耳障りのよい声と残り香 *奏嘉
彼女の身体は、簡単にその腕に納まってしまうほどに小さかったが、青年にとってそれはただただ嬉しいことに違い無かった。
愛しいその娘の全てをその腕で感じているような充実感が、一時とはいえその青年を満たしていた。
古傷の不可解な疼きも、安堵感に僅かに和らいで、ひとつ息を吐く。
「紫子さん」
不意に名を呼ばれれば、少女は顔を上げるも間髪入れず落ちた雷に声を上げてしまう。
それを恥ずかしく思っているのか少女のその赤くなる頬を見れば、愛らしくて笑みが零れた。
彼女の額へと青年は再び唇を寄せる。
ふと、かつて母の歌ってくれた子守唄を思い出しなんとなしに口ずさめば、少女は涙目のまま顔を上げた。
異国の言葉ではありながらそれは聴いたことのあるフレーズで、少女は思い当たったように唇を開く。
「…野ばら…」
「…、そんな題名なんですか?」
青年は歌うのを止めるとその曲の題名すら知らなかったのか小さく笑い首を傾げた。
「昔、歌ってもらったんです」
誰にとはわざわざ青年が言うことはなかったが、少女には簡単に分かる為に切なくなりその胸元へと頬を寄せる。
その様子が愛しくて、青年はいっそうその小さな身体を抱き締めると優しく頭を撫でた。
次第に雷の轟音が遠くなり、それに気付いてか気付かずか、少女の言葉や動きは少なくなっていく。
直ぐ傍で聞こえる鼓動の音や囁くような歌声に、少女の意識はうつろいでいった。
*****
暫くして青年が歌い終えると、腕の中の少女は涙の痕を残したまますぅすぅと小さな寝息を立てていた。
涙の痕に唇を寄せたあと、座ったままでは少女が身体を痛めると思いとりあえず姫抱きに抱き上げるも布団を敷いていない部屋を見渡し考え込む。
思い立ったように自室へと向かえば、敷いたままの布団にそっと彼女を横たえ掛け布団を掛けた。
「おやすみなさい」
優しく頭を撫でれば、青年は数冊の本を持ち廊下へと出る。
雨の匂いを感じすん、と鼻を鳴らしては雨も大分弱くなったのか耳障りだった雨音も殆んど止み、大きな満月が顔を出していた。
幸い、明日は非番の為このまま起きていようと座布団の上に胡座を掻く。
病院の一件でも明代に叱られてしまった彼女を思えば、添い寝などどんな理由があろうと言語道断だろう。
(同じ部屋に居ない分には大丈夫だろうか)
一人で納得すれば、青年は本のひとつを手に取る。
風呂上がりに彼女が巻いてくれたままの手の包帯に目が行き、解けないよう気にかけながら月明かりを頼りに頁を捲った。
******
何れだけ読書に耽っていたのか、辺りはいつの間にか白みが掛かり大分明るくなっていた。
青年は本を閉じると、背筋をぐっと伸ばし大きく息を吐く。
次第にとたとたと身軽な足音や物音が聞こえ始め、どうやら侍女達が活動を始めたようだった。
(何と言おうか…)
自分の部屋で眠ったままの少女は、物音がしないあたり未だ起きそうに無かった。
「若様?」
自分を起こしに来た侍女の声に顔を上げると、青年は苦笑を浮かべる。
「あら、寝られなかったんですか?」
「ああ、昨日昼寝してしまったからかな」
自分の事はどうとでも適当に誤魔化すことが出来るが、現状についてはもう口止めするしかないと思いそっと耳打ちをすれば、侍女は快く黙っておくことを約束してくれた。
「後少ししたら起こして上げてくれ」
先に顔を洗いに行こうと青年はその場を後にした。