毒のゆくえ
恐ろしくも感じる静寂に、青年は僅かに息を飲む。
香苗は相変わらず楽しげな笑みを浮かべるばかりで、その内心は計り知れないものだった。
何の薬を盛られたのか熱を帯び動けない身体に、ひどく苛立ちを感じながらも青年はせめてもとばかりに威嚇するように香苗を見つめた。
――――最初に唇を開いたのは、微笑みを称えたままの香苗だった。
「………良いわね。貴女みたいな娘、初めて。ねぇ、…貴女も欲しいわ」
突然の言葉に二人が呆気にとられ目を丸くするのを、香苗は器用に髪を縛りながらその笑みで答えると静かに紫子へと歩み寄る。
警戒したように僅かに肩を跳ねさせ将臣の身体を庇うように立ち塞がる紫子を見下ろすと目を細め、その小さな顎を掬うと、流れるような動作であろうことか香苗は唇を重ねた。
「…な……」
声を漏らしたのは、その様子を間近で直視してしまった将臣だった。
あまりの光景に言葉がでないと言った様子で唇を薄く開いたまま呆然とする。
突拍子のない彼女の行動の数々にどう思案しても到底理解できず、怒りを通り越して頭が真っ白になった。
紫子も状況が理解できていないのか、文字通り硬直したまま香苗の微笑みを見詰めた。
「ふふ、仲良くしましょ?紫子さん」
非難の言葉をひとつくらいかけてやりたいものだが、将臣は熱に浮かされ意識も朦朧とし、上手く呂律が回らず声すら出ない。
何も出来ないためにただただ居たたまれない気持ちになれば拳を握りせめて見ないようにと目を閉じた。
「…意味が、解りません」
紫子から紡がれた言葉や変わらない顔色に、きっと意味がわかっていないだろうことがありありと解り流石だと思いながらも将臣は苦悩する。
その二人の様子に、薔薇の機嫌はますます良くなるようだった。
弧を描いたままの唇からは、耳を擽るような甘言ばかりが紡がれる。
(嗚呼、だから)
会わせたくなかったのだ。
将臣は紫子の手に握られていた本を見下ろし、自分がこの本さえ忘れなければとひどく後悔したが、それももう遅かった。
彼女が気丈な紫子を気に入るであろうこと想像通りだったが、それに伴った行動はそれ以上だった。
「貴女のこと、好きになってしまったってことよ。分からないのなら、これからわたくしが手取り足取り教えてあげましてよ」
その言葉にすらきょとんとしたままの紫子は、とりあえず「要りません」とだけ答えると、必死に追い返そうと非力な力で香苗の背を扉まで押していく。
「香苗を覚えてらして、紫子さん。将臣様はわたくしをまた忘れるのでしょうけれど」
扉を後ろ手に閉めながら紡がれたその言葉は、艶やかな微笑みとは裏腹に悲しげに響いた。
*****
香苗が去った少し後に、軽快なノックと共に返事も待たず部屋にずかずかと入ってきたのは山縣だった。
どうやら二ノ宮に心配だから見てきて欲しいと泣き付かれたれたらしい。
紫子が部屋に入ってから大分経っていたので、まさか修羅場になっているのではないかと、将臣の所在を紫子に教えてしまったことに罪悪感を抱いたのだろうとのことだった。
見慣れた青年の友人の姿に、紫子はほっと胸を撫で下ろす。
気を張っていたせいか、少女の手は僅かに震えていた。
「久しぶりだなぁ紫子さん。東郷は、どうした?」
山縣は紫子を見れば相変わらずニッと片方だけ口角を上げてひょいと屈んで見せる。
しかし直ぐに彼女の傍で息を切らせながらぐったりとした将臣を見れば、不思議そうに首をかしげ眉を潜めて見せた。
「解りません、動けないのは痺れ薬のせいだと思うのですが…」
この身体の熱は何なのか、と紫子は不安げに声を震わせる。
「痺れ薬だぁ?!誰に盛られ…、まさか紫子さん…」
「私ではありません!」
まさか、と言った様子でわざとらしく反応して見せた山縣を一蹴すれば、「なら誰が?」と訝しげに問われ言葉を詰まらせる。
実際に彼女がしたこととはいえ、そんなことを口外するのは些か憚られた。
黙りこんでしまった紫子にやれやれと肩をすくませると、山縣は将臣の前へと行き様子を看始める。
首などに触れ熱を確かめれば、暫くして何を盛られたのか大体思い当たったらしく表情を盛大にひきつらせた。
「……………えらいもん盛られたなぁ色男」
深い溜め息を吐きながら頭を乱雑に掻く山縣を、不安げに紫子が見上げる。
「大丈夫、死にはしねぇから」
山縣はそう明るい口調で答えて見せるが、処置が面倒なのか考え込んでいるようだった。
暫し考えたあと、紫子には聞こえない声量で将臣に何かを耳打ちすると、将臣もまた消え入りそうな掠れ気味の声で何かを答える。
山縣は驚いた様な表情を浮かべた後「知らねえぞ」と呟くと再び立ち上がった。
不意に紫子へと向き直ると、苦笑を浮かべながら頼み込むように両手を合わせる。
「悪い!………紫子さん、ちょっと部屋出てくれるか」
唐突に山縣から告げられた言葉に目を丸めるも、紫子は将臣に大事があっては思ったのかと頷き、慌てて部屋を後にした。
――――――扉を閉めた後、静まり返った辺りに響いたのは痛々しい肉を打つ音だった。




