掻き消すように、手繰り寄せた傷 *奏嘉
それはいつか、誰かと交わした他愛ない会話のひとつだった様な気がする。
―――『西洋には、血を欲する鬼が居るのだとか』
獣のような牙で美女の白い首筋に噛みつき肌を裂いて、その身に宿した甘美な血を啜るのだという。
おぞましい正体に反して、その姿はひとつ言葉を囁くだけで簡単に女性を魅了してしまう程に美しいものであるそうだ。
そして食事を終えた後、血を飲まれたその女性は強制的にその鬼の隷族にされてしまうらしい。
そんな雑学じみた話を聞きながら、グラスに注がれテーブルにいくつも並んだ深紅の液体を視界にいれては、男はまるで血液の様だと思った。
美しい人を、掠め取っていく悪魔。
『異人』の、鬼。
――――――――まるであの男の様だと、男は思った。
これまでの幸福を、輝かんばかりの夢を。
甘美たる全てを、奪い去っていったのは、あの鬼だ。
あの、黄金色の髪を持つ男。
――――――――青い瞳の、鬼。
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暫くして紫子がお礼を言いつつ将臣へと上着を返せば、将臣は慣れた様子で袖を通しボタンを留めた。
どれだけ外にいたのか大分酔いも冷めた様で、紫子は一つ息を吐くとすっと背筋を伸ばす。
青年も先程それなりにアルコールを摂ったせいか、不意に喉の渇きを感じた。
「飲み物を取ってきます、アルコールでは無い物を持って来ますからご安心を」
悪戯っぽく笑いそっと囁いた青年に、少しだけ頬を膨らますと紫子はぷいっとそっぽを向いてしまう。
バルコニーの手摺りへと腕を置いた少女は、どうやらそのまま庭の秋風に揺らぐイングリッシュ・ローズを眺めているようだった。
そんな小さな背中すら愛らしく感じ破顔した様に笑えば、青年は音楽の止まったホールへと歩を進めた。
六鳴館の舞踏会は基本、異国の様式を神経質な程に真似たものが定番であったから、確かアルコールの他にもレモネードなどというものもあったような気がする。
青年は目的の物を探すために一つ一つのテーブルをゆっくりとした足取りで巡った。
その度に時折人に話しかけられ、失礼ではない程度に適当に受け答えをしながらやっとレモネードを見つけると、それと共に隣にあった深紅のワインを一つ手に取り青年はバルコニーへと視線を向ける。
「………?」
するりと、ひとつ白い影がバルコニーへと滑る様に外に出ていった姿が見えた。
扉の縁、一瞬見えたのは、何処かで目にしたアイボリーの燕尾であった様な気がし何故だか胸がざわついた。
(あれは、確か)
早足に、少し離れてしまったバルコニーへと向かった。
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「……れ、…が……」
――――ぶつぶつと呟かれる言葉が、酷く気味が悪い。
追いつめられた少女は、悔しげに表情を歪めた。
否、突然無音で真後ろに佇んでいた男になど気付ける筈も無い。
振り返った時には2、3歩程しか離れておらず、逃げることなど到底できなかったのだ。
少女へと引きずるようなゆらゆらとした不自然な足取りで詰め寄るのは、かつて父であった男―――――――――逢崎子爵、その人だった。
「…、が…お前、くらいは」
ぼそりと呟かれ続けた言葉が、次第にはっきりとしたものへと変わっていく。
「私の思い通りに、動かしてみせる」
その言葉に少女は目を見開いた後、ぎりっと唇を噛んだ。
飴色の瞳には、憎悪の色が恐ろしい程に鮮やかに浮かんでいる。
自身の敬愛する母すらも、道具であったと言わんばかりの言葉である。
――――――――それもこんな、浅ましい男になど
そんな侮辱を許せる筈も無く、少女が思い切り啖呵を切ってやろうとしたその時だった。
「この……っ!」
少女から発せられたその声に、男の表情が、突如冷たいものへと変化した。
そしてあろうことか男は、その手に握られていたステッキを突然躊躇無く思い切り少女へと振り上げた。
「物分かりの悪い飼い犬には躾が必要だろう」
少女の答えを待たず、風を切り振り下ろされたそれに、ぎゅっと瞳を閉じる。
「っ!!」
――――――――何故か、近くでグラスの割れる音が響いた。




