慌てて俺もグラスを合わせる。
チビリと一口。……エラく上等なお酒だった。
こんなのが一酔千日の酒って言うのかな?と思った。
確信する。この店は高い。カード使えるかしら?
そんなバカな心配をしつつ、太郎坊と飛行機談義をする。
楽しい話をしていると、お会計の事などすっかり忘れて杯を重ねる。
「…酔っちゃったみたい。」
彼女は俺にもたれかかって来た。
俺の肩に頭を預けながら、彼女の細い指が、俺の手をトントンとなぞっていく。
何とも言えない妖艶な仕草に思わず、背筋にゾクリとくる。
あれ?……ひょっとして、これは罠!?
ヤバイわー。この状況って無茶苦茶追い込まれてるじゃないか!
「……今夜は帰りたくない。」
冷や汗が出てきた。
そんな事云われても困ります!ボクちゃん帰りたい!
「…お隣、よろしいかしら?」
後ろから、そんな声が掛けられる。
現状打破のチャンスとばかりに「どうぞ!」と後ろを振り向く。
そこには黄金の髪をまとめ上げ夜会服姿の玉藻さんが、おすまし顔で立っていた。
(ああ!助けに来てくれたんだね!ありがとう玉藻さん!)
痛い!姫に手の甲を抓られた。
ここで余談である。
突然の玉藻の登場。
これは天狗側と狐神側の高度な情報戦活動が背景にあったのである。
諜報活動と防諜活動の凄まじいまでの応酬の果ての結果がこの邂逅なのである。
天狗勢力の怪しげな動きを察知した浅葱は、あらゆる手段とチャンネルを利用して情報の収集を開始した。
この動きを感知した天狗側の八咫は、ただちにヒューミント、シギント、イミントの各種カウンター作戦を開始する。
ご存知の通り、天狗とは日本の妖怪の中では大きな勢力を持つ大派閥である。
その圧倒的マスによるカウンター。常識的に考えるのであれば手堅く必勝の手法である。
だが少数精鋭と玉藻に絶対の忠誠を誓う式神たちに翻弄される結果となった。
別の角度からの見方をするならば、狐とカラスの化かし合い。
浅葱色と八咫の激しい化かし合い合戦の成れの果て。と形容するべきか。
その緒戦は浅葱色に軍配が上がることになったのである。
その晩の彼女の執筆活動は、筆が乗りにノリ
またもや「罵倒」と云う名の絶賛の嵐を呼ぶことになる。
余談が過ぎた。
玉藻さんは俺の隣に座ると、マスターに一杯オーダーし姫を睨みつける。
天狗はフイッと向こう側を向く。姫のこんな悔しそうな顔を見るのは始めてだ。
少し可哀想な気がしないでもない。
何にせよ助かった。改めて、ありがとう玉藻さん。
マスターから杯を受け取り、俺に微笑みながら「乾杯」。そして一口付けると
「…酔っちゃったみたい。」
玉藻さんは俺にもたれかかって来た。
ウソつけ!!!一口しか飲んでねえじゃねえかよ!
「……今夜は帰りたくない。」
あんたもかよ!!!
この後、俺を挟んで笑顔で静かに睨み合う金と銀の三人を眺め
「若いの。頑張れよ。」
と言い残し先程のハード・ボイルドな老紳士がニヤリと笑みを浮かべ帰って行った。