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『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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二つの鬼の横顔 *奏嘉

「……どうしたら良いか、…分からなくて」



青年から、僅かに掠れた声が漏れる。


酷い不安感を拭うように、青年は紫子のか細い身体を軋むほどに抱き締めた。




「父は、私を…将臣としての生を与えてくれた。…生かして、くれたのに」





それは、何の対価も犠牲も無く与えられた大きすぎるものだった。

この容姿を批難する者すら現れない、確立された武家の旧家であり華族の長男という立場。


あまりに生きやすい環境下で、優しい義母や義弟にも恵まれ、『将臣』であるが故に得たであろうその幸せの数々。


例えば彼女に出会えたことだって、『東郷将臣』でなければあり得なかった事なのだ。




「この名が無ければ、私はきっと貴女にだって出会えなかった」




アロイスであった頃は、この眼に映る人々の表情は皆、必ずと言って良いほどに嫌悪や畏怖の表情へと歪んでいった。



そんな蔑みの眼差しすら簡単に無くしてしまうほどのものを、父は妾の子である自分に躊躇なく与えてくれたのだ。





「私は父に、本当に感謝しているんです」




その言葉に、少女は顔を上げ目を見開く。



どうして、と、消え入りそうな声を漏らせば、青年は僅かに微笑み目を伏せた。




「弥生さんにも、……勿論伊織や、将臣にだって………この恩を返すには、将臣がしなければいけなかったであろう事を、代わりにこなすことでしか返せないと思っています」




思い返したせいか生々しく未だ脳裏に響くのは、自分の全てをあっさりと否定した人々の声ばかりだった。




『醜悪な鬼の子、貴様さえいなければ』



祖父の声は、低く重い。

それが正しいことなのだと、容易く相手に分からせてしまう、全てが武士のような曲がりなき本心だけで吐き出される言葉だ。


だからこそ純粋なまでに研ぎ澄まされ、自身へと向けられたあの真っ直ぐな殺意。


あれこそが、本当の自分に対する皆の反応、思考なのだと、本当に青年は思っていた。そして、納得をしていた。




雑踏のなか聞こえる噂話だって、見知らぬ人々からのささやかな殺意が入り交じっている。



『この国を食い潰す鬼』



『あんなもの達が、この国を汚すのだ』




その点あの白壁に鉄格子の座敷牢は、そんな雑音すら簡単には通さなかった。

今思えば本当は、あれは居心地の良い空間だったのかもしれない。


座敷牢の中は、醜い自分の姿と本しかなかった。

責めるものも、自分しかいない。





そうして刷り込まれていった、自分に向けられた純粋な殺意。



それについて一切の疑問だって抱かない。


それを否定してくれるひとも――――否定されることも。想像など、したことがなかった。





分かっていた。

分かっていた、つもりでいたのだ。



――――『アロイス』を、殺せば。




例えば、正式な嫡男という立場の将臣が東郷を継げる。


例えば、伊織は家督を放棄して、唯一の生き甲斐である本を書き続けることができる。


例えば弥生に、『妾の子が出し抜き家督を継いだ』等という醜い噂を立てられることはない。




(ほら、)




全てが、驚くほどに上手く行く。

そしてその事実に、誰もが疑問など抱く筈もないのだ。





――――それが、東郷家の公式な御家事情となるのだから。




その明るく鮮やかすぎた結果からも、祖父のあの純粋なまでの殺意は青年の人格を意図も簡単に殺してしまったのかもしれない。



「私は、今でも幸せな筈なんです」



少女は、必死に首を振る。


上手く言葉が見つからないのが歯痒くて、涙ばかり溢れるのが情けなくて。


ただただ、少女は「違う」と嗚咽を漏らした。




「この表向きな顔を捨ててまで、……将臣を本当に、捨ててまで……皆を不幸にしてまで、俺は俺として生きようとは思えない」



青年は、苦しげにそう吐き出すと、自身を落ち着かせるようにへらりと笑ってみせた。




それなのにどうして、こんなにも狂ってしまったのだろうか。




今でこそ、彼女の前では自分自信でいたいと思うのに、外では将臣でいなければと自分を偽る。




好きでやっていた筈のその不安定さに、今や押し潰されそうだった。


それでもその壁から自分を殺すことで今まで逃げ回ってきたのだから、向き直る勇気や苦痛に堪えようとするのはやはり彼女の存在のおかげなのだろうと思う。




「此れは甘えなんだ。……臆病だから、自分を殺すことでその心の安定を保っていた」



どうしたら良いのか分からないと、青年は繰り返した。



いつの間にか、普段の口調ですら無くなってしまった彼に、少女は、もしかしたらこれが本当の彼なのではと気付く。




「……アロイス、さま」




かつて彼の命を救ったのは、紛れもなく両親の力なのだろう。



彼を産み、無償の愛で愛し抜いた母。

祖父の凶刃から、周囲の批難から。形では守りきった父。



それでも両者の優しさは、全く違うものなのだ。



少なくとも父は、同時に彼へと重い枷をつけ、宙吊りにしたのだから。



母の行動とは違い、自己満足な部分さえ感じるそれに、紫子は純粋に疑問を抱いた。



もっと、他に何かあったのではないか。



例えば、彼を祖国へ帰す事だって、出来たのではないだろうか?



なぜ態々、彼を殺す必要があったのかと、怒りにも似た感情がチリチリと胸の奥、燻り始めていた。

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