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『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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時よとまれ、そなたは・・・ *矢玉

 酒気に当てられた宵の秋風が心地よい。 

 まだ日中は晩夏の暑さを感じさせるものの、季節は確実に秋へと移ろっていた。

 平塚は一人、夜道を歩いていた。酒場で安酒を呑んでいたのだが、何故か押し掛けた文芸仲間に早く家に帰れとせっつかれ、とうとう店を追い出された。それを思うと苛立ちでいっぱいになる。

 最近は酒を呑まないと、寝付けないのだ。眼ばかり冴えて、苛々とした気持ちばかりが暗闇に広がる。

 帰ってそのまま家酒で呑み直そうと、足早に家路を急ぐ。玄関が見えてきた所でふと立ち止まり怪訝な顔になった。

 ささやかな仮屋の平屋の前に暗闇にぼうっと浮かび上がる人影が。所在なさげに佇むその姿はどうやら若い女らしい。

 眉を寄せていぶかしがるこちらに気づいたように、振り返るその姿に不思議な既視感を覚え、首を傾げた。

 御高祖頭巾に包まれたそのかんばせは目元を残してほとんど見えない。

 上品な淡い藤色の着物は、高直なものと暗い月光でもわかる。

「失礼ですが、どちらさまで?」

 表札から、おそらく自分を訪ねてきたのだろうとあたりをつけ発した言葉に、女は優雅な仕草で頭を下げる事で応えた。

「ご無沙汰しております、平塚さん」

 忘れられない耳に残り離れなかった、その凛と響く声音。

 眼を凝らせば、その瞳はとろりとした飴色とわかる。

 心臓の鼓動がどくどくと鳴り響き、代わりに呼吸は止まった気がした。

「あやめ、君・・・・・・なの、か」

 軽く頷くことにそれで応えた少女の様子が頭に入ってこない。

 くしゃりと前髪を痛いほど掴む。

「これは・・・・・・夢か、幻か?」

 だとしても。震える唇で吐息のように言葉をもらす。

「Verweile doch Du bist so schön」

 異国の響きの言葉に、軽く眼を見開き、次いで細める。

「“時よ止まれ、そなたは美しい”」

 ゲーテですね、といらえた少女は間違いなく己の焦がれた『ダリィヤの君』だった。


***


 動揺に震える手で鍵を開け、自宅へと少女を招き入れる。

 二間しかない部屋のうち、まだしも片付いた手間の部屋へと案内した。奥の部屋は書斎というのもおこがましい、紙屑の転がり布団がひきっぱなしという有り様なのでとても人を通せる状態ではない。

 座布団を勧め、向かいに腰を下ろす。情けないが、腕の震えはまだ収まる気配はない。

 古びた座布団にすっと座る佇まいさえどこか品があり、何だかこんな襤褸屋に居させるのがひどく申し訳なくなる。

 少女が御高祖頭巾をするりと肩から落とせば、緋色の髪が流れるように零れ落ちた。

 嗚呼、とため息が落ちる。平塚が焦がれた、その色だった。

「本当に・・・・・・あやめ君なんだな・・・・・・」

 いままで、何処に。そう尋ねれば、迷うように視線を揺らしたあとに、少女はゆっくりと口を開く。

「カフェを出てすぐは、ある華族の元に。養女になりました」

 政略結婚の道具として。淡々と言うその眼はひどく冷えていた。

「今はその家とは縁を切り、許嫁のお屋敷に住まわせて頂いています」

 許嫁、その四文字の単語に雷のような衝撃が走る。怒りと、悲しみ。複雑に混濁した感情でみるみる顔は歪む。

「その政略結婚の相手なのか?」

 我ながらどすの利いた声色だ、と頭の奇妙に凪いだ部分で思う。

 書生仲間で話した憶測。望まぬ婚姻を強いられたのではないかと。

「出逢いは、そうでした」

 花がほころぶような微笑みに虚をつかれる。

「私はその方をお慕いしています」

 僅かに染まった頬、伏せられた飴色の瞳。

 それで、わかってしまった。自分がついぞ彼女に抱いて貰えなかった感情を、その相手は彼女に芽生えさせたのだろう。

「あの方は偽りの私から、まことの私を見つけてくださいました。」

 偽りの容姿、偽りの出生、偽りの名、偽りの笑み。

「この心情を周りの人は恋だと言うけれど、私にはいまだ恋情というものがわかりません」

 ただ、そう言葉を切る少女はひどく切なげな微笑を浮かべていた。

「傷ついたあの方を、どうやっても癒して差し上げたいと思う、心。あの方の過去を哀しいと、愛しいと思う心が恋ならば、私はあの方をお慕いしているのでしょう」

 失意は覚えたが、驚く程感情か穏やかだった。気の抜けたような穏やかさに身を委ねながら、少女が紡ぐ言葉に耳を傾ける。

「今の私は女給をしていた私とは別人として過ごしております。けれど平塚さんが私が消えたせいで不調だと聞いて、尋ねて参りました」

「・・・・・・は?」

「お仲間は大事にされた方がよろしいですよ」

 悪戯めいたその言葉に、額を覆ってうめく。あのおせっかいな仲間たちが気を回したのであろうと考えれば気恥ずかしさにぐぅの音もでない。

 それでもこうして彼女の無事な姿を見ることが出来る機会を作ってくれたことに、感謝しなくてはならないのだろう。しゃくにさわるが。

「君は今、幸せか?」

 かすかに瞳をまたたかせたあと、はいと答えた彼女の顔は、女給をしていた時に見たことがなかったほど穏やかですがすがしい。

 もう、それでいい気がした。

「“恋の至極は忍ぶ恋と見立て候”」

 平塚の呟きに、きょとんとしたあと苦笑する。

「そんな事を言ったこともありましたね」

 本当の恋を知れば、それは容易いことではないと知る。

「ひとつだけ・・・・・・いや、ふたつだけ俺の願いをきいてくれないか?」

 真剣な面持ちで頷く少女を、眼に焼き付ける。もう二度と、今度こそ二度と逢うことは無いだろう。恋しい娘。

「君の、本当の名前は?」

「・・・・・・紫子、と言います。桐生紫子」

 紫子、それは彼女にひどくしっくりする気がした。今の、凛として佇む彼女に。女給をしていた“あやめ”はやはり少女の本来の姿にそぐわなかったに違いない。

 もうひとつの願いを口にすれば、少女は酷く戸惑い迷い、それでも小さく顎を引いてくれた。

 思いのまま腕を引きに、その小さな体を腕に抱く。白い首筋に頬を寄せれば、酷く切なかった。

「俺は文章を書き続ける。今は無理だろうが、いつか君が言っていたあの探偵が恋に落ちるような女怪盗を書いてみせる」

 囁くように言葉を紡げば、小さなはいという答えが、体越しに伝わった。




 その年、平塚次郎は新しい小説を発表した。それは黒い外套をまとい山高帽を被った、探偵の好敵手たる存在。

 緊迫した駆け引き、攻防その展開に魅せられた多くの読者に後押しされ、平塚の本は飛ぶように売れた。この作品で彼はその作家としての地位を不動のものとする。

 そしてその何年か後、平塚は唯一の女の怪盗を書く。子どものように無垢で残酷、それでいて妖艶な震える程の魅力をもつその女は『ダリィヤ』という異名で呼ばれていた。



***


 夜道を足早に急ぎ、使用人用の小さな木戸に着くと、やっと紫子は息をついた。

 屋敷を抜け出したことは幸い知られていないようだと、そっと木戸を閉めた背後に人の気配が。

「紫子さん」

 首のうぶ毛が逆立つような感覚。振り向きたくない、しかし振り向かねばならない。

 錆びた人形のように首をめぐらせれば、酷く冷たい眼をして、青年が微笑んでいた。

「こんな時間に、どちらに?」

 にかわで貼り付けたように動かぬ舌で必死に言葉を紡ぐ。

「い、言いたくありません」

「今度はそれですますと思わないように」

 間髪いれずにかえされた返答。ますます深まる笑み。

 紫子は逃げ出したくなった。

◆作中のドイツ語はゲーテ著「ファウスト」の一節です。色々解釈はありますが、今回はそのままの意味で使ってます。

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