傷をも抉るその業火 *奏嘉
思いの外大分時間が経ってしまっていたのか人の波が去ったらしく、いつの間にか店にあるのは紫子と薫の姿だけとなっていた。
りんが食器を洗っているのだろう、水の音などが微かに聞こえる。
その静かな空気に何故か落ち着かなくなり、紫子の手も少し早くなる。
「……………ふぅ」
不意に隣でぜんざいを食べていた薫の手が止まり、匙が食器の縁に置かれカチャンと音を鳴らした。
タイミングよく顔を出したりんに向き直ると、薫が先に口を開く。
「ご馳走さまでした、おりんさん。こんなに美味しいものは初めてでした」
薫はぺろりとぜんざいをたいあげ、心からの笑顔なのだろう人懐っこい微笑みを浮かべ丁寧に両手を合わせた。
「こんな細っこいのに案外大喰らいそうだねぇ」
その食べっぷりを気に入ったのか、りんも満足げに笑って見せる。
紫子は相反してどこかぎこちないながらも微笑みを浮かべ、先程託された手紙を懐へとそっと忍ばせた。
その様子を見れば、少女は紫子の片手を両手で握り花のように微笑む。
「主に感謝しなくては。とても良いご縁をくださいました」
薫は紫子とりんに店の名刺を渡し、「またお会いしたいです」と躊躇なく二人の手を握った。
「またお邪魔させてください、おりんさん。紫子さんとも、もっともっとお話ししたいです」
その素直な口振りやころころと変わる表情がおかしいのか、りんはとうとうおかしいと腹を抱える。
一度だけ頭を下げると、薫は再び帝都へと小走りに身を翻した。
紫子はその後ろ姿を眺めながら、胸元に収まっている手紙へと手を当てる。
(………別人としてしか、居られないなんて)
この国に、ひとつとして彼の名は無いのだ。
たった一人の父である存在にも、悪く言えば言葉だけの力で簡単にその存在を消され、共に生きていたかもしれない肉親にも、非情な真実を伝えなくてはいけないというのだ。
(私は、どうしたら)
無力さや歯痒さに、少女は唇を噛む。
(彼の傷は、深すぎる)
それは、自覚していないところまで到達してしまっているのだろう。
――――怖いと、少女は思った。
このままでは、彼はきっと壊れてしまう。
あの素直な表情を、言葉を。
『もし自分として、生きられたら』
―――――また、殺してしまうのかもしれない。
それがひどく悲しくて、切なくて、不安で。
ただただ、恐ろしかった。
******
――――帝都に在る為か、薫の勤めるその呑み屋にはよく華族や軍人に仕える者達が足を運んでいる。
交わされる会話は呑み
屋のものであるが故に勿論卑しいものもあったが、その多くがが華族や軍人に関する噂話だった。
何年もお子が出来ないからどうとか、新しく奥方様の悪癖がどうとか、どの家が誰に潰されたとか、殆んどが下世話なものばかりで、決して耳障りの良いものではない。
その中である日、「東郷家」の噂というのがあった。
『もう十何年も昔のことだが、今は病床の先代には異人の妾が居たとか』
何の根拠があってかも分からないようなそのまた下世話な噂に、薫は静かに耳を傾けた。
異人、妾等という言葉に厭に胸に引っ掛かるものを感じて、薫は息を飲む。
『嗚呼それで、その間にも子供が出来てしまったらしいんだが、幼い頃に病気で死んじまったんだと』
男は酔っているのか、まるで笑い話のようにそれを口にし、酒で喉を潤すと直ぐに違う話題へと写った。
初めて兄と母の痕跡を追えるきっかけを掴めたかも知れないと舞い上がった心が安堵したような、落胆したような虚しさに満たされ、薫はひとつ深い溜め息を吐いたのを覚えている。
そして幾月かを経たあの夜、山縣と名乗る青年将校に出会った。
彼は、どうやら貿易を生業とする家の生まれらしい。
不可抗力とはいえあのような仕打ちをしてしまったにも関わらず、自分の兄と母を共に探してくれるという。
薫は、初めて彼が客として店を訪れた際に連れ立っていた、青年将校の姿がどうしても忘れられなかった。
――――母によく似た、祖国でも珍しい硝子玉のような青灰色の瞳。
それでも兄の髪は銀に近いような髪色であると聞いていた為に、彼の髪の色は全く違うのだが、「この国では染めることも可能だというのなら」とまで考え期待を持った。
それまでに少女は、彼の軍人に直感的な何かを感じたのだ。
それにあの噂にあった、同じ『東郷』という姓。
――――確かめなければ、納得など出来る筈がないと思った。
手紙に素直に従い神社にて待ち合わせれば、突然の少女からの頼みに男は暫し目を丸くした。
男は困ったように乱雑に自らの後頭部を片手でわしわしと掻く。
「まぁ確かに、俺も似てるなと思ったから連れてきたんだが…」
けれどそれは、生粋なこの国の人間からすればよくあることなのではないか、と男は思った。
異国の人々の見分けなど、軍人であるが故に一般人よりは接触があるとはいえ殆んど見分けがつかないかもしれないのだ。
「この国には異人さんが少ないから、久々の目の色に懐かしくなったんじゃないか」
実妹に「デリカシィ」云々を言われそうな言葉にも反応せず、少女は直ぐに否定をするようにその首を振る。
「いいえ、異人だからこそ、その違いが分かるのですよ」
しかしそんなことを言われても、これまでつるんできた中であの友人の身の上に、おかしな点など何もなかったのだ。
それ故に、一度として疑うことなどしたことがなかった。
否、そんな重大な事を友人であろうとそう易々と打ち明けられるようなことでは無いからかもしれないが。
閉鎖的なこの国では、尚更の事だと納得する。
(何年、つるんできたよ)
男はひとつ深い溜め息を吐くと、腕を組み考え込むように首を捻った。
(……………寂しいもんだな)
少女は、曇っていく男の顔色を気にしてかその形の良い眉を下げるが、必死に言葉を続ける。
「お願いします、山縣さん。どうかもう一度、その事をお訊ねしたいのです」
年端もいかぬ少女などに、とうとう頭を下げられてしまえば、断ることなどこの男にできる筈もなく。
考え込む間も無く、男は慌てて少女を制止をした。
「分かった、…どうなるかは分からないが、努力はするからな」
だから頼むから頭を上げてくれ、と山縣は情けなく笑ってみせた。
******
それから友人へとその頼みを口にしたのは、三日も経っていなかったように思う。
堪え性がないというのも考えものだとは常々自分でも思うのだが、早く済まさねばすっきりしない性分なのでやはり仕方ないといつものように自分を納得させた。
友人は珍しく表情を曇らせたあと、山縣へと被せるように『頼みがある』と告げた。
それはその表情には反して、ただ『帰り、東郷の屋敷へと寄って欲しい』というだけのことだった。
それが何を示すのかは想像などできる筈もなく、しかし分からないままでいる事を楽だと享受できるほど男はドライではない。
何せ、悪友であり親友である友人の影の片鱗を、知れるかもしれないのだから。
それを全て背負ってやるような立場ではないかもしれないが、幸せにはしてやりたいと(語弊を生みかねないが)、いつも思っていた。
男は、躊躇いなくその頼みを飲んだ。
******
そうして連れられてきたのは、東郷の屋敷の奥、見たこともないような別棟を過ぎ、現れた大きなひとつの八重桜の木の前だった。
「八重桜か?」
花に疎い男であっても、これくらいは分かると山縣は問い掛けながら首を傾げる。
その言葉に答えるように頷く友人を横目に見ながら、葉の落ちかけた八重桜の木を男は見上げた。
「薫さんと、言ったか」
友人から呟かれた声は、風に揺れる葉が擦れる音に僅かに紛れる。
顔を上げれば、彼の友人はその冷たい声音に反して、柔らかな微笑を浮かべていた。
「教えて上げてくれ。これが、君の兄の墓であると」
友人の言葉がさも他愛のないような音で響き、男は目を丸くする。
「君の兄は十数年前に病で死んでしまったと伝えてくれないか」
精巧なその微笑みは余りに色を無くしていて、男は飲み込まれるようにぐっと息を詰めた。
***
悪魔と違い、被虐的に自分を削いでいく鬼




