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『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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蜘蛛の誘惑 *矢玉

「あの、すみません!」

 総一郎はおっくうそうに首をめぐらした。

 息を弾ませる少女は、いつかの教会と先日の夜会で見た顔だった。いくら己が人の顔を覚えないからといって描いた顔など忘れない。むしろ、描いた顔は忘れない。

 だが、元禄袖の菊の小紋などを身にまとい馴染みの古物商を背に佇む少女はあの時教会で見た神秘性のなごりなどなく、ただの良家の令嬢だった。

 総一郎はさらさらと砂のように興味が薄れるのを感じ、視線を目の前の品へと向けた。




 駆けてきたため息が上がる。

 やはり、先日夜会で兄に話しかけていた青年だった。

 うつつに興味などないといった、虚ろな黒い瞳はすぐに己から逸らされてしまい、桐子は会話の糸口を失った。

 こうして薄暗く狭い店内で古びた屏風や壺。異国の陶器の人形などに囲まれていると、その青年の独特の雰囲気がさらに増す。目を離せば、青年もそんないにしえの美術品のひとつになってしまうような、そんな気さえした。

「あの、先日の夜会でお会いした時には名乗りもせず失礼しました。山縣征光の妹、桐子と申します。お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」

 返答は無言だった。視線さえよこされず、困惑してしまう。

「あの」

「桐子、どうかしたのか。っと、お?逢崎の」

 知り合いだったのか?と言われてどう答えればいいのか迷い結局口を開いた。

「夏に訪れた避暑地で、お会いしました」

 言ってしまってから将臣に口止めされていたことを思い出し。口元に手をやる。だが兄は気にした様子もなくへぇなどと呑気な返事をしただけだった。

「お兄さま、逢崎といわれるとこちらは紫子お姉さまの」

 その名前にぴくりと青年が反応した、目を落としていた古びた、だが雅な扇から顔を上げ桐子を見る。その瞳は、さきほどの気だるげな虚ろさはなく黒水晶のように澄んでいた。

「あの女を知っているのか?」

「はい、女学校の後輩で妹として可愛がっていただいております」

 へぇという声には、なぜか無邪気な響きがあったにもかかわらず、酷薄な笑みを刻んでいた。

「あいつの兄だ。もしくは弟」

 え、という呟きが桐子の口からもれた。

 そんなこと、紫子から聞いたこともなかった。紫子も、そぶりさえ見せなかった。それをどこかさびしく思ってしまうのは、いけなかっただろうか。

 その様子をつぶさに猫のように観察していた総一郎は無造作に距離を詰めると、ささやくように声を落とす。

「詳しく知りたきゃ、教えてやる。逢崎の家を訪ねてこい――――――もっとも敬愛するオネイサマを幻滅することになるかもしれないがな」

 そのまますれ違い、総一郎は店の外へと姿を消してしまった。


***


 紫子は疲れていた。

 翌日登校した女学校では、早くも昨日のやり取りが噂として広まり、己の周りは囁き声で満ちていた。休み時間になると、他の学級や学年の少女が扉からちらちらとのぞきに来るのも居たたまれない。好奇心と、きらきらとした憧れのまなざし。おもしろくなさそうな顔の早苗が嫌味を言ってきたのだが、その内容がまたいただけなかった。


『“いまかぐや”さまは殿方をたぶらかすのがお上手なようね』


 今、輝夜―――――――当世のかぐや姫という意味。いくつもの求婚を受けた古物語の美姫をなぞらえた新たな己の呼び名。

 揶揄だけならまだましだった。だがどこか陶酔をこめたその名。

 紫子の気持ちは底辺まで落ち込んだ。気持ちとしては机に突っ伏してしまいたいが、そんな見苦しい振る舞いはできないのが紫子である。

 おかげで、とても教室などにはおれず授業が終わったあとはすぐさま図書室に逃げ込んだ。それを聞きつけたのだろう、どこからともなく駆け付けた桐子は紫子のあまりの疲れた風情になぐさめようと必死なのだろうしきりと口を動かした。

「お、お姉さまが悪いのではありませんわ。むしろお姉さまの魅力をまた皆さまが思い出したからのこのニックネェムなのですから!!」

 それにますます意気消沈したのは言うまでもない。挙句のはてに、昨日の将臣の振る舞いとそれを後輩にしかと見られていたのを鮮明に思い出してしまい、赤面しながら落ち込む。その様子に桐子はますます慌て、話題を変えようと頭の中を探った。

「そ、そういえば昨日の帰りに逢崎のご子息にお会いしました!そのたまたまだったのですが、わたくし紫子さまにご兄弟がいたとはまるでしならく、て・・・・・・おねえ、さま?」

 紫子の顔は紙より白くなっていた。

「会ったのですか、逢崎総一郎に」

 驚くほど真剣なかつ厳しい面持ちに桐子は面食らい、子どものようにこくこくとうなずいてしまう。その様子に紫子は安心させるような笑みを浮かべた。

「ごめんなさい、桐子さん」

「いえ!そんなことは全然。あのわたくしのほうこそぶしつけな申しようで」

 それに首を振り、どこか逡巡するように考え込んだ後に紫子は桐子へとひどく真剣な目を向けた。

「お願いがあります、桐子さん。あの男にあまりかかわらないでください」

 その物言いに桐子はひどく驚いた。誰にでも分け隔てなく優しい先輩の、その冷たい物言い。

 それが手に取るようにわかったのだろう紫子はどこか沈んだ微笑みを浮かべた。

「こんなこと言っては困惑されるでしょうね。桐子さんと山縣さまのように仲がいいのご兄妹がふつうなのでしょうから」

 それでも、と言葉を継ぐ。

「あの男は、その。あまりいい性質をもっていません。桐子さんを傷つけるかもしれない。それが私は恐ろしい」

 あの透明な眼差しをもつあの人が、そこまで悪しざまになぜ言われるのかわからず。しかし紫子のあまりに必死な面持ちに桐子は知らずにうなずいていた。


 それでも、彼のひとの影は消えずに残っていた。


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