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『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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くちびるの、紅の痕

大きな殴打音に驚き、思わず断りもなしにドアをあけた先に広がる光景に紫子は思わず大きく叫んだ。

「何をなさっているのです!!」

 ぐったりソファを背に預ける将臣は意識をとばして、がっくりとその背に首を預けている。それと先程の殴打音を合わせて考えれば、この状況をもたらしたのが何であるかなど、どんな愚か者でもわかるだろう。

 きっ、と睨みつけてくる紫子に、硬い筋肉に覆われた腹部を全力で殴ったせいで赤くなった右手をひらひらさせながら、山縣はひょうひょうと言った。

「即席麻酔です」

「なぜそのようなことをッ」

「将臣に頼まれたんですよ。貴女を傷つけたくないから、とね」

 逆立てていた紫子の柳眉が、疑問で下がる。本気で意味がわかってないらしい少女に、山縣はおやと思い、ついで苦笑した。

 自己申告で花町にいたと聞いたのに、この少女はそういった方面にとんと知恵がまわらぬらしい。それとも自分の性や容貌の魅力に自覚がないのか。

 だが媚薬に煽られてこの少女を襲う、などという事態になったら将臣は自己嫌悪で立ち直れなくなるだろう。今は痺れ薬で動けないとはいえ、どちらの薬の効果が先にきれるかわからないのだ。もし痺れ薬のほうが先に切れ、将臣の理性が飛んだ場合に現役軍人に力で抵抗できる女性などいないだろう。

 紫子を傷つけたくないから、自分を昏倒させてくれと言ってきた友人にはとんと呆れで笑いしかうかばない。

 この二人は、相手を大事にするばかりで己をないがしろにし、それによって相手が傷つくというのが本気で理解できないらしい。どこか滑稽なほどずれたやりとりに不安は覚えるが、まぁおいおいどうにかなっていくのだろうと、根が楽観的な山縣などは考えている。

「おーい、二ノ宮ー、東郷を仮眠室に運ぶから手伝えー」

 直属の部下は、自分の上官がなぜか意識を飛ばしているのに仰天しながらも将臣を運ぶため近寄ってきた。

 同じ男とはいえ、自分より長身の男、しかも意識を完全に飛ばした相手を一人で運べるほどの腕力が自分にあるとは山縣は思っていない。

 将官用の仮眠室に青年を運び入れた後、再び自分を問い詰めようと近づいてきた紫子に向き直り、山縣は首をかしげた。

「珍しいですね、紫子さん。今日は口紅をさしているんですか?」

 その言葉にとびあがるように肩を揺らし、ついで勢いよく唇を手で擦り始めた紫子に、山縣はますます疑問の眼差しを投げかけた。

 紫子の飴色の瞳は、混乱でひどく揺れていた。


***


 将臣についているといった紫子に、まぁまぁ、などといいながらやんわりと。しかし強引に山縣に連れ出され、紫子は外食をする羽目になった。しかも真昼から仏料理のフルコォスを。

 仏料理は出てくるのにいちいち時間がかかるのだ。気が気ではない紫子は何度も席を立とうとしたのだが、山縣にやんわりとめられ、しかもまわりの客の眼が気になり結局、実行できなかった。

 仏料理の途中で席を起つのは、とても不躾な振る舞いとされている。そんな風に女学校で教わっていれば、東郷伯爵の婚約者として最近ますます人々に知られるようになってきた己の振る舞いすべてに気を使う。

 将臣に、弥生夫人や伊織のいる東郷家の評判を落とすことなどできないと、生真面目な紫子は思ってしまうのだ。

 挙句、山縣に妹の桐子の女学校の様子などを尋ねられれば、怒りを覚えていたはずなのについつい返答をしてしまう。

 仏料理のレストランを出ると、既に陽は西に傾きはじめていて、紫子は本気で仰天した。

 必死に軍部に戻りたい、東郷さまのご様子を知りたいと、重ねて言えば懐中時計を覗き込んだ山縣が

「まあ、あれから数時間たってるし、たぶん大丈夫でしょう」

 などと不思議な呟きをもらし、やっと馬車を軍の司令部へと向けてくれた。

 焦りで、はしたないと思いながらも甲高い草履の音を立て駆けるように仮眠室へと向かえば、枕元に座していた二ノ宮が敬礼で迎えてくれた。

「山縣少将、お疲れ様です」

「おう、東郷の様子は?」

「はッ、あの・・・・・・その、あのたぐいの熱もおさまりましたし、一度意識が戻られたときも、特に不調は覚えないとおっしゃられていたので、おそらく薬の効果は抜けているかと」

 ちらちらと、紫子に気を使いながら遠回しに媚薬の効果は抜けていると告げる下士官の頭を、山縣はくしゃりとまぜた。

「悪かったな、業務を途中で抜け出させて。もう戻ってくれていいぞ」

「はッ、失礼致しますッ」

 きびきびと頭を下げて立ち去る二ノ宮を見送り、紫子はまろぶように青年の枕元へと駆け寄った。

 額に手をかざし、熱が下がっていることを自分で確かめ、やっと安堵する。

「紫子さん。東郷はこの様子だし、今日は帰ったほうがいいんじゃ・・・・・・」

「山縣さま。わたしはこのまま東郷さまを看病したいと思います」

 今度こそ梃子でも動かない。と強い眼差しをむけてくる紫子にやれやれと山縣は首に手をやった。

「俺は一応止めましたからね。東郷が俺に文句言ってきたら紫子さんも弁解手伝ってくださいよ。あと、このドアは東郷の意識が戻って、あいつが正気とわかるまでしめちゃいけませんよ? ちょっとでもそいつの様子がおかしけりゃ、すぐに人を呼ぶこと。これだけは約束してください」

「はい。・・・・・・はい?」

「じゃなきゃ東郷どころか桐子にまで起こられちまう。約束してください、お願いしますから」

 ね、と続けられた言葉を、呑み込めないながらもうなずいた紫子の様子を見送り、山縣は立ち去った。

 紫子は先程まで二ノ宮が座っていた簡素な木の椅子を引き寄せ、腰掛ける。

 長い睫を伏せ、青灰の瞳を閉ざした青年は深い眠りについているようだ。秀でた白い面差しが、作り物めいた美しさでそこにある。

 そのビスクドォルめいた様子を眺め、そういえばこのように寝顔をみるのは始めてだと紫子はふと思った。

 白皙の容貌は、やはりこの人が異国の血を引いているのだと実感させる。紫子も肌の色は白い方だが、この青年も抜けるように色が白い。日本人よりすこしばかりほりの深い顔立ちは、やはり見慣れない者には近寄りがたく感じるのだろうか。そして少しだけその顔を哀しげにみせる、泣きぼくろ。

 枕元に水に浸した手ぬぐいがあるのを見つけ、紫子は手ぬぐいを持ち上げ固く絞る。そっと額に乗せ、紫子はそのまま、背筋をのばし陽が西に完全に傾き空が赤く染まるまでそうしていた。


***


 そっと青年の瞼がふるえ、うめき声とともに将臣が目を覚ますと、心配そうに顔を覗き込む飴色の眼とぶつかり、瞳をまたたかせた。

「紫子、さん?」

 ほっとしたように頬を緩める彼女に笑顔を向けようとして、ふと我に返る。

「あの、少し離れていただけませんか?」

 薬の効果はきれていると思う。思うが、やはり心配だ。

 それに紫子は、嫌です、ときっぱり言い切る。その強い言葉に眼を見張る。このように我を通すような物言いは、始めて聞いた。いつも紫子は、貞淑な妻のように将臣を立てこちらが寂しくなるほど口答えめいたことすら言わなかったので。

「なぜ山縣さまも、東郷さまも私を遠ざけようとなさるのです。そんなに私の心配は邪魔なのですか」

 拗ねたような物言いがますます珍しい。

 わずかに膨らませた頬に手をやろうと腕を持ち上げかけたが、へなへなと途中で落ちてしまった。

 媚薬の効果は切れたが、痺れ薬はまだ健在らしい。逆でなくて良かったと、本当に思う。

 おそらく、山縣は己についているといったこの少女を強引に連れ出し、薬が抜けるのまで引き止めておいてくれたのだろう。それも、紫子には事情をもらさずに。

 今度改めて礼がてら酒でもおごるか、などと思っているとふと少女の唇が眼に入る。

 普段、化粧などしないはずの紫子の唇は、ほんのすこしだけ紅色をしていた。

 その理由が頭をよぎり、またその光景が脳裏によみがえり、将臣はげんなりした。


 まさか、自分に言い寄って来た女性と自分の許婚の口付けの場面を目撃する嵌めになるとは・・・・・・。


 つくづく、今日の巡り合わせは苦々しく思えて仕方ない。自分は何か、こんな罰を受けるようなことでもしてしまったのだろうか。

 そして本当に香苗という女性の心理がわからなくて困惑する。なんなのだろうか、あの人は。

「東郷さま?」

 不思議そうな紫子の声に、己の思考にしずんでいた意識を目の前の少女へと向ける。

 見知らぬ色に染まった唇についつい眼がいってしまい、将臣は己に苦笑した。

「紫子さん、すこしかがんでもらえますか?」

 先ほどの離れろといった言葉と間逆の物言いに首をかしげながら、青年の顔を覗き込むように紫子は顔を近づけた。

 ふいに首裏に力がかかり、青灰の眼の中に紫子の顔が映りこむ。

 驚く暇もなく、唇が重なった。

 飛び上がるように背を伸ばし、ついで唇を覆って赤面する紫子の様子にくすくすと笑い、将臣は言った。

「消毒です」




***


ぬぐっても、ご飯たべても、落ちない口紅ってどんなだ。って突っ込みはご遠慮ください。


そしてドア開けっ放しですよ将臣さん

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