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『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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アイリスの花言葉 *矢玉

自分から、好ましい人を手放すような事を、と思わないでもない。




 考え込んだように言葉少なだった彼女の様子を思い出す。

 気遣いがかえって彼女を困らせたようで苦笑しかもれない。

 しかし、人形のように振る舞う彼女の姿は、見たくないのだ。


 ふと座席のクッションの合間へと手を伸ばす。するりと現れたのは、淡い桜色をした柔らかな布地。

 確か婦女子の衣装でストールとかいったか。

 透けるほど薄い布地の端に、細い糸のレェスがこぼれるように揺れていた。


 ――――――まるで天人の羽衣のような。


 柄でもないメルヘンチックな考えに苦笑する。

 古物語を踏襲しこれを返せば、彼女は自由になり己の手から離れてしまうのだろうか。

 らちもない夢想を振り払い、御者に逢崎邸へ引き返すよう告げた。


※※※


 紫子は一人東屋にいた。

 どうしても部屋に戻る気がしなかったのだ。庭の隅にある東屋は、西洋風の白大理石でできており、ひやりと冷たい。結った髪を、長い振袖の先を風が揺らしていく。

 本を受け取った後の事はよく覚えていなかった。

 なぜ・・・・・・なぜ自分のような女に優しくするのだろう。


 優しくされれば、かえって辛くなるというのに。


 折角圧し殺した感情が波立たされるようで、ふいに泣きたくなった。

 人形でいいのだ。

 人扱いなど、今さらされたいと思わない。

 自分はその覚悟で“逢崎紫子”になったのに。


 この手紙を父へと渡せば、あの男は狂喜し自分を夜会へと送り込むだろう。そうすれば東郷伯爵に固執することなく、彼との縁はここで切れる。

 自分は次こそ、人形のような令嬢を求める相手と婚姻を結べばいい。




 だが、紫子は赦せなかった。





 あの青年将校の好意に胡座をかき、思いを踏み台にするような真似は“紫子”の矜持が赦さない。

 誠意には誠意をもって。義には義をもって。

 自分はそう、育てられたのだ。


 はやり、これは返そう。

 最後にもう一度だけ、と。紫子はそっと美しいカードを手に取る。

 そしてカードの挟まれていたページに描かれていた挿絵に、薄く微笑んだ。


 『Iris』


 書かれた異国の文字を読むことは出来ないが、この紫の花は自分に馴染み深い花だ。

 そういえば異国では、この花にはこんな逸話があると昔、客に聞いた話が蘇る。

 ある女神に仕えていた侍女は、女神の夫に見初められ、求婚されるものの女神への忠誠を貫き夫である大神を拒む。その誠実さの証としてこの花は生まれたのだ、と。


 誠実――――――それが、あの青年将校へと己が返せる唯一のものだろう。

 陽に透かせば、凹凸が透かし彫りのように模様が浮かび上がる真白のカード。それがすっと手のひらから抜き取られた。

 びくりと身を震わせると、逆光の中、相手はにやりと笑った。

「へぇ、やるじゃないか。あの軍人がそれを寄越したのか」

「・・・・・・お、兄様」

 一度顔を合わせたきりの“兄”がそこに立っていた。

 にやにやと笑う兄として紹介された、この男が、紫子はどうも好きになれなかった。

 軽薄で、常に薄ら笑いを浮かべるこの男を。

「お返しください。お兄様。それは、あの方にお返しするものです」

「はぁ? 何を言ってるんだお前は。手柄じゃないか。父上も、さぞ喜ぶだろ? 六鳴館の夜会の招待状だぞ?」

 肩をすくめ、もてあそぶようにカードを降る。ひらひらと蝶のように風に舞うそれを、紫子はひたと睨みつけた。

「どんな手練手管を披露したのかしらないが、女給なんて女郎と変らないだろう。これでお前も晴れてご令嬢とならせられるのか。どうだ、気分は」

 だいたい――――――歪む口元、歪んだ貌、すべてを傷つけいたぶるような歪んだ男。

「お前、本当にあの男の血を引いてるのか?」

 紫子のこわばった顔を見て、ますます男は嬉しそうに毒を紡ぐ。

「知ってるぜ。父上が若い頃囲ってた女中上がりの妾。その女が産んだのが赤毛の娘。異人の相手でもして産んだのだろうと父上は不貞に激怒。そのまま追い出したって」

 血の気の下がった白い頬を、カードの角でなぞる。

「どうせ士族なんぞと言っても借金のかたに売られたようなものだろう、そんな女――――――」

 爪が、当たったのだろうか。男の頬は少しばかり血がにじんでいた。

 男の頬を張った手を胸に握り締め、息を整えながら紫子は口を開く。怒気で語尾が震えそうになるのがいっそ厭わしい。

「私のことは、何とでも。でも母や、一族のことに関しては、そのように言われる覚えはありません」

 虚を疲れたように頬に手を当てていた男は、ふいに笑った。その歪んだ嗤いの不穏を紫子が察する前に、胸倉を捕まれ引き寄せられる。

 くちづけするような距離で、男はうっそりと囁いた。

「妾の子風情が。女だから殴られないとでも思ったか?残念。顔以外ならどこ殴ったって誰も騒ぎはしないんだよ」

 歪んだ顔で笑う同い年の兄、もしくは弟。紫子は奥歯をかんで痛みに耐えようとした。

 ――――――ふいに襲ったのは、肩を抱かれた感触。それも一瞬にして消え、大きな音と肉を打つ鈍い響き。

 仰向けになり、転がる兄。そして自分を守るように半身前に佇むのは――――――


「東郷、さま」


 先ほど別れた青年将校が柳眉をひそめ、厳しい面持ちでそこに立っていた。

「女性に暴力を振るうとは、最悪だな君は」

「そうですか?民間人をいきなり殴りつける軍人よりましだと思いますけれど」

 膝をつき立ち上がった兄は、平気そうな口調で続けたが、身体の方はそうでもないようだ。膝の震えをごまかし、やっと立っているそんな有様でも口だけはぺらぺらとよく回る。

「これは家族の問題です。妹が歯向かえば、手を上げてでも諭すのが兄の義務でしょう?そもそもそいつは、いままで躾という躾も受けてこなかったのだから、なぁ?」

 にやにやした笑みを紫子へと向けるのに、瞬間的に血が上がる。思わず胸倉をつかもうとしたその手を先に掴むものがいた。

「これ以上は、ご勘弁を。東郷伯爵様」

 黒いお着せに身を包んだ少年が、いつの間にかそこに現われていた。

「わたくしは坊ちゃんの従者を務める者です。総一郎様にはわたしからしっかり言って聞かせますのでこれ以上はご容赦ください」

 でなければ、とちらりと寄越した視線の先には、呆然と佇む少女の姿が。

「紫子様のお立場が、悪くなります」

 息を呑んだ将臣と紫子をその場に残し、少年は兄を担ぐように助け起すとそのまま屋敷の方へと消えていった。




 気まずい沈黙が流れる。いや、気まずいと思ったのは、将臣の方だけだったのだろうか。

「東郷さま。これを、お返しいたします」

 すっと少女の手から差し出されたのは、先ほど送った異国の図鑑。そしてその間には白い封筒が。

「茶番はやめましょう。東郷さま。お聞きになったでしょう、私は、貴方に嫁げるようなものではないのです」

 きっぱりと、これまで見た中で一番晴れやかな笑みを見せ、紫子は言った。

「わたくしは妾の子。死んだ異母姉の身代わりに仕立て上げられた、間に合わせの子爵令嬢なのです」

「妾腹だから、自分の元へは嫁げないと?」

 ええ、とそう顔を伏せ、翳る瞳。ふいに、将臣は微笑んだ。

「こう言ったら、あなたは驚かれますか?私の母も、妾なのですよ」

 驚きに見開かれた飴色の瞳に光が差し、鼈甲のように光るのを将臣は静かに微笑んで見つめた。


***


◆アイリスの本当の花言葉は『愛のメッセージ』『伝言』『変化』などです。作中のは紫子がギリシャ神話を聞いたイメージということで 

◆「六鳴館」は「鹿鳴館」をもじってます。パロっぽさを出すためにわざと感じを変えました。学生諸君は漢字間違えないでね!

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