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『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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声亡き唄 *矢玉

白い象牙の鍵盤はひやりとして指に冷たかった。

紫子は静かに指を滑らす。

乾いたピアノの音が、西陽の射し込む無人の教室にがらんと響く。


どこか気取った、しかし哀愁ただようメロディ。

無心に、一心に紫子は指を動かす。

その音が途切れたのは、がたりという扉の音だった。

その向こうにいたのは、髪を流行りのマーガレットに結い上げた海老茶袴姿の少女。興奮にか頬を染め、少女は勢いこんで口を開いた。


「お邪魔をしてしまって本当に申し訳ありません、あまりに美しい音色にいったいどなたがお弾きになっているのかと、つい気になってしまって」


きらきらと目を輝かせる少女に、紫子はうっすらと微笑みを浮かべた。


「そんな、恐縮しないで下さい。どうぞ聴いていただいて結構ですから」

「まあ!」

嬉しそうに漆黒のピアノに近づき、少女は早口にまくしたてた。

「まさか、“紫の上”が西洋音楽まで堪能だなんて・・・」

「・・・・・・“紫の上”とは?」

「あら、紫子さまのニックネェムですわ。あのお琴の見事な腕前や古典に堪能な雅な佇まい。わたくし達の間で、紫子さまは憧れなのですよ」


苦笑しか浮かべられなかった。

時期外れの転校生、しかも最高学年への突然の編入に級友である女学生の間で物議をかもしているのは薄々気づいていたが、まさかそんな評判だったとは。



紫子がいたカフェは、あまり俗な商売をしない、文学的なサロンといった雰囲気だった。マスターの人柄もあり、女給たちも下手な色気を振りまくより機知にとんだ会話ができるように、文学や詩歌の本を読むようにしつこいぐらい言われたのだ。紫子は母のもとにいた頃から書物を読むのは好きだったし、母からも古典や儒学を学んでいた。だからそんな店の方針は嬉しいものだったし、客に進められた西洋文学も面白く読んだ。


令嬢が憧れるその知識がこんな形で身に付いたとしったら、この子たちはどんな顔をするだろうか。


口も、頭の回転もそう悪くは無かったので、文人や才人達との会話についていくことは容易かったし、気のきいた返しで客を面白がらせる事も出来た。

生意気だ、高飛車だとも謂われたが、そこがまた言いなどという酔狂な贔屓もいたのだ。

だがある時評判を聞き、訪れた客をいつものようにやり込めると、醜いぐらい顔を真っ赤にさせ罵倒されこう叫ばれた。



“異国の女風情が”

“たかが女給の分際で”



殴り掛かられ、たまらず店から逃げ出した事もあった。

ふとよぎった記憶を振り払い、紫子は再び鍵盤に指を向けた。


音楽は、好きだ。


母の元で教え込まれた琴に加え、カフェで初めて耳にした西洋音楽に紫子は心惹かれた。

ある客が店のピアノで披露した曲を後日、何とか再現できないかと鍵盤を叩いていると面白がってその客が教えてくれたのだ。

和式の譜面しか目にした事が無かったので、なかなか手こずらされたが上達していく紫子の様子に西洋譜面の読み方から細かなテクニックまで、その客は教えてくれた。

一時期、店の呼び物になったほど、紫子のピアノは評判だったのだ。



一曲を最後まで弾き終えると、熱心な拍手を返されるのがおもがゆく、懐かしい。華やかで猥雑としたあの空間ではいつもそんな拍手をもらっていた。

「本当に素敵ですわ、紫子さま。わたくし、紫子さまともっとしたしくなりたいと思っていたのです」

「そんな風に思って頂く何て・・・・・・ありがとうございます」

「では、これからも親しくしてくださる?」

「ええ、喜んで」


その返答に少女が頬を染めるのを、紫子は透明な眼差しで見ていた。


「そういえば、お聞きしましたわ。紫子さま先日東郷伯爵さまとお見合いなさったのですって?羨ましいですわ」


息が、止まるかと思った。

「あの東郷伯爵さまといえば、あのお歳で爵位をお継ぎになられ、しかも帝国軍の中将であらせられるのでしょう?加えてあの佇まいにお顔だちの精悍なこと。わたくし、一度だけお目にかかる機会があったのですがまさに貴公子そのもので、まともにお顔が見れませんでしたわ」

甲高い声でまくし立てるのに、勤めて静かな声で返す。

「内々に、お話があっただけですから」


「そうなのですか?でもあの東郷さまがお相手とは、紫子さまは本当にお幸せですわね」


幸せ、という言葉に息を呑む。


脳裏に鮮やかに蘇る素っ気ない程に白い便箋に書かれた、流れるような文字。



『貴女にも幸せに』




“父親”に書かされた、白々しい手紙の返事。

足を運んで頂いたことにする礼、一緒に鑑賞した花の美しかったこと、初めてお逢いした青年将校に対する控えめな好意。


偽りだらけの自分が書いた、偽りだらけの、見た目だけは美しい花の透かしの入った便箋。



「わたくしの、幸せ」



“紫子の幸せ”など、私は望んでいないのに。しかしその夜、“父親”告げられたのは青年将校の二度目の訪いだった。

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