消えない面影と色 ◆奏嘉
「何故、誰も非難しないのだ…」
少女の背が次第に遠くなっていくその時、不意に男から漏れたのは、そんな言葉だった。
―――かつて、ただ愛しかった娘に似た面影。
一瞬にして何処からともなく現れた異人などに奪われた、愛しい娘。
きっと、夢物語のように、運命であったと錯覚さえした彼の人。
あの日々交わした甘い睦言でさえ、夢であったと。
覚醒させるほどに鮮明な、紅い髪の娘。
――――男は、絶望したのだ。
せめて生まれてくる彼女の姿が、自身に欠片でも似ていたらと、願ったのに。
産まれてきたのは、自身が生まれてこのかた見たこともないような、鮮やかな紅い髪の赤子だった。
(嗚呼、そうか)
―――――男は、理解した。
私が、愚かであったのだ。
自嘲するように、笑いが込み上げてくる。
『捨ててしまえ』
私の子ではない。
逢崎の血など、一滴も流れていない。
―――――穢らわしい、異人の子。
いとも簡単に憎悪の対象へと変わった愛しい君も、早く何処かへとやってしまいたかった。
それは、きっと人間らしい感情であった筈だった。
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そして、旧友からの紹介を経てあの青年将校に出会う。
溺愛していた娘を嫁がせるつもりで承けた縁談。
名高い旧家の、伯爵家の長男。
しかも、飛ぶ鳥をも落とす勢いの名声と地位。
全てが上手くいくと、男は高揚感に満たされていた。
それ、なのに。
―――――絶望した。
(このままでは)
縁談も、逢崎家の未来も、全てが水泡に帰す。
しかしその絶望の海のなか、男はあの憎々しい紅を思い出した。
使い道すら無かった憎いかの娘を、漸く綺麗に消せるかもしれない。
名家の箱の中に閉じ込められ、きっと飼われたように大人しくになるに違いない。
それも、それによって自分にとって喉から手が出るほどに欲するものを与えてくれるのだ。
「…………は、」
漏れたのは、どす黒い感情の淵、溢れだした高らかな笑い声。
神は、この哀れな男に味方した筈だった。
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女給へと身を落としていた娘は、少し脅しただけで簡単に手に入れる事ができた。
勿論情けとばかりに条件も与えてやったが、追い詰めるように、ひとつだけ余計な言葉を添えてやったのだ。
「また母を殺すのか?」
その一言だけで、凛としていた少女の表情が、みるみる強張っていく。
その苦痛に堪えるような表情や姿は、男の歪んだ感情を優越感として満たしていった。
(嗚呼、全てが上手くいく)
今度こそはと、男は安堵した。
しかしその青年将校を知れば知る程に、何故か今までに感じたことがないほどの、堪えがたい恥辱の数々を受けた。
詩人らしく繊細で誇りだけは高いこの男。
憎しみは、勿論かの青年将校へと向けられていた。
「あれほど、醜い姿で在りながら」
握られた拳は、血の滲むほどに白く変色し、男を駆り立てていく。
「何故純潔たる私が、辱しめを受ける」
男の視線の先、高貴な人々に囲まれ穏やかに微笑んで見せる高潔たる青年。
「悪魔に違いないというのに」
男の声は、不自然なほどに静かに溢れた。
その姿が、ただただ憎らしかった。