煩わしい声、無知な棘 *奏嘉
珍しく午後から非番を貰い、青年は軽い足取りで軍部の門を潜った。
昼から突然暇になるというのは、いつもなら生真面目なこの青年にとっては迷惑な話でしかなかったが、ふと彼女がピアノの教室を開くと弥生が嬉しそうに語っていたのを思い出してはあの窮屈な屋敷で少しくらいは拝聴できないかと期待する。
(祖国の歌でも、紫子さんに歌ってもらおうか)
彼女の小鳥の様な愛らしい声は、くすぐったさを感じさせながらも心を穏やかにする。
その指から弾かれる音楽と歌声は、きっと自分にとって想像も出来ない程美しいのだろうと青年は思う。
――――不意に、門を潜った視界の縁に見慣れない小さな影を見た気がして、青年は振り返る。
門の横に生えた松の影、其処に背を丸くしながら座って居たのは、小さな少年だった。
あまりに似付かないその姿に不思議に思い将臣が歩み寄れば、少年はびくりとその小さな身体を跳ねさせる。
「君、そんなところで何を?」
問いかけたその声さえ、何故だか彼を怯えさせるようで、青年は申し訳なくなった。
困ったように苦笑すれば、少年の前に屈みこみ弁明するように再び青年は唇を開く。
青灰色の瞳が、少年の姿を水鏡の様に映した。
「責める気は無いんだ。もし何か用が在るのなら手伝おうと――――」
「ひ……っ、うわああああ!!!!」
その言葉を聞いたか聞かずか、少年は情けない叫び声を上げ逃げるように走り去ってしまった。
(やはり、怖いか…)
これが初めてではない為に、ひとつ溜め息を吐く。
その小さな背を見送り暫く呆然とした後、ふといつかの声が耳の奥響いた。
じくり、
酷い疼きを掻き消す様に、青年はその傷へと深く爪を立てた。
『忌々しい鬼の子』
『貴様さえいなければ東郷は』
それは、耳障りな怒号と甲高い女の叫びに近い罵倒。
『お前さえ、いなければ』
――――――――自嘲気味に笑っては、青年は立ち上がり待たせている馬車へと足早に向かった。
振り払おうと思うのに、その声は自分を追うようについて回る。
女々しいと自覚しながらも、いち早く彼女に会いたいと思った。
『お前さえいなければ、あの女も死ぬ羽目にはならなかったろうに』
それはいつか、自分を殺した祖父の罵声の一つだった様な気がする。
その一閃を受けながら、――――その通りだと、青年は思った。
この国で過ごす中で、母が祖国から持参した病状を遅らせる薬はとうの昔に切れてしまっていたことを少年は知っていた。
自分をどうにか父に会わせてやりたいとさえ思わなければ、母は祖国にて適切な処置が受けられ、生き残った筈だったのだ。
生き残る道を断たれた母。
それも、自分の為になどと。
生きる道があったと、それを後に知ったのは、あの何もない座敷牢でいつものように本を読んでいた時のこと。
父に渡された本の一つに、祖国の医療に関する本があった。
父はきっと、祖国の言葉を知らないのだろうが、気を利かせてくれたのか幾つか祖国の言葉で記された本が混じっていたことがあった。
どうやらかの国は、医療の先進国だったらしい。
その本には、この国では未だ知られてもいないだろう新しい治療法がごまんと載っていた。
殆んどが医療に関する専門用語ばかりで子供であった自分には到底分からなかったが、病名くらいは解った。
――――興味本意で、結核についての記述を探した。
父曰く、彼女は心身ともにぼろぼろな状態でありながらも無理矢理に周りの反対を押し切り国を出たのだという。
処置のための医療費も旅費もこの国に来るだけの為に消え、彼女は医療技術の乏しいこの国から出る事さえ許されず死んでいった。
父が祖父の目を盗んで用意した祖国へと帰るための資金は、本妻である弥生に悪いと断ったらしい。
青年は、知っていた。
『彼女は、自分のせいで死んだのだ』
逃げても良いのだろうか。――――あの愛しい少女に、例えばこれを話すのは甘えだろう。
青年は目を閉じると、一つ息を吐いた。
(こんなこと、ばかり)
自己嫌悪に、いつしか煩わしさを感じるようになった。
今まではそれで自分を殺してきたのだから、今となっては邪魔でしかないのだ。
辛いと思ったことは、一度も無かった筈なのに。
******
山縣は、その日おかしなほどに上機嫌だった。
この間の埋め合わせにと呑みに誘えば、最近気になる店があるのだという。
彼に連れられて訪れたその店は、昔では考えられないであろうが、帝都の中心部に近い場所にあった。
藍色の暖簾を潜れば、上品な店内と美しい女給たちが映り、青年は首を傾げた。
普段ならもっと呑み屋らしい呑み屋を好む男だと思っていた為に、この選択は予想外だった。
お前らしくないと呟けば男はいっそう笑って見せた。
「会わせたい子が居んだよ。………よぉ、薫ちゃんいる?」
その口振りに常連なのかと問えば、初めてだと言葉を返され訝しげに青年は顔をしかめる。
「はーい。……あら、山縣さん」
名を呼ばれてか二人のもとへと駆けてきたのは、ブロンドの髪に青灰色の瞳を持つ少女。
その顔立ちに、将臣の息が詰まる。
どくんと音を立てて、心臓が止まったような気がした。
「この子だよこの子。お前にちょっと似てる気がしてな」
「初めまして、神無宮 薫と申します。山縣さんの御友人ですか?」
花のように微笑んで見せる少女に、はっと我に返り名乗れば、少女は東郷という苗字を繰り返した後、祖国での下の名前だけを名乗った。
「私は、此方の生まれでね」
咄嗟に青年が誤魔化せば、少女の瞳がじっと探るように見つめるので、苦笑する。
被せるようにメニューを聞けば、既に勝手に飲み始めている山縣へと続いた。