表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
58/145

蜂蜜色の涙

「それでですねお姉さま・・・・・・紫子お姉さま?」

 飴色の眼にぼんやりとした光を浮かべていた紫子の様子に桐子は小首をかしげた。

 最近、この先輩は元気がないのだ。物憂げな雰囲気はたいそう美しいが、桐子は悲しくなる。

「ごめんなさい、何でしたか?」

 すまなさそうに謝られ、ふるふると首を振る。何度も尋ねようとしたのだが、何故かためらわれ桐子はわざとらしいほど明るく微笑んだ。

「紫子お姉さまのピアノ教室の件なのですけど、わたくしの同輩にも何人か参加してみたいという方がいて。よろしいですか?」

 それに驚いたように紫子は息を呑んだ。この女学校で自分は未だに遠巻きにされる存在だ。それなのに。

「本当は紫子さまとお話したい人は沢山いるのですよ?でもみんな宮城さまやそのお取り巻きを怖がってしまって・・・・・・悔しいです」

 頬をふくらませて憤慨するのが可愛らしい。頬を赤くして口早に言う。

「わたくし、宮城さまのそういう専横的なところが厭なんです。あの方、すぐに人の陰口ばかりおっしゃるし・・・・・・」

 普段、人について批判めいたことを言わない桐子なのだが、あの人物には我慢が出来ないらしい。まぁあの横柄な態度では仕方ないのだろうな、と紫子などは思う。我が儘で己が中心の、悪い典型の“お嬢様”。

 俯くと、さらりと赤い髪が頬をすべって顔に影を作る。

「桐子さん・・・・・・あの早苗さんの姉君の、香苗さんのことはご存知ですか?」

「え?ええ。もしかして、宮城さまのあの戯言を真に受けているのですか?お姉さまともあろうお人が」

 怒りに柳眉を逆立てる妹に、紫子は苦笑して首を振る。

「ただ・・・・・・どんな方かと思っただけですよ。東郷さまからも事実ではないとお聞きしていますから。早苗さんに、似ている方なのですか?」

 納得いかないという恨めしげな眼をしながら、桐子は過去へと思いをはせた。

「わたくしより、だいぶ学年の上な方でしたから、直接お話したことは無かったですわ。でも宮城早苗さまに似ているかといわれると・・・・・・」

 確かに、高飛車なところはあった。そのあたりは似ているのだろう。だが――――――

「宮城香苗さまは、努力の人でした。聡明な方でしたし、美しい人でもありましたが。その高慢な振る舞いに見合った、努力をしていたように思います。ただ威張り散らす早苗さまとは、そこが違うお人柄だったとかと」

 揶揄するように称えるように、薔薇のようだと喩えられていたことを知っている。いつも挑むような眼をした女性だった。

「そう、ですか」

 沈み込んだような声に、慌てて必死に桐子は言い募る。

「もちろん!紫子お姉さまのほうが何倍も素敵です!紫子お姉さまこそ、真の貴婦人ですわ。威張り散らさなくても自然と尊敬される人。外に誇るのではなく、その心のうちに誇りを持つ人。それが紫子さまです」

「ありがとう、ございます」

 それでも、紫子はどこか寂しげだった。聞くまいと思っていたのだが、二、三度唇を噛み締め勢い込んで桐子は、言った。

「紫子さま、何をそんなに思い悩んでおいでなのですか?桐子には、話していただけないですか?」

 ぼんやりと窓の外に視線をやって、紫子はそっと言葉を零す。

「たいした事ではありません。・・・・・・ただ、少し気落ちしているだけで」

 言おうか言をまいか、その葛藤が顔に現れていたのだろう。桐子が勇気付けるように、手に手を添えた。ひどく温かく感じるのは、己の手が冷えているからだろうか。

「東郷さまを、怒らせてしまったようで。それが、申し訳なくて」


***


 それは、何か本が読みたいと言った彼女に、伊織に聞けば言いと伝えた時の事だったように思う。

 自室の縁側で本を読んでいたら珍しく彼女が部屋に訪れて、横に座っていいかと言ったのだ。そんな事を言われたのにも驚いたし、隣に座った彼女が自分の手を握って来たのも更に吃驚した。

 自分から彼女にふれることはあっても彼女はいつも赤面して恥ずかしがってばかりだったので。

 何と無く嬉しくもあり、気恥ずかしくもあり、目線をずらせば彼女が借りたであろう本が目に入った。

「平塚次郎ですか。探偵ものですね」

 私も好きなんです。そう告げ彼女を見れば、氷ついたような顔で怯えた眼をしていた。


 彼女が立ち去った後、改めて本を読んでみた。

 どこか彼女を思わせる少女が、紙の上、文字の中にたしかにいた。


 平塚次郎は伊織の文芸仲間で、才能ある男だと聞いている。

 その書かれた文章をみても、頭の切れる男だとわかった。それでいて、細かな感情を汲み取れ文にできる才能もある。知識の幅も広く、文学の引用も多い。

 きっと彼女とは、気が合うのだろう。

 ぼんやりと、昔の恋人だろうかなどと邪推してしまう自分が厭わしかった。




 何となく寝付けず。そして本を読む気にもなれず夜の庭を歩いていた。

 彼女の部屋のほうへ自然と足を運んでいたと気付き、苦い笑いしか浮かばない。こんな夜半に訪ねるつもりもないが、障子越しでもかの少女の存在を確かめたかった。

 庭から紫子の部屋の前にたつと、指の幅ほどの隙間が開いている。まだ秋の始めとはいえ、夜は冷える。閉めようと手を伸ばしたとき部屋の中が見えてしまったのは意図したことではなかった。

 障子の向こうに少女はいなかった。時間をおいても、姿を見せなかった。




 少女の帰りを待ち、木戸の前で佇んでいるとゆるやかに冷えていく感情。

 それは、御高祖頭巾で顔を隠した少女の怯えた眼を見た瞬間、氷点に達した。

 彼女にぶつけた切り込む様に冷たい言葉。うな垂れる彼女に、ふと冷静になる。


 そして自分はいつかのようにアロイスを心の奥底に封印し、将臣として振舞うようにした。

 でなければ、彼女を傷つけてしまう気がして。


***


 桐子と話し込んでしまったため、東郷邸への帰宅は大幅に遅れてしまった。

 待ちぼうけをくわせてしまった御者にひたすらあやまれば、かえって恐縮されてしまって申し訳ない。

 桐子にも、散々心配をかけてしまった。先程の必死の慰めの言葉が一生懸命の様子が眼に浮かぶ。


『大丈夫です、東郷さまが紫子さまをお嫌いになるはずありません』

『だって東郷さまが紫子さまを見る眼は、いつも温かくてやわらかくて、優しいのですもの』

『兄が言っていました。東郷さまは誰にでも優しいようにみえて、実は真に心を砕く人は少ないのだと。自信を持ってください』


 その言葉は嬉しかった。だが、紫子の希望にはならない。

 なぜなら人の心はうつろうから――――――そんな例を、自分はたくさん見てきた。

 昨日まで仲むつまじかった両者が、憎々しげに言い争うのも、この眼で見た。

 人の心、特に恋心はうつろうのだ。

 紫子には自信がない。自分に誇れるものなど無いと、思っている。胸に垂れかかる赤い髪の毛先をつまみ上げ、ため息をつく。

 玄関が騒がしくなり、ぼんやりと青年が帰宅したのかと思う。

 まともに顔を見られる気がしなくて、そのまま自室へ戻ってしまった。

 着替えて後、何をするでもなくぼんやり畳に座っていれば足音をたてて女中たちが行きかう音が響いてくるのをいぶかしむ。いつも彼女たちは礼節をわきまえ、こんなに騒ぐことは無い。

 襖を開ければ、一人の若い女中と目が合った。

「お嬢さま」

「何か、あったのですか・・・・・・?」

「はい、あの。旦那さまが、お怪我をして戻られて」

 紫子の心臓が、ひとつ鼓動を立てて止まった気がした。




 ざわざわと騒ぐ女中たちにたいした傷ではないと説得し、自室にこもる。

 実は包帯がずれたのか、じんわり手のひらから血が滲んできたのだ。見せれば大事になると思い、拳をにぎってやり過ごした。そのせいで傷からはますます血が溢れ、ぽつりと畳みに雫を落としてしまった。

 包帯を替えようと、棚を探っていると音を立てた足音が響いてくる。

 咄嗟にタオルをつかみ、傷を隠したところで、勢いよく襖があけられた。

 その向こうにいたのは、息を切らせた赤い髪の少女。その顔は、血の気がひいて色白の顔が、ますます白く見える。

「紫子、さん」

「お怪我は?!」

 叫ぶように尋ねられ近寄って来られるのを半歩下がってやり過ごそうとする。

「大したことはありませんよ、不注意で少し掌を切ってしまっただけで」

「嘘です。血の匂いが、こんなに」

 タオルを取り去られてしまえば、べったりと鮮血が滲み、今にも解けそうな包帯に包まれた、手があらわになる。

 紫子の表情の一切が消えた。

 見つかってしまい、どうしたものかと考え込む将臣に、奇妙に静かな声が落とされる。

「座ってください。包帯を替えます。それでは血止めの意味が無い」

 先に膝を着き、箱から包帯を取り出した少女の前に座り込む。血染めの包帯は丁寧に取り除かれ、真新しい布でくるまれた後、きつめに包帯が巻かれる。怪我の手当てが手馴れているな、などと感心していると、ぽたりと白い包帯に雫が落ちた。

 血ではなく、透明なその雫。

 ぽたぽたと落ち続けるそれは、少女の頬を伝って落ちていた。

 それでも紫子は、手を止めることなく包帯を巻いていく。何も言うことができない将臣を置き去りにして。

 包帯を巻き終えると、そのましろの布が巻かれた手を両手でおしいだくようにやんわりと包む。じわりと布越しに伝わる彼女の熱が、心地いい。

「ご自分を大切になさってください、私にお腹立ちなら言って下さい」

 唐突に言われた言葉に瞠目する。

 俯いていた顔を上げれば、彼女の飴色の眼から次々と涙があふれ零れ落ちていた。

「私にご不満があれば、おっしゃって下さい・・・・・・それもなくあのようにされれば不安になってしまう」

 あんなふうに穏やかに拒絶されてしまえば、と噛み締めた紫子の唇は痛々しいほど赤かった。

「私はもう、いりませんか?」

 もう消えたほうがいいのではないかとすら、思ってしまうのです。

 つたい落ちる涙で紫子の眼は、とろりとした蜂蜜のような色をしていた。

「私のおかげで自分として生きようと思えた。そう以前おっしゃた気持ちはなくなってしまいましたか?」

◆紫子は3回に1回は赤面して、5回に1回は泣いている気がします。すまん。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ