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Gin

Asian Way

作者: 志摩

  舞う風の


  薔薇の香りは甘く


  心を乱していく




  その紅い輝きは


  血の色のように生々しく



  その蒼い輝きは


  肌に透けて見える血管のようで





















  その紫の輝きは


  妖艶な


  温かくも冷たい女の微笑み











  Asian Way






















            



 世界は一面の青、いや、流れる白が少しちらつく。

 首を傾けようとするが、身体中に電流が走り動けない。息ができないほどの痛みに、意識が遠のきそうになる。

 ――なんでこうなった。

 記憶が混乱している。今いる場所も、こうなった原因もわからない。わかるのは身体が酷く傷ついていることだけ。どれだけ探してもここにいる理由が見つからない。耳までもがおかしいのか、音が聞こえなかった。

 どうしてここに倒れているのだろう。

 動かない身体、声も出せずにただぼうっと空を見るしかない。流れる雲だけが時間を教える。しかしその感覚も正常なのかわからない。

 自慢だった声も、長くて羨ましいと妬まれた足も、自分のものではなくなったようで。

 ――消えてしまうのか。

 嬉しいような悲しいような思いに、涙が溢れた。

 真冬の凍てつく風は、白い吐息をどこかへ連れて行く。傷だらけの身体には猛毒だった。

 意識を保つのもそろそろ限界だ。痛みも寒さも、光も感じなくなってきた。


 だんだん狭く、暗くなる視界。最後に見えたのは青、そして風の中を舞う黒......



 艶やかな衣装を纏い、綺麗に化粧をする。女たちは笑顔で男を迎え入れる。

 そんな店の裏側、そこは彼女らの憩いの場。

 控える女たちに笑顔はない。鏡に向かい、各々作品の仕上げにかかっている。

 むせかえるほどの強い臭い、化粧品と香水と、酒と煙草と。

 女たちは挙って高い化粧品を使い、香水をつけた。綺麗になるために。それが自分であることの証として。

 客の相手をして、酒を?み酔いつぶれ、暇ができれば煙草を吸う。その部屋は臭いでいっぱいだった。

 身体に染みついていく。様々な臭いが、作り笑顔が、そして嘘が。

 そこにはたくさんの色があった。しかしそれは多すぎて、混ざった結果、穢れていた。



   一



 世界は一面の黒、いや、隅から光が滲んでいる。正確には視界がなにかに覆われているのだ。

 相変わらず身体が動かない。違うのは音が、そして温もりがあったこと。

 耳にはぽこぽこというなにかが泡立つ音、そして包丁がなにかを切る音。時折誰かが歩く音がした。

 鼻には薔薇の香り、そして醤油の香りが届く。

 おかしくてつい笑いそうになる。しかし力が入った腹が痛み、笑えない。

「......ここは」

 声は驚くほど小さく、そして掠れていた。

「よかったよかった、目を覚ましたんですね」

 男の声、ひどく穏やかで心配しているのが感じ取れる。

 足音が近づいてきて、視界を塞いでいたなにかを外す。

「ここは私の店です。大丈夫、安心して眠りなさい」

 優しそうな顔をした、細身の男だった。

「......あんたは」

「酒野といいます。もう少しお眠りなさい、酷い傷なんですから」

 男は微笑み、去って行く。隣には台所があるのだろう、そこから音と匂いが流れてきている。

 男の部屋で薔薇の香りがするとは。また笑いそうになり腹が痛んだ。

 どのくらい眠っていたのだろうか。今がいつなのかわからない。ぼんやりと意識を失う前のことを思い出して、現実に引き戻されてくる。

 酒野は店と言っていた、俺が倒れていたのは店の前だったのだろうか。とんだ邪魔者だ、悪いことをしたと反省する。早くここを出なければ。そう思うが、身体は思い通りに動いてくれない。

 それにしても部屋が片付いている。一人暮らしなのだろうか。男の一人暮らしというのはこんなにも整理整頓されているのか。妙に心地良い空気が漂っていた。あの男の穏やかな雰囲気のせいだろうか。

 すぐ傍に窓があり、差し込む光が眩しく、瞼を閉じる。



 ふと目を覚ますと辺りは薄暗く、静かだった。

 さっきまでとは違う香りがする。なにかの花のような、俺の知らない優しい香り。

 身体を起こそうとして痛みに襲われ、息を呑み必死に耐える。先よりも痛みは軽く、ゆっくりとだが身体を動かすことができた。

 冬の夜は冷える。空気がひんやりとしいて、それが痛みを誤魔化しくれた。窓から差す月明かりだけが温かかった。

 ベッドから出ようとするが、布団がなにかに引っかかり動きを止める。

 俺の傍ら、布団の上に載っている丸いものがあった。触ろうと手を伸ばすと、その黒いものが動き出した。

 顔が見えて、人だと認識した瞬間、それは突然に笑った。

 月明かりの中、輝く笑みに呼吸が止まる。

 白い肌が、黒髪が、暗闇の中で光を浴びていた。

 大きく丸い瞳、赤い唇。均整の取れた顔が作り出すのは妖艶な笑み。美しい女だった。

 俺は微笑み返し、そっと息を吐く。そのままその頬に手を伸ばした。触れた頬は柔らかく、そして妙に冷たかった。

 心臓の高鳴りが耳に響く。手を離してしまったら、彼女は消えていなくなるのではないか。

「月の女神、俺をさらいに来たのか」

 俺は彼女の瞳に吸い寄せられるように顔を近づける。彼女は動じることなく、その笑顔を深くした。

 俺はこの夢を楽しむべく、彼女の唇を奪いにかかった。

 しかしそれは叶わない。彼女は俺の手をすり抜け、くるくると舞うように離れて行く。

 光の中から消えても彼女は美しかった。その笑顔が俺の心を掻き乱す。

 彼女は部屋の出入り口の傍まで行くと立ち止まり、その魔力に満ちた笑顔で俺を見つめた。

「中学生に欲情とは、最低ですね」

 そう言い残し優雅に去った。

 俺は部屋に独り残された。そして彼女の言葉に我に返る。

 ――中学生に欲情とは、最低ですね。

「中学生に、欲情。中学生に、欲情」

 その言葉が浮かんでは消えてを繰り返す。俺は現実の中にいたのだという考えが過る。眠っていたせいか、傷のせいか。思考が正常に働いていないのだ。どれだけ時間が経ったかわからないが、弁明の余地を。詳しい状況説明を。

「ちょっと待て、説明しろ」

 掠れた声、どうやら大きな声は出てくれないらしい。慌てて追いかけようとするが、無様にもベッドから転げ落ちた。

 残り香が彼女の居場所を教えている気がして、俺はその香りを追う。

 またここがどこなのかわからなくなる。夢か、それとも現実か。残る香りが妙に儚く、身体の痛みが現実だと言うようで。

 重い身体を引きずりながら必死に進む。出入り口に辿り着くだけで息が上がる。彼女は舞うように進んだのに。

「ふじ......」

 記憶の中のあの姿が浮かんで消える。冷たい笑顔が俺の首を締め付ける。

 似ていないのに、どうしてかその姿を重ねてしまう。

「行くなっ、俺を置いて」

 壁に手をつき、倒れぬよう踏ん張る。しかしそれもいつまでもつか。

 初めて見た寝室の外はただの台所で、机と椅子があるのみ。殺風景で妙に現実的で、彼女が夢だったのか現実だったのかわからなくなる。

 薄く残る花の香りだけが、俺を前に進ませた。

「おやおや、そんなに歩いて大丈夫ですか」

 どこから出て来たのか、酒野が部屋の隅にいた。

「女が、出て来て」

 俺が必死にそれだけ言うと、男は笑った。そして後ろを見る。その視線を追うと、そこには彼女がいた。

「私の姪なんです。あなたを見つけて助けたのは彼女ですよ」

 ここは現実だった。

 彼女も現実だった。

 俺は生きていた、現実の中に。



「あの日は青空が綺麗だったでしょう。私はなにか良い出逢いがありそうで浮き立っていて、家にいるのがもったいなく思えたの。散歩をしようと家を出て、とりあえずこのお店を目指して歩いていたのよ。そうしたら大きな猫を見つけて。傷だらけで捨てられている、死にそうな猫を、ね」

「私の方に連絡が来たんですよ。猫が死にそうだから助けて欲しいと。それで車を出して家に連れ帰って来ました。なにか深い事情がありそうだったので、知り合いの医師に頼んで内密に診てもらいました」

「あなたは三日ほど眠っていたんです。その間は私とおじさんと、交代で看ていたの。あなたを探しに来た人はいないし、身元もわからないから、目覚めるのを待っていたわけです」

「特に骨に異常はないらしいから。ただ全身に酷い打撲と擦り傷、切り傷があって、ということでした。しばらく安静にしていれば大丈夫。いっぱい食べて寝て、ゆっくり傷を癒すといいですよ」

「幸いおじさんは料理が上手いし、面倒見が良いから。気兼ねせずにここにいるといいです。遊び相手には私がなるから、暇を持て余すということもないだろうし」

 ベッドに戻された俺に、二人は話し続けた。

 声を出すことが辛い俺を気遣って、二人とも話しているようだった。ぼんやりとだが、自分のいる状況は把握できた。

 酒野は店があると言って席を立つ。そして彼女と二人残された。

「君、名前はなんていうの」

 俺は答えなかった。すると彼女は嘆息し、嘲笑した。

「そのうち教えて下さい。呼ぶときに困るから。ただそれだけのこと、名前を聞いて悪用するとか、そんな野暮なことはしませんよ。元の場所に帰そうとか、そういうつもりはないんだから。そこは安心してもらって大丈夫」

 俺は彼女を見つめ、様子を窺っている。しかし彼女は気にせず続ける。

「君は私の気まぐれで拾われたんだから、勝手に死ぬことは許しません。そのつもりでいて下さい」

 少しおどけた様子でそう言った。

 彼女は絶えず微笑んでいるように見えた。まるで全てを包み隠しているかのようで気持ちが悪い。月の女神とはまるで別人で、あれはやはり夢だったのだと思う。

「中学生なの、お前」

 脈絡もない突然の質問に、彼女は悪魔のような笑みを返す。

「えぇ、中学三年生。受験前の大事な身体ですよ。目を覚ましてすぐ手を出そうとするなんて、あなたの生活が見え透いてしまいますね」

 この落ち着きで、この立ち居振る舞いで。なんだか嘘のように思えてくる。しかしまだ幼さの消え去っていないその顔だけが不自然に、これが現実であることを告げていた。彼女はどうして笑っているのだ。その年に不釣り合いな表情で。

「金色の長い髪、両耳は穴だらけ、着崩したスーツ。そして私の扱い。大人ぶっていてもまだまだ子供。どこか悪いところに手を出しましたか。それとも罠にでもはまりましたか、逃げ出しましたか。どれにしても自業自得ですね」

 彼女の推察はほとんど当たっていた。だからこそ酒野も彼女も、俺をここに匿っているのだろうと思う。

 善人ぶって気持ちが悪い、人助けをしている自分に酔っているのだろうか。それとも俺になにかさせようとしているのか。命を救った礼か、匿った礼か。

「そんなに怯えないで下さいよ。なにも期待していないから、捨てられていた猫を拾っただけだから。それにしても思っていたよりもつまらないですね。もっと馬鹿っぽくて面白い人かと思ったのに。なにも話さずに様子を窺っているなんて。まあ、賢明な判断か。これからはここで好きにするといいです。興味が湧いたら来てあげますから」

 彼女は手を振りながら去る。言った通り興味がなくなったのだろう、つまらないという表情を見せると去って行ってしまう。

 その背中を追いかけてみたくなる。しかし俺は動けない。

「お前、名前は」

 できる限り声を張った、遠くにいる彼女に声が届かない気がして。姿が見えなくなってしまったが、微かに歩く音がする。彼女はまだすぐそこいるのに、やはり声は届かないのだろう。

 俺は大人しく横になり、諦めて眠ろうとする。ほんの短い時間身体を起こしていただけなのに、全身が疲労で悲鳴を上げていた。

「じん、よ。猫ちゃん」

 遠くから響いて来たのは彼女の声だった。そして戸の閉まる音がする。

 彼女は俺に名前を言い残し、去った。呼ぶときに困るから、必要になる情報を。


   二



「マスター、カシオレ」

「了解です」

 俺は酒野の店で働き始めた。酒野の店は、昼は喫茶店、夜は居酒屋を営んでいた。

 世話になった分は働かないと気分が悪かったからそうしているが、酒野は律儀に給料を出してくる。俺がほとんど使わずに残していると、気がついているだろうに。

 喫茶店はともかく、酒に関しては少なからず知識があったので、それなりに役立っているだろうと思っている。酒野は一人で店をやっていたから、助かると言ってくれた。

 俺はずっとここにいるのかもしれない、そう感じてしまった。元の場所に帰らなくていいと言われ、去る理由も見つからない。

 早く立ち去らなければ、そう思っていたはずなのに。行く場所などないのに。それでもここにはいられない、いてはいけないと思っていたのに。

 ここは俺のいるべき場所ではない。綺麗すぎるのだ、彼らはなにも聞かないから。俺も話さないでいられた、嘘がいらなかった。

 時間が経つのは早く、寒かった冬が終わり、春が訪れようとしていた。

「護くん、はい。カシオレ」

「はい」

 酒野の店はそれなりに繁盛していた。彼の人柄のためでもあり、狭いながらも雰囲気の良い店ということもある。そしてなにより酒が美味かった。

 近所の老夫婦から仕事帰りのサラリーマン、近くの大学の学生まで幅広い客層。俺の働いていた、客の機嫌を窺うような店とは、なにもかも違った。

 探し求めていた普通の世界がここにはあった。

「お待たせしました」

「護くん、お疲れ様。今日も良い男ね」

「ありがとうございます。ごゆっくり」

 そう言って頭を下げると、にこにこと手を振っていた。

 常連の近所の主婦だった。ここで働くようになって、色々な人に出逢った。

 昔と同じような言葉、でもそこには裏も、悪意もない。客の相手をすることは同じ、でも相手の質が変わった。

 そう、世界が変わったのだ。広がる不安に潰されそうになりながらも、俺は心というものを考えるようになった。どのように他人(ひと)と接するのか、他人がどのように生きているのか。

 今までに見てきたものとは違うものがここにはあった。だから楽しかった。今までの自分の姿が頭の中から消えていて、ただこれからのことだけを、ここにいることだけを考えていた。

 深夜勤務は当たり前だったのに、酒野はちゃんと寝ないといけませんよ、と言って俺を働かせない。遅くても十時には帰るように言う。俺はそんなに餓鬼じゃないのに、子供扱いをされる。なんだか擽ったい。

 帰ると言っても、店の二階に行くだけなのだが。俺が運ばれたあの部屋。その寝室に布団を運んで住まわせてもらっている。本当にここに居付いてしまった。

 俺は流しに残っているグラスを片付けると、やるべき仕事がなくなった。

「仕事ありますか」

「今日はもう大丈夫ですよ」

 忙しくしている酒野は俺の方を見ないでそう言う。

「わかりました」

 大人しく引き下がってカウンター脇の階段を上る。

 これがとても便利だった。階段を上ると二階の台所に繋がっている。職場が近すぎるとだらけて良くないものですよと、酒野は言うが。

 俺がなにを言おうと、これ以上仕事をさせるつもりがないのだ。ここの二人は頑固だ、一緒にいて最初に学んだことだ。俺は自分の意志を通すより、相手に合わせる方だったから。俺は二人に合わせて日々を過ごした。

 酒野は世話焼きで、俺にまでお節介で。俺は学がないからと言うと、本を読みなさいとどこからか大量に本を運んできた。

 そしてもう一人、じんは『尋』と書くらしい。彼女の両親は既に他界していて、今は独りで生活している。ここには毎日のように遊びに来る。酒野が世話を焼いてくれるから。

 彼女はやたらと俺に話しかけた。ここの生活はどうだとか、皆と過ごすのは楽しいかとか。これからどうするのか、私に飼われたままいるのかとか。俺はそのうちここを出ると言ったが、彼女はまだ許さないという。まだ、ということはそのうち放してくれるのだろうか。

 彼女はかなりずれている人間だった。俺自身変わっていると言われるし、普通だとは思わない。しかし彼女が普通でないことはすぐに感じとった。

 尋と話すと頭が痛くなる。いちいち話が重い、考えないと話せないから困る。

 俺は一人夕飯を食べ、酒野に貰った本を読む。これが最近の日課だった。昼も夜もなく適当に、だらだらと生きてきたのに。太陽と月をしみじみと見たり、ゆったりと本を読んだり。俺の生活はこれまでとは全く違う色になっていた。



 ある日酒野に頼まれ、近所の八百屋に買い物に出ているときだった。

 ワゴンRに荷物を積んでいると、どこからか黄色い声がする。

「ちょっと、なにそれ。まじ似合わないんだけど」

「うるさい。俺ももうすぐ社会人なの」

「スーツとか笑うしかない。着られてるよ」

「ちょ、止めろよ」

「なに言ってんのよ、見せに来たんでしょ」

「恥ずかしいから止めて下さい。お願いします」

「なによ、専門学校とか、まだ卒業してないのにそんな格好して。見てもらいたくて逢いに来たとしか思えないんだけど」

「その通りでございます。はい、すみません」

 にやにやとスーツを見せびらかしていた男は、今は女ににやにやされていた。馬鹿な男だ。

 見覚えのあるセーラー服姿と、見覚えのないスーツ姿、俺は二人に歩み寄る。

「――なにしてる」

 後ろから抱きしめるようにして、顔を覗き込む。それはやはり尋だった。

 驚いた顔を見せ、ばつが悪そうにしている。

「なんだ、護さんか。なにもしてないですよ」

 視線を合わせてくれない、いつもは嫌というほど目を見てくるのに。

「尋、お前どうした」

「別に」

 顔を覗き込もうとする。しかし右へ左へと顔を伏せられてしまう。

「尋、知り合いか」

 声をかけられるまでもう一人の存在を忘れていた。それほどに尋は動揺していたし、俺はそれを怪訝に思っていた。

「あ、ええ。うちの店で居候している護さん」

 尋が俺のことを紹介するので、仕方なく俺は挨拶することにする。尋に抱きついたままで。

「はじめまして、護です。よろしく」

「あ、ええ。はじめまして、誠実(まさみ)です。尋の幼馴染みの」

 幼馴染みと言うところで声を強めていて、面白い位に俺のことを敵視していた。

「幼馴染み、ね。なるほど」

 思わず復唱してしまった。声に含まれる揶揄を覚った尋は、顔をしかめ俺を睨む。

「ちょっと、なによ。その言い方は」

「なんでもねぇよ」

 そう誤魔化すが、尋は相変わらず勘が鋭く騙されてくれない。腕の中で拗ねている尋は、いつも俺を苛めている時とは違って年相応の女の子だった。可愛いくてもっと苛めたくなるが、誠実からの視線が痛く、仕方なく別の話題を持ち出す。

「――いやね、同い年くらいかなと思って」

「二十歳だよ、俺は」

「お、やっぱ同い年だわ」

 何故か二人で喜び握手を交わす。腕の中で尋は呆れ顔でこちらを見ていた。

 俺たちは力いっぱい相手の手を握りつぶそうとしていた。お互いに黒い微笑みを湛えて。

「もういいでしょ、ばいばい」

 良からぬものを感じ取ったのか、尋はそう言って誠実を連れて足早に去った。いつもとは違う雰囲気だった。相手が幼馴染みだからだろうか。それにしてもあのような表情を見せるなんて。

 

 

 戸の音がして振り向く。客かと思ったが違ったようだ。

「――護さん、こんにちは」

 満面の笑みでセーラー服姿の中学生が入って来たのだ。

「もうこんばんは、だろう。お店には裏口から来るようにといつも言われているのに」

「だって面倒じゃない、こっちの方が近いんだから」

 文句を言ってカウンターの向こうにいる酒野の方へ行く。

 やはりいつもの尋だ。この前のような可愛い顔は見せてくれない。

「おじさん、お腹すいた」

「はいはい。私は先に食べましたから。今日は護くんと二人で食べて下さいね。もう少ししたら護くんはあがりです。待っていて下さい」

「はーい」

 何故だか俺を一瞥し、二階へ上がって行く。俺はかまうことなく仕事を続ける。

 それにしてもさっきのあの視線。俺にちょっかいを出してくるのはいつものことだが。一体どういう意味で、あんなことを。

 酒野の方に視線をやると、目で早く上に行けと言っていた。俺はそれに従い、尋の後を追う。

 影を感じて見上げると、階段の先には尋が待ち構えていた。

「なんともないかしら」

 俺の顔を品定めするように見てそう言うと、先に行ってしまう。部屋に着くと、先に夕飯を用意していたようで、一人で食べていた。待つように言われていたのに。

「お前どういうつもりだよ、さっきの」

「さあ、ね。いつも通りで安心したわ」

 どうやら答えるつもりはないらしい。尋はなにを考えているのか全くわからない。察しろと言うが、難しい。俺は察する、相手の裏を読むことには慣れている方だと思っていたのに。こんな子供に負けていると思うと悲しくなる。

 夕食はハンバーグだった。酒野が作る料理はいつも美味しかった。ここへ来て、一日三食という規則正しい食生活を初めて経験した。おかげで体重が増えていく。

「ちゃんと食べなさい、護さんは痩せ過ぎなのよ」

「はいはい、わかりました」

 俺の箸の進みが遅いところを見て、的確に思考をついてくる。怖ろしい奴だ。

「護さんは結局、うちの飼い猫になるのかしら」

 こちらを見ずに意地悪な笑みで零す。

「さあな」

 そう言うと尋は笑顔になる。

「まだまだ子供ですね」

「餓鬼には言われたくねぇな」

「好きなだけ言ってなさい」

 こいつの自信はどこから湧くのだろうか。俺の方が年上だというのに、気に食わない。

「私もまだまだ子供ですよ、それを理解しているからいいの。それこそ世界はあなたの方が広いじゃない。でもあなたはなにもわかっていない。知ったかぶっているからいけない」

「世界が広い、だと。笑えるね。俺のいたところは檻の中だよ」

 冷笑すると、尋は俺を慢侮するように見てくる。その眼差しがひどく冷たくて、俺は怖くなった。

「はいはい。わかりましたよ、俺はまだまだ餓鬼ですよ」

「......そういうの、嫌いだわ」

 ふざけて言った俺の言葉は、冷徹に弾かれる。それ以後は、俺がなにを言おうと口を開かなかった。

 こいつの機嫌を損ねることは多々あったが、どうしてそうなるのか理解できない。今回もどうして拗ねているのか、俺には見当がつかない。

 飯を食い終えると、尋はさよならも言わずさっさと帰って行った。

「意味がわからねぇよ」

 俺はもう子供じゃない。汚い世界の中で、俺は子供ではいられなかった。尋は俺のことをなにも知らない、わかっていない。だからそんなことが言えるのだ。

「なにも知らないくせに」

 尋はいつも俺を不快にさせる、苛々する。見ていたくない。彼女も俺のことを嫌っているだろうに。どうして俺のことを無視しないのだろう。捨て置かないのだろう。

 頭が痛くなる。考えたくもないのでもう寝よう。いつもは酒野を待つのだが、今日くらいはいいだろう。



 気がつくと、俺は店にいた。笑顔で客を迎え入れる。

 客も皆、不思議なほどに笑顔。忘れたいものがあるから。束の間の休息を求めて、癒しを求めてここを訪れる。

 苦しみながら生きるなんて辛い。もっと楽に生きたい。心なんてあっても邪魔じゃないか、だから辛い。他人と関わるから、上手く生きていかなければ。

 きっと逃げて来るのだ。現実から、世界から。嘘とわかっていても、癒しを買う。辛さを紛らわし、苦しさを忘れて。他人との時間を、誰かとの繋がりを求める。

 俺は幼い頃からここで育ち、ここが俺の世界の全てだと思っていた。

 俺は外の世界に夢を持っていた。檻から一歩外に出ると、そこにはなにがあるのだろうと。しかし外から来る人間の話を聞くと結局、どの世界にも夢はないように思えた。

 きっと外の世界には夢がある。そうでないと生きていけない。縋らずにはいられない。そう思い始めると、ここにいることが嫌になった。

 俺は店を飛び出した。それは世界からの逃亡で、傷だらけになりながらの冒険だった。

 今までと違う自分になって生きて。楽しい思いもしたけれど、それ以上に苦しかった。自分が同じであることに気がついたから。俺も同じなのか。弱くて可哀相な生き物なのかと。

 結局は皆、自分の身を置く世界から逃げたくて、その外の世界に夢を描いて。

 自分の考えなんて持っていてもどうしようもない。やりたいようには、生きたいようには、俺にはそんなことができる力なんてない。

 俺は使われているだけだから。全て隠さなければ。邪魔なものはいっそ消せればいいのに。そう思った。

 言葉は全て飾りでしかない。思いなんて伝わらない。

 本当なんていらない。自分なんていらない。

 うまく相手に合わせて、流れて。楽に生きればいいじゃないか。

 


 目が覚めると、頬に涙が伝っていた。そんな顔を見られたくなくて顔を洗いに行く。

 外は薄暗く、夜が明けるにはまだ時間があった。

 ここは偽りの世界なのである。

 俺も同じ、逃げているのだ。世界から、自分から。

 彼女は俺に現実を見せつける。それが俺には痛かったのだ。夢は夢でしかなくて、やはり現実は現実で。

 俺には戦う勇気もなくて。

 昇る太陽を見つめながら、俺の心は沈んでいった。

 

 

 その日はそれが体調に出たのか、酒野に心配されるほどに顔色が悪いらしかった。しかし店には手伝いに出た。なにも考えずに仕事をしている方が楽だと思ったからだ。

「こんにちは」

 女が入って来た。空いている席に座るように言い、俺はいつも通りおしぼりを用意する。

 女はカウンターに座ってぼうっと宙を見ていた。

「ご注文がお決まりでしたらお伝え下さい」

「まもちゃん、私はお酒が弱いんだけど、?むならなにがいいかしら」

「そうですね、お酒が弱いのであれば......」

 俺は言葉を失った。女はそんな俺を見て嘲う。

「なにが良いかしら、ね。まもちゃん」

「あなたは私よりもお酒に詳しいでしょうに、聞かないで下さい。それにそんな嘘、吐かないで下さいよ。あなたは酒がないと生きられないでしょう」

 ぼうっとしていてこの女が来たという認識が遅れた。失態だった。

「......そう、そうね。じゃあマティーニを」

「はい」

 腰を折って、カウンターに向かう。久しぶりに嗤った気がした。しばらくの間、俺は嗤っていなかったのだ。本当の世界が戻って来た瞬間だった。

 酒野は俺の様子が変だと気がついて、心配そうに声をかけてきた。昔の知り合いなんですと言うと、それ以上はなにも聞かなかった。気を使っているのだろう。

「――まもちゃん、ちょっと」

 女は一杯しか酒を?まず、もう会計をすると言った。会計を終えると、そのまま俺を連れて行こうとする。

 酒野の方に視線をやると優しく微笑まれた。要らぬ気を回されてしまったようだ。気が進まないまま外に出る。嫌な予感しかしない。

 女はただ静かに煙草を吸っていた。臭いが、煙が、なにもかもが鬱陶しい。

 連れ出されしばらく経っても、嗤っているだけ。意図が読めない。

「なにしに来たんすか」

 質問には答えない。俺はひどく苛立ち、それを表すが、全く動じない。

「どうして来たんだよ」

 挑発にも乗ってこない。ただ冷静に、俺のことを見てくる。それが余計に癇に障る。

「捨てたんじゃなかったの、俺はもういらないって」

 声を荒げずにいられなかった。理不尽な世界を憎まずにはいられなかった。

 これまでの人生、この女の言うとおり生きてきた。母のいない俺を育ててくれたことはとても感謝している。それでもこの女は俺を縛り付けた。目の届かない場所へは行かせてくれなかった。

 それで反発して、この女のところから逃げた。それが今回の家出の発端。追いかけられて、傷だらけなって逃げて。挙句の果てには捨てられた。

「意志を持った人形なんて使い難いって、邪魔だって。そう言って放り投げて」

 捨てたくせに、勝手な都合でまた拾いに来て。俺を自分の玩具としか、道具としか思っていないのに。

「人形に心なんていらないって、そう言ったのはあんただ」

「――わかってるくせに」

 女は心を惑わす真っ赤な唇を綺麗に歪め、小声で囁く。俺に聞こえる程度に小さく、粘りつくような話し方で。怒らせるように、そして弱らせるように。

「どういう意味だよ」

 睨みつけると、女は冷たい顔になる。

「ここはお前のいるべきところではないだろう、戻りなさい。お前のこと、可愛いがっている人もいるんだから。その人たちが待ってんのよ。もうわかったでしょ、ここは違うって」

 言葉がささり、患部がずきずきと痛み出す。涙が出ない、代わりに心が泣いている。

「お前はあたしたちから離れられないよ。言うこと聞かないなら、力ずくで従わせればいいのよ。全てを知っていても、お前を受け入れるのはあたしたちだけなんだもの。居場所なんて他にないでしょ。大丈夫、ちゃんと上手に利用してあげる」

 嫌らしい笑みを浮かべ、女は俺の耳元に唇を近づける。

「そうそう、お前という人間を知ったら、ここの人たちはどうなるだろうね。今まで通りあんたの相手をしてくれるのかしら。あの女の子、どうにかなっちゃうかもしれないよ。あなたの過去を知られてもいいのかしら」

 動けなくなった俺の横を嬉しそうに歩いて行く。ヒールの音を鳴らしながら。その仕草の全てが俺の心をぐちゃぐちゃにしていく。

「戻って来なさいよ。ここにはあなたの居場所なんてものはないのよ」

 こちらを見ることもせず、ただその言葉だけを残して行く。俺は女の背を悔しながらに見つめることしかできない。声を出すことが、反論することができなかった。

 ――また俺はあの世界に戻るのか。

 ここにいても、俺はあの二人を巻き込むことしかできない、迷惑をかけることしか。俺にはなにもできないのだ。

 あの二人はまだ知らない、俺の本当のことなんて。それならまだ大丈夫だろうか、あの女に酷い仕打ちをされることもないだろうか。

 俺はずっと、あの女に繋がれた鎖を断ち切ることができない。そんな勇気、俺にはない。

 ――逃げることなんて。

 

 

「まもちゃん、久しぶりねぇ。どぉしてたの」

「いえちょっとね、体調崩してて。もう大丈夫ですよ」

「そう。良かったわ。寂しかったわよ」

「ごめんなさい、心配かけて」

「いいのよぉ、それよりも聞いてちょうだい。うちの旦那がねぇ......」

 俺は今、本当の世界に戻ってきた。

 いつものように話をして、いつものように嗤って。

 常に嗤っている生活が戻って来たのだ。何故だろう、どうしてこんなに楽だと思えてしまうのか。

 適当に相槌を打っているだけ、俺はなにも考える必要がない。相手も答えなんて求めてなんていない。ただ鬱憤を垂れ流す相手が居ればいいのだ。話を聞き流してくれる、本当の自分の姿を知らない誰かが。なにを言われてもただ頷くだけの相手が。

 

 ☆

 

 寂しがり屋で、癒しを求める客たち。俺はその相手をするのが仕事。

 相手がなにを求めているのか、簡単にわかってしまう。求めるものはみんな一緒。ただただ現実の世界から逃げたいだけ。辛くて苦しい世界からの逃亡を望んでいる。

 一瞬でもいいから、苦しみから逃れる方法として他人(ひと)に話すのだ。自分の汚れた部分を、汚い本当を、空しい嘘を。

 ただ自分を慰めてくれる、泣き言を聞いてくれる人がほしいのだ。無意味な肯定をしてほしいだけなのだ。

 俺も偽物の世界に逃げていた。考えることは同じだった。自分を知らない人のところでなら、別の自分になれるかもしれない。そんな幻想を抱いて。

 ここは休息の場だ、嘘でも幻でも、束の間の癒しを。それが良いものなのかどうかはわからない。けれど皆、縋らずにはいられないのだ。休息したならば、また頑張らないといけないだろう。それがきっと重要なのだ。ここでだらだらとしていると、『本当』に戻るのが辛くなる。そこさえしっかりできていれば。それは休息であって、逃げではない。

 妙に辛かった尋との会話。その価値に気がつくのに、時間はかからなかった。彼女は俺を現実に戻そうとしていたのだ。自分のことを考えろと、周りのことを見ろと。世界を正面から受け止めろと。

 俺はあの女のせいにして自分ではなにもしていなかった。結局、卑怯な逃げをしていただけ。

 空しい現実は俺自身が生み出していたのだ。俺がなにもしていないから、世界はなんにも変わらない。それだけのこと。原因がないのに結果が産まれないということ。

 嫌という程俺の心を乱して、本心を剥き出しにして。それが現実だとつきつけていたのだ。

 どれだけ繕っても、隠しきれないものなのだろうか。

 彼女には生々しく透けて見えたのだろう。嘘という張りぼてから、俺の姿が透けて。うまく隠したつもりになっていただけで、彼女には見られてしまっていたのだ。

 重い言葉で、嘘を吐くのは止めろと、真実をつきつけていたのだ。

 

 

 

 

   三



「よろしくお願いします」

「了解。頑張れよ」

 男は去って行く。俺は新しい仕事に就けそうだった。そう、ここからやっと出られるのだ。

 あれから、尋と出逢ってから、三年が過ぎていた。

 俺は尋と酒野に逢ってなにかが変わったのだろう。今までと同じ場所にいるのに、見え方が、感じ方が違った。

 俺はなんとかここから出ようとしてもがいていた。

 高校を中退している俺は、働ける場所が限られている。それでもどうにかして、ここから出たかった。ほんの少しだけ知った温もりを追いかけて。

 俺は店の仕事をしながら、情報屋の真似事をしていた。客の中には色々な奴がいる。俺にそうさせたのはある記者だった。俺は今、店の仕事よりその仕事をしたいと考えていた。運よくその男が俺を使ってくれそうだったからということもあるが。

 しかしあの女は俺を逃がしてはくれなかった。ここ以外で生きていけないのだからと。

 ――逃げる、ではいけない。

 ここから出なければ。しっかりと決着をつけなければ。そうでないと世界はいつまでたっても偽物のまま。現実を見なければ。

 俺はまず外堀を埋め始めた。客を味方につけて、俺はもうここからいなくなると。そういう状況を作ろうとしていた。

 今日もこれからあの女と話し合いだ。なんとしても決着をつけないと。

「まもちゃん」

「はい」

 呼ばれて行くと、人を見下したような笑みで待ち構えていた。

「お客さんよ。表にいるわ」

 俺はしばらく店に出ていない。この女と喧嘩中だから、頼まれても出てやらない。そして常連の客には俺がここを辞めると言っている。店の客だったら表にいるということもおかしい。

 だったら一体、誰が俺を訪ねて来るのだ。店以外に知り合いなんていないのに。

「客、ですか。一体誰が」

「あなたの飼い主って言えば、わかるそうよ」

 女はつまらなそうに言った。しっしと手で俺を追い出す。

 ――飼い主、だと。どうして今になって、また。

 俺の頭にあの幼い少女の顔が浮かぶ。甘い花の香りがふっと漂った気がした。

 


 彼女は独り、夜の街中に立っていた。ネオンに照らされ、様々な色に輝く彼女。それが無性に綺麗で、そして幻のように消えてしまいそうで。脆く、儚いものに思えた。

「なにしに来たんだ」

 後ろから静かに近づき抱きしめる。俺はあの時よりも背が伸びていて、彼女との身長差が大きかった。すっぽりと全部が納まりきれてしまう。悪態をつかれ、殴られるかと思ったが、彼女は静かに腕の中に納まっていた。

「どうなったかなと思って。親心ですよ」

 懐かしいその声、話し方。何故だか心が温かくなる。態度はこんなにも大きいのに、身体はこんなにも小さい。笑いが込み上げてきた。

 伸びた髪、女性らしい身体つき。過ぎた時間は、子供だった彼女を一人前の女にしていた。

「親心ねぇ、お前の方がかまって欲しいんじゃないの」

 甘く囁き、嗤いながら唇を首筋に落とす。彼女は別段驚きもせず、されるがまま受け入れる。それが面白くなくて、どうしようもなく腹立たしくて。彼女を強引に振り向かせて、唇を奪う。

 それでも彼女は動じない。俺の行動なんて見え透いている、予想通りだとでも言うように。彼女は俺の思う通りにはならない。冷静過ぎる彼女の表情が、俺との距離を感じさせる。

「そんな生き方をしていてもつまらないよ」

 相変わらずの、俺を見下しているような話し方。達観したように振る舞って。互いの顔はこんなにも近い距離にあるのに、心はとてつもなく遠くにある気がした。

「お前にはわからないよ」

 吐き捨てた俺の言葉を、彼女はそっとすくった。

「なにも言わないのに、誰かに理解してもらえるわけがないでしょう。知ってほしいのなら、伝えないといけないでしょう。あなたはなにかをしたの、他人(ひと)に知ってもらう努力を。伝える努力を。努力をしないのなら、それが叶うはずはないでしょう。最初からなにもしていない。他人のせいにして逃げているだけです」

 彼女は淡々と、静かに言う。

「他人といることは苦しみだらけよ。そうやって学ぶからこそ一緒にいる意味がある。苦しみの中にいることに意味がある。傷を舐め合うこと、それ自体を否定はしない。けれどそれだけで生きることに意味はあるのかしら。苦しいよ、苦しいよと言うだけで、その理由を考えもせずに、辛い現実にいる自分に酔って。そういうことでしょう。前に進まなかったら、傷を舐め合うことに意味があるのかしら。それは確かに痛みを和らげるかもしれない、でも、その傷は塞がるのかしら。きっと、ただそのままあり続けるのよ。消えることなく」

 彼女はゆっくりと、重い言葉を紡ぐ。そして今にも泣き出しそうだった。瞳いっぱいに涙を矯め、唇を歪ませ嗚咽を堪え。一度にたくさんのことを聞かされて、泣きたいのはこちらの方だよ。そんな顔をして、俺に説教をするなんて、一体どうして。

 不思議と涙は出なかった。きっと目の前の優しい彼女が、俺の代わりに泣いてくれるだろうから。言葉もなく、ただそっと彼女を抱きしめる。

「知ることから逃げたいから、わかりたくないから逃げて。傷なんて見えないんだ、そんなものないんだって。自分の過ちを知らないふりをして、隠して。逃げているだけなのよ。そういうの、嫌い。自分を上手に甘やかして、現実から切り離して。逃げて逃げて逃げて。空想の、楽しい自分だけの世界に逃げ込んでいるの。あなたの見ている世界は偽物なのよ、あなたがいないから。ずっと本物にならない。誰もいない物語なのよ」

 小さく嗚咽が聞こえ始めた。それでも彼女は話を止めない。小刻みに震えながらも、それでもゆっくり話し続ける。

「頑張っていないくせに、頑張っていると言うのよ。逃げているのに、戦っていると言うのよ。わかりたくないから知らないふりをするのよ、嘘を吐くのよ。そんな自分に浸っているのよ。自分の傷を曝して、それが醜いと理解もしないで、自分が傷ついていると自慢して。誰かの慰めに期待して、甘えて。真実を見ないで適当に生きるのは楽でしょう。でもそれはいつか自分に返ってくる、大事な時に。言いたい言葉を言えないの。本当は思っていても、思ってちゃいけない言葉だから。なにも言えなくなるの。逃げて、逃げすぎて、そのせいでもう逃げる場所がなくなってしまうのよ」

 彼女はそこで話を止めた。俺の胸に顔を埋めて、しばらく黙ったままだった。

 人々が俺たちの周りを歩いて行くが、誰も気にも留めない。女が泣いていることなど、ここではよくあることだ。それが幸いだった。

「大丈夫か」

 俺があえて顔を見ないように、抱きしめたままで言った。なにが気に障ったのかわからないが、彼女は俺の手を振りほどいて離れた。

「泣くとは思わなかったわ、ごめんなさい」

 そう言って恥ずかしそうに顔を真っ赤にすると、俺を優しく抱きしめてきた。そして笑顔で帰って行く。

 甘い余韻に浸る時間を与えず、左頬に赤い手形を残して。

 ひりひりと残る痛みが、彼女が来たことの証のようで。喜びそうになるが、これではまるで変態じゃないかと思い直す。

 俺に逢いに来るなんて、一体どんな風の吹き回しだ。それにあんなことを言って泣くなんて。

 彼女の弱さに触れた気がした。












   四



「良い様ね、まもちゃん」

 店に戻ると、あの女が待ち構えていた。俺の頬を見てそう言うのだ。

「あなたには関係ない。これは彼女なりの愛だから」

 頬を抑えそう言うと、とたんに甲高い声で笑い出した。

「あんた変わったわね、三年前になにがあったのかしら。あの時の女の子が今でもあなたの心配をするなんて、気味が悪いわね」

 あの時の女の子、だと。尋と面識があるのか。

 そう考える俺の顔を見てなにかを感じたらしく、女は楽しそうに話し出す。

「ええ、あの子と少し話をしたのよ。まもちゃんを迎えに行くちょっと前にね。うちのまもちゃんがお世話になってますって、軽い挨拶しにね。それであなたの昔話をしたの。あの子は聞くだけだったけど、無表情でつまらなかったわ」

 俺を怒らせるように、時々くすくすと笑いながら話す。意地の悪い女だ。

「生まれた時からここの人間。母親は良いお家柄のお嬢様なのに、こっちの男に騙されて借金まみれ。そしてあんたを孕んで家族に見捨てられて。仕方なくここに移り住んで働いて。泣きながらあんたを育てて、苦しみながら死んだ。全部あんたのせいでしょ」

 俺は声も出せず、震えを抑え込むことしかできない。

「自殺だったのかしらねぇ、貴方を置いていなくなって。死体が見つかった時にはもう時間が経って見られたものじゃなくて。私が確認に行ったんだものね、笑えるわ」

「うるせえよ、もう黙れ」

 必死に絞り出したが、ひどく小さい声しか出ない。こんな声、あの女に聞こえるはずもない。俺は殴りかからずに踏み止まるので精一杯。

「藤江は見た目だけは良かったから、華奢で貧相な身体でもそれが好きな人はいたからねぇ。死ぬまで一生懸命に稼いでくれたわよ」

「もう止めろ」

 力いっぱい壁を殴りつけると、女は話を止めた。俺は女を睨みつけて逃げ出した。また逃げてしまった。もう逃げないと決めていたはずだったのに。

 覚悟を決めたのに、全ての決着をつけるまで独りで頑張ると。

 ふらふらと、俺は独りで夜の街を歩いていた。頬が痛み、心が痛み、涙が出た。

 

 

 俺は酒野の店の裏口にいた、思わず行ってしまった。しかし店の中に入る勇気がない。それで裏口で膝を抱え座っていた。生ぬるい風が気持ち悪く、気分は最悪だ。

「――なにしてんのよ」

 突然降る声に、俺は驚いて顔を上げた。

「なんで裏口にいるんだよ」

「店には裏口から来るようにと、いつも言われているからですよ」

 長い黒髪が風に舞って綺麗だった。そうか、あの時の黒はこれか。

「馬鹿が、だからって裏口に来るなよ」

 俺はまた顔を膝に埋める。涙が止められそうになかった。どうしてか零れてきてしまう。

「そんなに平手打ちが痛かったの。そうね、ここにいても迷惑になるからうちに行きましょうか。またまた大きい拾いものね」

 そう言って尋は優しく俺の頭を撫でる。俺が泣き止むまでずっと。

「ごめんな」

「いいのよ。私がビンタしたんだし。どちらにしても、私もおじさんも、あなたの帰りを待っていたんだから」

 俺は尋に手を引かれ、連れて行かれた。

 

 

 尋の家は平屋庭付きという豪華なものだった。部屋も何部屋あるのかわからないほど広い。

 居間に通されるが、尋はどこか奥へ行ってしまった。すぐそこに見える庭には、名前もわからないたくさんの植物があった。手入れが行き届いていて、皆元気そうだった。

 尋の家は花の匂いでいっぱいだった。嫌にはならない、心地良い匂い。

 パタパタと足音がする。尋が戻って来たのだ。

「はい、これ」

 手渡されたのは濡らした手ぬぐいだった。それで顔を冷やせということだろう。ありがたく受け取った。

 なにも言わず、俺の隣に座る彼女の優しさが嬉しかった。

 尋の顔を直視できなくて、俺はどうしようもなく座っているだけ。会話もない。

 見かねた尋が話し出す。

「どうしたのよ、私に逢ったのがそんなに嬉しかったの」

 こちらを見て問うてくるが、俺は返事をせずに黙ったまま。話をする気になれなかった。

「私に抱きしめられて嬉しかったの」

 尋は更に距離を縮めてくる。俺はじりじりと詰まる距離が怖くて仕方がなかった。全てが見透かされている気がして辛かった。もうきっと俺の本当の姿なんて知られているはずなのに。

「じゃあ、返事しないのは肯定ととるわね」

 尋は答えを求めに寄ってくる、対して俺は少しずつ後ずさる。

「逢えて、抱きしめられて嬉しかったんでしょ」

 俺は答えない。

「そして、ビンタが嬉しかった」

「いや。いや待て。それじゃ俺は変態だろ」

 驚き、上げた顔の先には優しい顔。不覚にも心が震える。

「やっとこっち見たわね。もう、子供なんだから。ここまできて意地を張るのはよしなさい」

 尋の笑顔が優しくて、止まっていた涙が流れ出す。どうして今日はこんなに泣いているのだろう。

「格好悪いな」

 侘びしくて、顔を背ける。すると後ろから柔らかい温度が伝わってくる。

「独りで頑張ったんでしょ、辛くなって泣いちゃうくらいに。もっと人を頼ってもいいのよ、私もおじさんもあなたの味方だから」

 だから、味方だから。

 大切にしたいから。俺のことを嫌いになってほしくなくて、必死になっていたのに。

「弱い部分を知ってもあなたを見捨てたりしない。私だって弱い人間なのよ。おじさんがいないと生きていけないの。私の世界はすごく狭い。関わっている人もすごく少ない。あなたの世界は私よりも大きいのに、その分辛さも大きくなるのに。知らないふりをして、嘘を吐いて。わざと孤独になる道に進もうとしないで。私たちはあなたが優しい人間だって知っているから。ちゃんとあなたが好きだから」

 ぼやけて見える世界の中で、月明かりの下の彼女はやっぱり綺麗だった。



「まもちゃん、こっちおいで」

 女たちの隙間を縫うよう、ちょろちょろ走り回る小さい影。憩いの場の出入り口、これだけ女がいる中で、異様な存在感を放つその女。この場所には不釣り合いな品のある佇まい。

 一入艶やかで煌びやか。真紅の衣装、長く艶めく黒髪は白い肌に映えて美しい。決して豊満ではない体躯だが、そこには鼻につくほど色気があった。

 その笑顔のせいだろうか。細い瞳に薄い唇。瓜実顔に似合いだった。

 その影は女に跳び付く。女はそれをしっかりと抱きとめた。

「――藤江さーん、お客さんですよ」

「はぁい。まもちゃん、いってきます」

 寂しそうな笑顔で去って行く女。知らない男を笑顔で迎える女の姿を、独りで見つめている。さっきまで女がいたその場所で。



 目が覚めた。久しぶりに見た寂しい夢。俺の頬にはまた涙。

 いつの間にか眠っていたようだ。隣にある寝顔にその寂しさも薄れていく。布団がかけられているということは、俺が先に眠ったのだろう。自分はちゃんと寝室で寝れば良いのに。わざわざ俺の隣にいるなんて。

「寝顔ではちゃんと子供なんだな」

 顔にかかる髪を耳にかけてやる。俺が触れては壊してしまうのではないか。そう思う反面、壊してやりたいとも思う。自分の欲求のままに。

 俺はもう花の毒にやられてしまった。花の匂いに誘われ、最後は食われてしまうのだろうか。

 額に唇を落とすと、尋はなにかを感じ取ったらしく目を覚ました。

「おはよう」

 そう言って眠そうに微笑む。思わず俺も笑ってしまうような。

「おはよう」

 俺は尋に逢って色々な笑顔を見ている気がする。たくさんの心を教えてもらっている気がする。

「俺、頑張るから。待ってろ。またここに来るから」

 そう言うと彼女は安心したような、温かい笑みをくれた。

「待ってる、いつまでも。ちゃんと連絡してね、生きてるのか心配になりますから」

 今度はちゃんと歩ける気がする。逢いたい人がいる。俺を待っている人がいる。それが俺を強くしてくれると思えた。



 藤江は俺を恨んでいるのだろうか。望まぬ子、いらない子、悪魔の子。周りの奴等からは色々なことを言われてきた。しかしそれをいつも否定して、俺を守っていたのは藤江だった。俺は物心がつく頃には藤江を母と呼べない子になっていた。それが藤江を傷つける気がしていたから。こんな子に母なんて思われたくないと。

 哀しそうな顔で俺を見る藤江の姿ばかりが浮かんで、どうしようもなく寂しくなったことを覚えている。

 藤江にもなにか理由があったのだろうと思う。俺を置いていなくなった理由が。なにも言えなかった理由が。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

   五



 俺は店をきっぱり辞めて、記者として働くようになった。今度は逃げたわけじゃない。ちゃんと話をつけて出てきた。

 俺の意志が固く、あの女が折れたのだ。初めて俺の意見が通った瞬間だった。

 俺は店を出て、一人暮らしを始めた。やりがいのある仕事、初めて見る世界。なにもかも面白く感じた。

 

 

 夏の日差しが暑い。青空の下、駅で待ち合わせ。まるでどこかのカップルのようだ。それだけなのに妙に昂る。俺もまだまだ餓鬼だ。

 だらしない顔をしているだろうと思い、さっと真面目な表情を作る。しかし人ごみに彼女の姿を見つけ、頬が緩む。ごくりと唾を飲み込み、不意打ちのときめきをやり過ごす。今日はきっと緩みっぱなしなのだろうな。

 長い髪をサイドで結んで、可愛らしく化粧をして。大人になった尋はますます綺麗になっていた。豊かな体躯がその時間の経過を教える。残念ながら身長は伸びなかったようだが。

「護さん、お久しぶり」

「尋、遅いぞ。時間ちゃんと守れよ」

「なんですか、その言い方。約束してから何カ月、私を待たせていると思っているの」

「悪いね、俺も忙しい身だから」

 二人で手を繋いで買い物に行く。最近は尋と出掛けることが多くなっている。

 俺の仕事に興味があるらしく、仕事を手伝わせていたこともあり一緒にいる時間が長い。そのお礼として欲しいものを買ってやったり、飯を奢ったりもしている。もちろんそこそこに給料は払っているのだが、それとは別に。

 俺の職場の先輩にも気に入られていて、バイトとして雇うという話が出ているくらいだ。

「今日はお詫びですからね。ちゃんと付き合ってくれないと駄目ですよ」

「わかったよ。あぁ、だるい。お前の面倒見るのとか、酒癖悪いんだから」

「悪かったわね、?まずにはやってられないのよ。必死に生きているんですから、時には息を抜くことが必要なんです」

「わかってる。俺も息抜きに来てんだから。楽しませろよ」

「ええ。できることはしてあげますよ」

 子供っぽく笑う尋の姿、この頃はよく見るようになった。良い意味で俺と尋の間の距離が縮まっている気がする。お互いに遠慮がなくなってきているのだ。信じているからなんでも言うことができる。そんなことを思っているこの頃である。



 今日の予定はまず買い物に付き合う。それから焼肉を奢ってから?み、というものだった。?みには酒野の店に行くということになっていて、それが一番の楽しみだった。酒野に逢うのは半年ぶりくらいだったから。

 楽しそうに歩いている尋に、俺も楽しくなってくる。

「今日はなにを買うんだよ」

「うん、サングラスかな」

「......なにに使うんだよ」

 歩みを止めるほど、真面目に驚いた。普段サングラスをかけている姿など見たことがなかった。

「海に行くの、サークルで。水着はあるから、サングラス買いたくて」

「海に行く、だと」

「そうよ」

 海に行く、大学のサークルで。

 尋の水着姿を想像して一瞬にやつくが、海に行くのか、しかもサークルで。ということは男がいっぱい、海だから男がいっぱい。尋の周りに男がいっぱい。

「俺、ちょっと心配なんだけど」

「なにが」

 きょとんとしている様子が可愛いが、尋は本当になにも思っていないようだ。

「ううん、いいや」

 そう言って誤魔化す。尋はよく思わせぶりな態度をとる。だから相手に勘違いさせる。

 性質(たち)が悪いけれど、それはそれで良いと思う。それが良いところでもあるからだ。俺がしっかりついていれば大丈夫。酒野には、私以上に親馬鹿ですねと笑われたものだ。

 それにしてもこの頃の尋はすごく子供っぽい。いや、これがおそらく年相応なのだろうが。今までが大人過ぎたのだ。



「ほらほら、しっかり」

「はぁい。わかってる」

 焼肉で、食べ放題に飲み放題をつけた。俺も尋も酒は好きで?むから。ただ尋は弱いので、いつも俺が面倒を見る羽目になる。酔っている尋は抛っておけないなにかがあるので、どうしても目が離せない。

「あっはは。お前、絶対一人で歩けねぇからな」

 尋が俺の方に大声で話しかけてくるが、俺は運ぶので精一杯である。もうすぐそこは酒野の店だ。

 視線を感じて目をやると、そこには店の制服を着た男がいた。

「お兄ちゃん、もう開くかな」

「はい、大丈夫です。どうぞ」

 お店の中に酒野がいない、準備を任せて飯でも食っているのだろう。尋を座らせ俺も座る、少々疲れた。酒野もそのうち出て来るはずだ。

「あれがお前の知り合いのバイトか」

「そうよ、一郎君。苛めちゃだめよ」

 頬に人さし指を当ててぶりっこポーズ。なんだか気味が悪い。そうこうしている間に、一郎が嫌そうな顔をしておしぼりを持って来た。

「ごめんなさいね」

 尋は拗ねて舌を出している。俺は絡みに行きそうになる尋を抑える。

「こいつ絡み酒なの。お兄ちゃんにも絡んだらごめんね」

「いえ、仕事ですので」

 一郎は満面の笑みだった。俺は爆笑してしまう。

「もう、笑わないでよ。とりあえず生二つお願い」

「かしこまりました」

 一郎は生を用意しにとっとと去って行く。すると酒野が階段から下りて来た。

 俺たちがいるのがわかるとこちらに来てくれる。

「お久しぶりですね。護くん」

「どうも。今日は尋がもうべろべろで」

 優しい笑顔で来てくれた酒野も、尋の様子を見ると苦笑している。

「護くんが?ませたんでしょう。?ませ上手なんですから、気をつけて下さいよ」

「いいのぉ、私はお酒好きだから」

 隣に座っている俺に寄りかかって、もう眠たそうにしている。

「もうずっとこんな調子で呑みっぱなしで。護くんが面倒見てくれないと大変ですよ」

「そんなあ、ここではいつも四杯くらいよ。可愛いものでしょ」

 尋は相変わらず酒野に迷惑をかけているのか。簡単に想像できて笑えてしまう。

「俺も時々二人で?みますけど、いつもこんなになって大変なんすよ」

「うっさい。独りの時はちゃんとしてるもん」

 尋は頬を摺り寄せ子どものように甘えてくる。

 今日は俺も酔っているから、あまり摺りつかれると困る。色々と面倒になる前に、さっさと呑んで寝てしまえばいいのに。

 酒野は絡まれたくないと言って、カウンターに行ってしまう。その間に一郎が生を持って来てくれる。

 ?んでいくうちに尋はどんどん酔いが醒めていくようだ。俺と?んでいるためかさすがに成長したようだ。

「そろそろ帰ろう、お金ないし。だらだらしたい」

 その一言で俺たちは店を出る。一郎がさっさと帰れという目で見ているのがわかり、笑いを堪えるのが辛い。

「ごめんね、お兄ちゃん。五月蠅かったでしょ」

 尋は隣でにこにこと手を振っている。

 これから尋の家で呑み直しだ。また連れ帰るのか、大変だ。

「おい、酔っ払い。ちゃんと歩けるな」

「うん。大丈夫よ」

 言いながら俺の手を取ると、自分の腰にまわす。俺の手を掴んだまま。一体どこでこんな技を覚えてくるのか。そう思うと不快で仕方ないが、素直に喜んでおくことにする。どうせ今夜は俺のものだ。

「まだ?むのか」

「うん、うちに良いウィスキーがあるから」

「そうか」

 尋の体温が高いのがわかる。酔っているから脈も速い。でもそれはきっと俺も。思っているよりも酔いが回っているのかもしれない。

 尋の家はここから近いからきっと大丈夫。俺も尋もふらついて倒れたりはしないだろう。

 思っていた通り、ちゃんと家には着いた。しかし二人とも眠くなってきて、思考が正常でないのがわかる。二人ともベッドに直行、二人で他愛のない話をして盛り上がって、結局酒を持ち出した。狂ったように?み、乱れに乱れて疲れ果て、そのまま倒れるように寝た。

「護さん......私、昨日」

「気にするな。昨夜(ゆうべ)のことは二人だけの秘密だ」

 二人とも二日酔いでがんがんする頭で、次の日は一日中苦しんだ。それほどに酷かった。



「こんにちは」

 それからしばらくして、喫茶店の時間に酒野の店を訪ねてみた。

「おや、護くん。珍しいですね」

「今日はちょっと時間ができて。手伝いますよ」

 どうやら一郎は夜だけのバイトらしい。今はいないが、昼は時々、尋が手伝いに来るようだ。

 昔と変わらず、ここの店は賑わっていた。馴染みの客が少し減ったような気もするが。その話をすると、酒野は少々悲しそうな顔をした。

「ここら辺のお年寄りが減ってるんです。寿命ですよ」

 そう言う酒野も、それなりに年をとって見えた。初めて逢った頃から五年以上も経つ。時の流れは速いものだとしみじみ感じた。

「尋とはどうですか。最近様子が変わったようだけれど」

「変わった、そうですね、そう思います。なんというか、良い意味で子供というか。まあ俺が大人になったのかもしれないけど」

 その言葉を聞いて、酒野は柔和な笑みを浮かべた。

「君も変わりましたよ。ここに来た時は、少し刃毀れしたサバイバルナイフのようでした。今は手に馴染む菜切り包丁ですかね」

「どんな例えですか、それ」

 二人で笑い合う。こんなふうに穏やかな時間が過ごせる日が来るなど思ってもみなかった。家族がいない俺にとって、酒野は父のようでとても心強い人だ。

 世話を焼かれたり怒られたり、少々話し難いところもあったが、今ではそれも心地良く思う。酒野の言う通り、感じる側の、俺の変化もあるのだろうと思う。

 人と話すことはそれだけで自分になにかを与えてくれる。それがわかるから、たくさんの人とちゃんと話をしたいと思うようになっていた。

 これまでもたくさんの人と話はしてきたけれど、俺は正確には話ができていなかったのだ。聞き流して相槌を打っていただけだから。なにも受け取ることができなかったのだ。

 話して、そしてしっかり考えて。ちゃんと自分のものにしたいと思う。色々なことを、学んでいきたいと。



 その日は一郎が来るまでずっと店を手伝った。そして尋との約束を破って、少しだけ一郎を苛めてしまった。

 酒野に言われ少々酒を教えただけだ。酒野は俺なんかよりはるかに酒が強い。二升くらいは?んでしまう。俺がいなくても平気だろうに。責任転嫁で尋には俺が怒られるのだろう。ひやひやしながら?んだ酒は、思っていたより美味かった。

 帰り際、土産だと酒とつまみを貰った。バイト料だそうだ。こういうところは以前と変わらない。だがしかし、彼はやはり年をとっていた。その身体は細く小さくなっているように感じたし、耳や目ももうかなり悪いのだろう。それは彼の年齢よりも随分進んでいるように感じた。

「これから時間があるときは手伝いますよ」

 その言葉を聞いて酒野は嬉しそうにしていて、こちらも嬉しくなる。

「ありがとうございます。お礼にご飯でも食べていって下さい。それくらいしかできませんから」

 その控えめなところが彼の良いところだ。見習わないと。

「俺、飯大好きなんで。最高ですよ」

「それは良かった。尋も一緒にまた三人で食べたいですね」

 三人でテーブルを囲む。そんな日々を懐かしく思う。またあの頃のように穏やかな時が過ごせる、そう思うと俺は頑張っていける。

 俺はもう独りじゃない。ここは俺の居場所なのだと、そう信じられる今がとても幸せだ。



   六



「護さん、これそっちに運んで」

「はいはい」

 今日は久しぶりに三人でご飯を食べるということになった。酒野も一日お店を休みにして、今日はとことん楽しみましょうと言っていた。

 広いからと、寛げるからという理由で、今日の飯は尋の家に集まった。

 そして料理は酒野ではなく、何故か、尋と俺が用意している。

 尋は思っていたよりも料理の腕が良く、作られる品はどれも美味しそうだった。酒野に食べさせてもらってばかりで、ほとんど料理はできないと思っていたのに。

 酒野は酒担当で、なにやらあまり聞いたことのない名前の酒を買って喜んでいた。

 尋に言われた通り、皿は大方、居間に運んだ。俺はしばし休憩をしようと煙草を手に取る。

 秋になって、随分と過ごしやすくなった。まだ日暮れ前であるが、丁度良い気温である。

 尋の家の庭は上手く季節を取り入れている。萩、(こす)(もす)酢漿草(かたばみ)、他にも色々ある。色々話されるせいで植物に詳しくなっていく。最近は石にも凝っているのだろうか、庭の真ん中には堂々と石が置いてあった。

 煙を吐くと、庭から猫が上がって来た。どこに隠れていたのだろう。首輪がない、野良猫のようだ。

「護さん。まだ運ぶやつあるんだけど」

 尋が可愛らしくぷりぷりと怒りながらやって来た。

「うん、後でな」

 俺は猫を膝に乗せて煙草を吸っていた。何故だか勝手にのぼって来たのだった。

「なによ、早くしてよ。おじさん来ちゃうでしょ」

 ごんと、頭に拳を落としてすぐに戻って行く。

 しかし足の上には猫がいるから動けない。ぼうっとしていて煙草の灰を落としそうになって、慌てて灰皿を取る。

「あれ」

 いつの間にか猫はいなくなっていた。

「はやく行かないと、尋が怒るよ」

「はいはい」

 確かに尋が拗ねると面倒だ、早く行こう。

「お待たせしましたお姫様、下僕が参りましたよ」

「ほら、早く運ぶ」

「はいはい」

 尋はいそいそと盛り付けをしている。料理自体は終わったようだ。それにしても多いな、一体誰がこんなに食べるのだ。

 居間のテーブルは料理でいっぱいになった。そして、ふと気がついた。

「さっき俺に話しかけたのは、誰だ」

 ここには俺以外いないのに。しかし、確かに声がしたのに。

「どうしました」

「うわあ」

 酒野が突然庭から上がって来た。ダンボールいっぱいに酒瓶を入れて運んでいたのだった。

「なにかありましたか」

「いや、なんでもないっす」

 おそらく酒野だったのだろう。妙に寒くなって、鳥肌が立った。全く、生きているのに幽霊のようで薄気味悪い。

「今日は楽しみましょうね、私も久々に?みます」

 酒野が黒い笑顔を見せた。これは本気だ、本気で?むつもりだ。酒野も尋も、もちろん俺も酒は大好物である。

 今日の呑みは酷くなる、そんな想像しかできなかった。

 

 

 飯も食い終え、大方酒も空になった。

 尋はすやすやと俺の膝の上で就寝している。

 俺もいい加減眠いのだが、空いてない酒がまだ残っているので?みたさが勝っている。

 今日の酒はみんな美味しいものばかりだった。どこの国のものかわからない、簡単には表現し難い難解な味の酒もあったのだが。

「まだ?めますか、護くん」

「あ、はい」

 酒野は喜んで、次の瓶の栓を抜く。おいおい、それはどう見ても一升瓶じゃあないか。

「護くん」

「はい」

 酒野はどうしてか居住まいを正し、酒を注いでくれた。

「尋のことよろしくお願いします」

 そう言って、俺に瓶を渡してきた。俺も喜んで酒を注ぐ。

「はい。勿論」

 酒野は寂しそうに笑った。

「尋の花嫁衣裳、見れるといいですね」

「......それは俺が尋に認めてもらえないってこと、ですか」

「いえ、尋が素直になるか。という意味ですよ」

 嘆息し、一気に杯を呷る。これで顔色が変わらないのだから、酒野は怖ろしい。

 尋の花嫁衣裳か、似合いそうだけれど似合いそうにない。白というのがどうにも彼女にそぐわない気がして。

 ぼうっとしているとまたどこからか猫が来た。

 俺の方を、いや、杯を凝視しているのだろうか。

「?みたいのか、お前」

 眠っているので使わないだろう、尋の杯に酒を注いでやる。すると嬉しそうに舐める。

「変わった猫ですね」

「そうですね」

 ちょっと酒を舐めたくらいですぐに丸くなった。可愛いものだ。

 縁側で三人と一匹で過ごす夕闇。妙に心地良く、安心できる時間だった。


 

 ある秋晴れの気持ちが良い日、酒野は突然逝った。

 尋は葬式の時、不自然なほど元気だった。いつもの上手く心を隠している彼女はそこにいなかった。近所の人に助けられ何とか葬式をこなして。無理しているのが見え見えだった。それでも俺は仕事を抜けて行ったこともあり、まともに話もせずにすぐに帰った。

 その後もきちんとした時間を取って逢うことができないでいた。

 言い換えれば、俺は仕事のせいと言って、尋のことを放置していたのだ。それまではまめに連絡を取っていたのに。

 それでも心配はしていなかった。尋なら大丈夫だろう、そんな気持ちが心のどこかにあった。

 尋は俺よりも大人で、しっかりしているから。

 

 

「――護さん、お客さんです」

「なんで、誰よ」

「男の子、もう何回か来てる。でもいつもいないんですもん、護さん。今日はいてくれて良かったですよ」

 会社の方に来ても俺がいないのは仕方がない。俺は色々な場所に飛ばされるから。大方デスクにいない。それにしても一体誰が俺を訪ねて来るのだ、しかも男だろう。見当がつかない。

 待合室に行くと、小柄な男が居心地悪そうに椅子にちょこんと座っていた。そこにいたのは一郎だった。

「すみません、いきなり」

「いや、かまわないけど。どうしたの、俺に何用だ。酒野のことか」

 俺は一郎の緊張が解けるように、少し離れた席に寛いで座った。それがどうやら逆効果だったらしく、一郎は畏縮してしまった。

「そうなんです。あいつもう何日も学校来なくて、電話しても出ないし、メールも返って来ないし。俺はあいつの知り合いで知っている人、あなたしかいないから」

 どうやら尋のことらしかった。酒野の姪だから尋も酒野なのか。あの尋が引き籠って学校に行っていないらしい。そんなにか弱い女じゃあないだろうに。

「あいつが休む、ね。体調悪いとかじゃないの、?み過ぎとか」

 俺がそう言うと、一郎はまた畏縮する。どうして俺はこう、人を怯えさせる才能があるのだろう。

「それで二週間休むのはおかしいです。もう冬休みに入るから、これじゃ後、一カ月はなにがあってもわからなくなっちゃうし」

 一郎は本気で心配しているようだった。

 俺の知っている尋は強い女であるが、同時に弱い女でもある。

「店長が死んだ後からなんです。その後何日かはちゃんと学校に来てたんですけど、なんの前触れもなく突然来なくなって」

 ちらちらと俺の顔を見てくるが、何故か俺が怖いらしい。そんなに酷く苛めた覚えはないのだが。

 じっと一郎を見ていると、今度は黙り込んでしまう。言いたいことはそれだけなのか、それとも言えないのかわからない。しかし聞いても答えは望めないだろう。こんなに怯えられると対応に困る。

「お前、さ。尋のこと、どんな人間だと思ってるんだ」

 俺の問いに一郎はびくついたが、下を向いて話し出す。

「なんかふわふわしている感じで、猫みたいな。それで誰とでも平気で話せて。あと暴力的で意地悪で、誰にも負けない強い奴で」

 一郎の前での尋は、やはり俺の知っている尋とは印象が違う。

「なるほど、わかった。俺がなんとかするよ」

 その答えに、一郎はやっと落ち着いたようだった。俺が頼みを聞いてくれないと、それを怖れていたのだろうか。一気に力が抜けたのか、大きく深呼吸をしている。

「お前、もしかして尋のこと......」

 大きく息を吐き、一郎は寂しそうに笑った。

「俺にはなにもできなかったです。きっと、あなただったら」

 お願いします。そう言い残し、去って行く。

 尋は自分の世界に殻を作って、その中から出まいと閉じ籠っている。俺だって、一郎だって、お前の味方なのに。

 酒野も尋もこんな気持ちだったのだろうか。妙に寂しく、空しく。心に冷たい隙間風が吹くようで。

 ――待つ者の立場、か。

 こんな思いをする日が来るとは。

 俺は上司に頭を下げ、一週間の休みを取って尋の家に向かう。上司も尋のことを気に入っていたこともあり、多めに休みをくれたのだ。

 足取りは重い、言い知れぬ不安があった。

 尋が救えるのか、俺に。こんな俺に。あの時俺が貰った優しさを、本当の癒しを与えられるのか。

 胸が痛い、辛い。きっとこれが心を痛めるということ。あの時の尋のように。

 昔の俺が今、目の前にいる。立ち向かわなければならない。俺は本当に尋を救えるのだろうか。

 尋は昔の俺と同じ、世界から逃げているのだ。本当の自分を見ることから、自分の世界の中から。

 一郎に聞いた印象が、俺の知る尋とは違い過ぎた。誠実の時もそうだったように。たくさんの顔がある。そんなところまで一緒だなんて。藤江のことを思い出した。客の前で嗤ってばかり、そして俺の前でもずっと嗤っていた。全てを笑顔で隠すように。似ていると感じたのは、影が重なったのはそのためか。

 頑固で弱虫で、それでいて意気地なしで。

「本当は弱いんだよ」

 声に出して、ますます不安になった。

 尋は家にいるのだろうか。そういえば一郎から、家に行った話は聞いていない。ということは、尋の家は知らないということなのか。

 ――もっと周りを頼れよ、信じろよ。全てを話せよ。

 全てを受け入れるのに、なにも投げ出さない。それはずるい、ずるいよ、尋。自分を見せないのは相手を信じてないからだろう。

 それがどうしようもなく辛かった。頼ってもらえないことが、どうしようもなく辛かった。

 家の前に着くが、物音がない。誰もいないのだろうか。

 勝手に入ってもいいだろうと、庭先に出てみる。

 するとそこには蹲っている尋がいた。

「尋、大丈夫か」

 駆け寄って行って、様子を確かめる。いくらか痩せているが、とりあえず死に急いだというわけではないよう。

 俺まで地面に崩れ落ち、蹲る。安心したら力が抜けた。

「どうしたの、お前。様子見に来て本当良かった。さあ中に入ろう」

 立たせようとするが、尋は動こうとしない。

「どうした、大丈夫か」

 地に縛られているように動かない。力ずくで運ぶことはできる、しかし尋は俺を見てくれない。こういうときは無理矢理にしない方が良い気がした。

 仕方なく、俺も尋の隣に座る。

「どうして来たの」

 俺を全く見ないのに、声だけが聞こえてくる。声を聞いただけで不安が少し小さくなる。とりあえず俺に悪態を吐くくらいには元気なようだ。嬉しくて尋の頭を撫でる。

「心配だったんだよ」

 その言葉に答えがない。またいつものように機嫌を損ねてしまったようだ。

 俺は手のひらに力を込める。尋の髪がぐしゃぐしゃになるほどに。

「本当に、そう思ったのかしら」

「うん」

「忙しかったんじゃないの、私のこと忘れるくらいに。どうでもいいくらいに」

 間髪入れずに痛いところをついてくる。確かに忙しかった。だがそれも、尋なら大丈夫だと思っていたから。だからあえてかまうことをしなかっただけだ。

「忙しかった、でも忘れたわけじゃない。信じてたんだ」

 すると尋はいきなり起き上がって跳び付いて来た。

 いきなり跳び付かれ、俺は地面に押し倒される。尋の顔が未だに見られない。

 俺は尋を腕に抱えたまま、身体を起こす。耳に聞こえるのはすすり泣く寂しい音のみ。

「みんな、みんな。いきなりいなくなってしまったの。私が大事にしていたものは、みんな、みんな、遠くに行ってしまうの」

「うん」

「護さんも、いなくなっちゃうのかもしれないって思った。またいなくなっちゃうって」

「悪かった。お前のことわかってるつもりになって、わかってなかったよ」

 ぐちゃぐちゃに泣き、必死に縋り付こうとしているのに、俺を強くは抱きしめられない弱さ。彼女はこんなにも弱い。縋り付けない彼女を、俺はただ優しく抱きしめることしかできない。

「ごめんなさい、違うの。わかっているの、自分が悪いって。全部私が護さんに言ったことだもの。護さんを通して自分にも言っていたことだもの」

 彼女にどう声をかけるべきかわからない。話を聞いてやることしか。

「うん」

 ただ一言、そう言ってやることしか。

「嘘を吐いて逃げていたのは私なの。違う私を何人も作って、本当の私を隠して、皆の求める私になって、必要として欲しかったの」

「うん」

 尋は先ほど座っていた場所の方へ視線を向ける。そこには大きい石があった。

「これはね、猫のお墓なの。私に色々なことを教えてくれた、大切な友達」

「うん」

「これ以上なにかを失うのは嫌。消えてしまってからでは遅い。おじさんも私に、なにも言わずに逝ってしまった。もう知らないのは嫌。なにかが消えていくのを掴めずに放すのは嫌」

「うん」

 尋はとたんに静かになる。すると突然、かくんと力が抜けたように倒れた。

「尋、どうした」

 尋は意識を失っていた。溜まっていたものを吐き出して、気が緩んだのだろう。起こさないようにそっと寝室まで運ぶ。二人そろって土だらけだ。

 尋は一度に、猫と酒野と、そして俺を失ったと思ったのだろう。きっと彼女にとって大切なものだった。そして心が折れてしまった。

 俺の全てを知っても、彼女は俺を受け入れた。そんな彼女を、俺が手放す理由なんてない。それでも彼女は怯えていた。本当の姿が、弱い自分を知られたらどうしようと。俺の全てを引き出したくせに、対して自分は全てを隠していたのだ。

 信じてもらえてなかったのかと、悲しくなる。でも俺の見ていた彼女の姿はせめて、本当の欠片であったと思いたい。そう信じたい。俺の前ではせめて、気を遣わずに、素直な姿であったのだと。弱さは、その全ては見せられなかったとしても。

 尋を寝かせて毛布をかける。俺もすぐ傍で横になる。手を繋ぎ、心配させないように。彼女の身体は冷たい。どれだけ長い時間ああしていたのだろうか。

 冷えて真っ白な顔が、葬式の時の酒野のようで気分が落ち込む。

 今ここで俺がいなくなったら、尋はもう駄目かもしれない。たくさんのものを持っているのに、今はそれに目を配れないほどに追い込まれているのだ。

 あの時の、全てに目を瞑っていた俺のように。世界はただ真っ暗で、手が届かないと。そう思っているのだろう。

「俺が泣いていた日は、尋が隣で眠っていてくれたんだったな。まさか立場が逆になる日が来るとは」

 ――わからないものだな。

 酒野は尋になにも言わずに死んだらしい。俺は酒野から、尋の面倒を見てくれと言われていた。お店も好きに使っていいと言われている。君がお店をやりたくなったら尋と二人で使えばいいと。一郎君には申し訳ないけれどと、笑っていた。

 力の抜けた少し不安の残る表情で、尋は眠っている。

「俺みたいに、本当を全部隠して、曖昧に流す方が楽かもしれないな。お前のように違う自分になるのはきついだろう。たくさんの顔を持つのは辛いだろう。藤江もお前のようにたくさんの顔を持っていた。そして、俺の前でも母親という顔だった。きっと、どこにも逃げる場所がなかったんだろうな。今のお前みたいに」

 閉じられた、濡れている睫毛から雫が伝い落ちた。



 いつの間にか眠っていたようで、目を覚ますと俺は後ろから尋に抱きしめられている形になっていた。

「尋、もう大丈夫なのか」

「うん。ごめんなさい、取り乱して」

「いいよ、お前の本当の姿が見られた。ずっと無理してたのか」

 答えはなかった。それが肯定のようで、なんとも居た堪れない。

「わかってやれなくて悪い」

「違うよ、護さんは悪くないの。私のせいだもの。ごめんなさい、嘘を吐いていて。隠してて」

「うん」

 尋は、今度は少し強い力で俺を抱きしめる。正直な話ちゃんと正面向きでの方が嬉しいのだが、そんなことを言う場でもない。

 ただ今は彼女が安心するまで一緒にいようと思う。俺はお前の味方だよと。いつでも言えるように。

「ごめんなさい」

「うん」

「ごめんなさい」

「うん」

 いきなり黙り込んでしまった。尋の手が俺の背中の方に戻っていき、服をぎゅっと握り締めた。

 すぐに啼泣しているのがわかった。また泣いているのか、どうしてそんなに泣くのだ。

「信じてなかったわけじゃないの。ただ、ただね、すごく怖かったの。私を見せることが、嫌われることが。もう本当の自分がどんな人間だったのか。なにかもかもわからなくて」

 その言葉に、俺は少々頭に来る。尋の手を振り解き、無理矢理顔をこちらに向かせる。きっと怖い顔をしているのだろうが、こんな時は良い効果になるだろう。俺は尋の目を見て、ゆっくりと話す。逃げないように、気持ちが届くように。

「逃げるな。俺にそう言ったのはお前だろう。戦え、尋。酒野に心配をかけるな。全てはお前の気持ち次第なんだぞ」

 尋は目を逸らさなかった。だからきっと、俺の思いは伝わっている。信じて言葉に託すしかない。

「俺は戦った。ここにいるために。なのに、なんでお前が逃げるんだよ。俺の居場所はお前のところなんだぞ。お前がいなくなったら、俺はまた独りになるじゃねぇか。俺を待っていてくれるんだろう」

 尋は目を見開いて、唇を噛み、ひたすらに涙を堪えていた。端から涙が零れそうで、それが妙に痛々しかった。

「もう逃げるな。逃げれば逃げるほど、辛くなるんだぞ。前を向け、世界を正面から見ろ。自分自身をちゃんと見ろ、姿を曝せ。それを受け入れる人はちゃんといる。俺はお前の味方なんだから、どんなお前も、お前なんだから」

 尋の瞳はもう涙でいっぱいで、それが端から少しずつ零れていて。それはきっとなににも隠されていない、裸の尋の姿であった。
















   七



 長い黒髪が、風の中を舞っていた。

 風が俺の髪を揺らす。そして頬を伝う涙を拭っていく。

 追いかけようと手を伸ばすも、何故か届かない。

 あの人の姿が、どんどん遠くなる。俺は身体を動かせず、その場に留まるだけ。

 どこからか煙が湧いてきて、あの人の姿を徐々に隠していく。

 そこは臭いでいっぱいだった。香水の霧が、煙草の煙がこの場を支配していく。ただそれをぼんやりと眺めているだけ。

 あの人が振り向くその瞬間、全てが煙に覆われてしまう。

 突然強い風が吹き、俺は目を開けていられない。

 風はすぐに止み、臭いを洗い流すと同時に柔らかい温度を連れて来た。

 視線の先にはまた黒い髪。ふわふわと、甘い香りを漂わせながら舞っている。

 彼女はこちらを振り向く、今度はそれを遮るものはない。俺は手を伸ばす。しかしそれはまた届かない。

 振り向いた彼女は泣いていた。頬を赤く濡らして、血の涙を流していた。



「まもちゃーん、どしたん」

 その声で俺は世界に戻された。どうやら手に持っていた煙草の灰が布団に落ちたらしい。俺の手にあったキャスマイは取り上げられ、吸い手が変わった。

「いや、なんでもないよ」

 隣にいる女に適当なことを言って口を塞ぐ。この手の女は危ないと思ったことは聞かない。今回もそう、キスで誤魔化せばいい。そういったところは楽なのだが。

 昔から変わらない、酒と煙草の臭い。その呼び方のせいで気分の悪い夢を見た。

 年を経て、自分のいる場所を選べるようになったのに。今でも変わらずこの場所で生きているなんて。

 ベッドから逃げ、投げ捨ててあった服を拾う。

「もう帰るの」

 化粧を直しながら、裸の女は話す。俺のことは見ていない。優先すべきは顔の繕い。服を着て、帰り支度をしていることに気がついているはず。

「またしばらく来ないつもりでしょ。次はいつ来るの」

 次はいつ、という質問。ここが問題だ。用事がなければこんな女、相手にするわけがない。俺を知ったつもりになって何様だ、お互いに利用し合うだけの関係だろう。

 相手の苛立ちを感じると、途端に機嫌を悪くする。自分が女王様のつもりなのだ。そうして拗ねられると、後々面倒なことになる。だから極力表に出ないように抑え込むしかない。

 俺は背を向けたまま、顔を見せずに会話を続ける。

「わからねぇよ。仕事次第だな」

「あっそ。......そうねぇ。いつもそう言うわね、期待しないで待ってるわ」

「そうかい」

「ええ」

 この部屋も臭いでいっぱい。あの部屋と同じく、淀んでいる。振り向くと、女はこっちを向いていた。俺の苛立ちには気づかないままで。

 繕いが一通り終わったのか、煙草を吸いだす。その顔が無性に腹立たしかった。俺は眉間に皺が寄るのがわかったが、もう隠す気にもならなかった。

 女は手を差し出す。そこにあるのは煙草の箱とライター。受け取って、足早に部屋を出る。

「またね」

 玄関を開けると聞こえた声。聞こえないふりをして、返事をせずに部屋を出た。

 女の渡してきたパーラメント。吸いながらふらふらと歩く。臭いでこの女と付き合いが長かったのかもしれないと感じた。臭いで判断しているからこういうことになる。臭いと味と、口と身体の感覚、それだけ。

 今さっきまで一緒にいた女の名前も、よく覚えていない。マミだかアイだか、どうせそんなものだろう。情報収集のために作った女は両手じゃ足りない。いちいち覚えてられるわけがない。

「気分わりぃな」

 嫌な記憶が出てきて胸糞悪い。酷く気分が落ち込む。調べ事の時はいつも。上手く煽てて女の機嫌とって。頗る気分が悪くなる。

 子供の頃、嫌になるほど見てきた世界。仕方のないことなのだろう、この道を辿ることは。

 シャツのボタンもほとんど開いたまま、急いで出て来た。なにもしていなくても目つきが悪くて姿勢の悪い俺は、周りに与える印象が悪い。これではチンピラ以外の何者でもない。

 背がそれなりにあるし、身体もでかい。伸ばしっぱなしで肩まで届く黒髪は鬱陶しいが、切るのは更に面倒で。ピアスも両耳で六個。くたくたのスーツだって、もうどれだけ洗濯していないのか。煙草と香水の臭いが染みついている。この前洗濯させたのはいつだったか。

 溜息を吐くが、どうにもならないのはわかりきっている。

まあしかし、知りたい情報は手に入った。これから休んで一仕事だ。

 まだ夜明けまでしばらくある暗い道中、独り寒さに凍えながら歩いた。



「ただいま」

 部屋は電気が点いたまま、しかし静寂。誰もいないようだ。電気くらい消せばよいのに。そう思うが、俺はいつもここにいる訳ではないからなにも言えないのが現実。

 俺は今、とある居酒屋の二階に住んでいる。階段が外にも中にもあり、お店に入らず直接出入りできる。情報収集に酒場は最適だから。

 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空。卵が二個と長葱、ちくわがあるのみ。仕方なく、電気を消して店に下りる。店はまだ開いていたようだったから。

 階段を下りる。すぐ横にはスタッフの休憩所、その先にカウンターがあり、お店に繋がっている。

 お店に出ると客が二人いるのみだった。顔を赤くしたカップル。薄暗い室内でも赤いのがわかるほど酔っているらしい。ぴったり寄り添っていちゃついていた。

 カウンターには客ではない女が一人、涼しげな顔をして酒を呷っていた。俺はその隣に座る。

「ただいま」

「おかえり。ご飯は?」

「食ってねぇよ」

「じゃあ作らせるわ。一郎、お茶漬けでも作って」

 彼女は手に持っていた空のロックグラスを振って、酒を作っていた男、一郎を呼ぶ。

 一郎はすぐに二人の方へ来た。

「はいはい。また遅くまで仕事ですか。護さん」

 作られたばかりのカクテルが渡される。

「そうなんだよ。呑み過ぎたから胃に優しいのがいいね」

「わかりました。尋の言う通り、お茶漬けですかね。鮭茶漬け。すぐ作ってきます。カウンター空けるからなにかあったら頼むよ」

「ほいほい」

 一郎は休憩所の方へ行く。休憩所のキッチンで作るのだろう。

「お疲れですか、酷い顔してますよ」

 彼女はそういって目の前にあったカクテルに手を伸ばす。それに口を近づけるが、俺がその手をカクテルごと掴む。彼女は反抗の目つきで見てくるが、気にしない。

 口に含んだ瞬間の咽返るような強い香りに一瞬怯んだが、一気に干してやった。

「疲れてるのね、苛々なのね」

「ああ」

「また」

「ああ」

「最近どうなの」

「ああ」

「大丈夫なの」

「だめ」

 笑顔で言うと、同じように笑顔で返してきた。見上げるように彼女の顔を覗き込む。

 いつもと変わらない、なにを考えているかわからない笑顔でいる彼女。昔から瞳を逸らさない、だからこそ俺は見つめる。逃げないように。

 俺はだんだんと顔を近づけていく。彼女は逃げない。近づきもしないが。その唇が触れるよりも先に、お客が会計をしてほしいと言ってきた。

 俺を置いて行ってしまう。せっかく捕まえた視線も、話しかけられた時に逸らしてしまった。あと顔一つ分だったのに、逃げられた。

 待つ間にすることもなく、頬杖をつき彼女を観察することにした。

 長い黒髪、同じなのはそれだけ。豊かな体躯も、猫みたいな丸い瞳も、なにもかも違う。

 今まで追いかけて来た姿とは全く違うのに、どうしてだろう。無性に縋りたい、抱きしめて欲しい。そう思うのは。

 我ながら笑える話だ。今まで付き合ってきた女は皆、あの人に似ている女ばかりで、後から気がついてはそんな現実に悲しくなって。そう考えているうちに毎回のように女の方からいなくなる。

 ぼうっとしていると彼女はお店を閉め、こちらに帰って来る。

「お茶漬けですよ」

 ちょうど一郎も戻って来た。一郎は茶碗を二つ置いて、すぐ去って行く。もう帰るのだろう、片付けを始める。

 その横で静かにお茶漬けを食う。洗い物が終わるが、俺たちはまだ食っている。一郎はそれを見て笑うと俺たちに声をかける。

「護さん、尋、俺は帰りますからね」

 一郎は裏に消えて行く。

 先に食い終って、暇になった俺は傍にあったバーボンに手を出した。しかしその手は尋にさらわれた。

「部屋に行きましょう。戸締りしてくるから、先に行ってて」

 尋はそう言い席を立つ。お茶漬けは食い終えたようだ。

 俺は流しに茶碗を置き、バーボンを持って二階に上がる。

 酒野が死んでもう二年になる。またあの時のようになったらと思うと心配で仕方がない。もう離れられないと思ったものだ。

「愛なのか......」

 はっきり言ってわからない。そもそも愛という感情がわからない。実際付き合いも長いし、良いところも悪いところも見え透いている。

 父と娘のようだし、それでいて兄と妹のようだし。友であり、男と女の関係でもある。正直な話、そのどれでもあってどれでもないのかもしれない。

 寝室に行きベッドに座ると、瓶のまま酒を?む。

 尋のことを考えていると、妙に心が温かくなる。どうしようもなく浮ついて、にやにやしているのが自分でもわかる。

 頬が熱くなってきて、酔いが回るのがわかった。

『お店を残したいの』

 俺の隠れ家に来てそう言った。態度はでかいくせに小さい身体で。頼れるのは俺だけだったのかもしれない。いやそれも俺の驕りだろうか。一人で食っていけるようになっていたから、頼られても問題はなかった。後悔はしていない、驚くほど。あれからあっという間に時が過ぎた気がする。

 俺は一緒に店をやれないけれど一郎がいる。今では夜のみの営業で、居酒屋しか営んでいないが、それでも一郎と尋が暮らしていけるくらいには稼げる。俺がしてやったのはここを残すことと、そして尋と一郎の使いやすいように改装したこと。

 尋はあの家を一郎に貸して、下宿所をやっていた。そこでも少々の稼ぎがある。

 尋と俺が今ここに住んでいる。俺はほとんど帰らないから、住んでいるというより時々泊まっているという方がしっくりくるくらいだ。

 もう心配はいらないだろう。お店のことも、そして彼女のことも。

 今はしっかり、自分のいる場所を見ることができるから。世界には自分しかいないのだと、もう泣くことはないだろう。

 身を引くなら今、しかしその決心はできないでいる。それは俺が、尋と一緒にいる時間を心地良いと感じてしまっているから。大切に思っているから。

 

 身体が熱い、妙に昂る。さっきまで落ち込んで萎えていたのに、酷過ぎる気分だったのに。

「なんで俺だったんだ」

「あなたが良かったの」

 天から声が降ってきて、思わず顔を上げる。暗いままの室内にいつの間にか尋がいた。

 月明かりに照らされて、青白く輝いて見える。

 あの時の、月の女神のようだった。

 いつも気がつかないうちに気配なく傍に来て。黙ったままのくせに、いるだけで妙に温かくて。どういうつもりかわからないから笑うしかない。

「死にそうなあなたを見た時、私は迷ったのよ。どうするべきか。結局拾ったけれど」

「気まぐれだったんだろ」

「そうね、でもそれまでの私だったら捨て置いたわ」

「そうか、俺はあの時一度、死んだんだろうな。今は二度目の人生とでもいうのか」

 あの消えそうな青い空と、幻のような月の輝き。忘れられない、忘れたくない大切な記憶。

「お前に逢って俺は変わった」

「うん。私もあなたに出逢って変わったわ」

 俺は応えなかった。少し冷たすぎだろうかと、後悔した。それでも彼女がこの位で、俺のことを嫌いにならないと信じているから。

 ――信じている、か。

 いつの間にそう思えるようになったのだろう。それが強がりでなくなったのは。確かに信じられるものになったのは。

 人など嘘を吐くのが当たり前で、相手の機嫌を窺いながら生きて。そればかりだと思っていた。その中でもがき苦しみ、死にそうだった。

 頭を垂れて視線から逃れる。なにを考えているかわからない笑みで、瞳で、見つめられることがどうしようもなく苦手だった。実際なにも考えていないのかもしれない。それでも全てを見透かされているような気がしていた。嘘が吐けない気がした。だから安心できるのかもしれない。俺の全てをわかっていてそれでも一緒にいてくれる。

 嘘を吐くのが生きる術だと、小さい頃から知っていた。紡がれる言葉が、その態度が、真実か否か探る術は身についていたはずだった。それでも尋の考えていることはわからない。上には上がいるものだと、なんだか負けた気分になった時もあった。

 生きてきたところが嘘でいっぱいだった。わからなければならなかった。わからないことがあれば、自分の首がどんどん締まっていった。それを理解することは当たり前で見抜くのも当たり前で。そういうものをわかって、相手に合わせてうまく機嫌を取って。相手の嘘に合わせて生きていくのが普通だった。

 尋は隣に座ると、俺の手ごと瓶を手繰り寄せて口にする。こんなに近くにいるのに、こいつからは香水の臭いも煙草の臭いもしない。あるのは甘い花のような匂い。

 尋だって嘘は吐いているだろうし、そうだと

 ただそれで俺が苦しめられるということはなかった。優しい嘘ばかりだった。そんな嘘があると身をもって知った。

 しかし無性に苛立つこともある。思いが伝わらないということは、ひどくもやもやして苛々させられるということを知った。俺の想像はほとんど外れていて、尋の考えなんて理解できない。

 難しい問題だった、本当に今まで接してきた人間とは違い過ぎて。俺には考えが理解できない、普通ではないのだ。尋に限らず、これまでわかっていると思っていたことは全て俺のまやかしだったのだろう。そうやって自分を納得させることに、結構な時間がかかった。

 苦しみの中で学んだのだ。そうして生きていくことが、苦しさを背負い戦うことが大切なのだと。

 尋は俺の肩に頭を預け、ほろ酔いで気分良さ気に足をばたつかせている。少し赤い顔で、とろんとした瞳で。

 なんだかにやついてしまう、そんな自分が気持ち悪かったがもう慣れた。愛おしいとはこういうことなのだろうか。最近はそう考えるばかり。自分に反吐が出る。幸せを噛みしめるとはこういうことだろうか、こんなことを考える日が来るなんて。

 俺の持っていた瓶はほとんど空になっていた。俺が考え込んでいるうちに、尋がちょこちょこ呑んでいたからか。

それにしても飲み過ぎだろう。

「まだ?むの、お前」

「そっちこそ、?み過ぎてたんじゃなかったの」

 二人で睨み合い、瓶をはさんで取っ組み合い。手から瓶を吹っ飛ばしぶちまける。二人とも酒まみれでびしょびしょだ。目を丸くして、瞬かせて。互いに間抜け面だった。一瞬置いて笑い合う。

「もったいねぇ」

「同意だわ」

 尋は言いながら自分の手の匂いを嗅ぐ。俺はその手を取って口に含んだ。酒の味がした。擽ったそうに笑う尋に、何故だか俺まで擽ったい気持ちになる。

 もしかしたら俺たちは似ているのかもしれない。

 最近そう思う。彼女もなにか、嘘というものの中で生きてきたのかもしれない。俺が生きてきた環境は違うはずなのに。

 頭を撫でると瞼を閉じ、俺の手の方に擦り寄ってくる。そのまま尋は口を開く。

「ばかね」

「お前もな」

 即答してやると、尋は瞼を開けた。急に真面目な顔になって俺の心を荒ぶらせる。

「突然帰って来て。そんな顔して。大丈夫なの」

「無理かな」

「本当かしら」

「無理だって」

「嘘でしょ」

「本当に」

 俺が真剣に言っているとわかった尋は、優しく頭を撫でた。丁寧に、愛でるように、あの人と同じように。

「いつになく寂しそうな顔してる」

「うん」

「心配してるのよ」

「ん」

「私の気持ち、わかっていないでしょう」

「わかってるよ」

 段々と近づく二人の距離、俺は堪えきれなかった。強引に唇を交わす。尋はされるがまま、俺を受け入れる。

 見つめ合い、額を合わせて瞼を閉じる。そのままベッドに倒れ込む。二人で抱き合い温度に溺れる。この温もりを放したくない。俺の中に留めておきたい。

「寂しい顔して泣き言を言って。こんなに無茶する前に帰って来なさいよ」

「わるい」

「だって一カ月も帰って来なかったのよ」

「うん」

「寂しかったよ」

「ん」

 なにかが冷たいと感じた。を開けると尋の頬に涙があった。それが俺に触れていた。心が痛い、どうしようもなく痛かった。涙をすくって瞼に唇を落とす。

「たまに帰って来て死にそうな顔して。辛そうでどうしようもなくて」

「うん」

「それでもあなたがここに帰って来るから。私はここで待っているわ。あなたが帰って来られるように」

 泣きながら嗚咽を堪えて言う。俺まで泣きそうになる。

 尋は負担になっていると感じているのかもしれない。俺はそう思っていないのに。でもそれは言わない、言ってやらない。意地が悪いかもしれないけれど。

 素直に言い合うのも大事だろう。それに加えてこうやってお互いを尊重して、大きくなれたらいいと思う。こいつもそう思ってくれているだろうか。俺と共に歩むことを望んでいるのだろうか。

 全てを隠し秘めることで、自分を守ってきた俺。本当の俺を曝け出して、諭してくれた。温かい、優しい世界へ導いてくれた。正してくれたのは尋だった。

 だから俺もお前を導こう、共に正しく歩めるように。

 違う自分を作り出し、理想の自分を演じて。自分という顔を作りすぎて、本当の自分を見失って。弱い自分を隠し、偽物の誰かを作ることで、自分を強く見せていただけの彼女。弱虫でただの強がりでしかないそれは、彼女を苦しめ続けた。

「お前がいるから俺は俺でいられるのかもしれない。全てを知っても、お前はお前のままだった」

 尋は笑う、優しく静かに。

「私の全てを知っても、あなたは私を受け入れてくれた。この手を掴んでいてくれた」

 今ではもう彼女は嗤わない、俺も彼女の前では嗤わない。二人の中に邪魔な壁はない。あるのはお互いを擽る程度の甘い嘘。

 今ここが、唯一帰る場所だと、居場所だと言える。それだけは確かだ。ここが俺の居場所なのだと、そう信じていられる。安心していられる大切な場所。

「俺はここにいてもいいのか」

「私は一緒にいたいと思っているわよ。あなたと一緒に」

 俺たちは共に眠る。

 

 *

 

 むせかえるほどの強い臭い、化粧品と香水と、酒と煙草と。

 女たちは挙って高い化粧品を使い、香水をつけた。綺麗になるために。それが自分であることの証として。

 酒を?み酔いつぶれ、暇ができれば煙草を吸う。その女たちに癒しはあるのか。

 くすんで汚れて、なにが綺麗なのかを見失って。

 苦しみながら、それでも俺を育ててくれた。

 あなたもきっと愛をくれていたのだと、そう思えるようになった。俺をこの場所に置いて、独り去ったことにもきっと理由があったのだと。

 

 全ては俺の心次第。

 嬉しいことも楽しいことも、辛いことも悲しいことも。

 思う人の心で全ては変わるのだ。

 俺はもう、あなたを母と呼べるよ。

 だからどうか優しく見守っていてほしい。

 

 煙るその場で、優しい風が吹き、あの人の姿を露わにした。

 今はしっかり手を伸ばすことができる。俺はもう寂しくない、傍らには彼女がいる。

 あの人は消えていかずにそこにいた。

 俺は手を取り、あの人をしっかりと抱きしめた。

「まもちゃん、いってきます」

 いつものその台詞、その言葉ももう受け止められる。

「母さん、いってらっしゃい」

 優しい笑顔がそこにはあった気がした。



 腕の中にあるのは甘い香り。俺の心を優しく撫でる花の香り。俺はこの心地良い香りをいつまでも守っていくことができるのか。

 この香りはいつまでも腕の中に留まってくれるのだろうか。捕まえていられるのだろうか。

 ――ただそう願うことしか......




 




 風は腕の中に


 薔薇の香りはますます甘く


 心をさらっていく




 その紅い輝きは


 優しく囁く唇のように美しく



 その蒼い輝きは


 頬を冷たく濡らす涙のようで





















 その紫の輝きは


 陽炎な


 強がりで弱虫な女の嘘































エイジアン・ウェイ



ドライジン40ml

パルフェ・タムール20ml

レモンの皮少々



材料をミキシンググラスでステアし

クラッシュドアイスで満たしたグラスに注ぎ

レモンの皮を浮かべる






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