聖母への恋慕 *奏嘉
「あれ、もう終わったの」
総一郎が階下に降りれば、伊織は淹れ立てであろうお茶を貰い寛いでいた。
上で話していたあの事実を、あまりにも知らないのであろう様子だ。
青年がおかしいと言った様子で唇を歪めるのを、伊織は不思議そうに首をかしげてみせた。
しかしそれも束の間、伊織は不意に立ち上がり二階へと上がると、書生仲間達に「このまま総一郎を送って帰る」と告げ、再び青年の元へと戻る。
子供じゃあるまいしと眉を潜めた総一郎に、伊織は苦笑して見せた。
「君、興味が無さ過ぎて道覚えられないから」
伊織は湯呑を返すと、世話焼きなのか慣れた様子で総一郎の肩に鞄を掛ける。
「なら総一郎、まずはどっち?」
気に食わないと言った様子で先に戸を開いた総一郎に、戸を後ろ手に閉めながら続いては悪戯に問いかけた。
迷い無く逆方向へと歩き出した総一郎の腕を掴むと、「こっち」と苦笑し歩き出す。
「…わかってるだろうな、おまえ。ここまで歩いてきた分と、知りもしない物書きの話に付き合った分の労力…」
「はいはい、…ええと、ここからなら……しみずやのあんみつかなぁ」
その言葉にぴくりと反応し黙り込む総一郎に、満足であるのだろうことを察すれば、伊織は表情を綻ばせた。
――――――いつだって、突然湧きあがるこの満足感が、伊織には不思議でならなかった。
それが何なのか、何が原因でおこるのかは未だに分からずにいた。
けれど、心が満ち満ちているような気がするのだ。
だが、知っていた。
それと同時に胸の奥、棘の様な罪悪感が、自らの心を殺していくことも。
――――――――――――ああ、きっとこれは。
こんなにも揺らめくのだから、
『罪悪』に、違いないのだ。
(ああ、だから)
それを、躊躇うのだ。
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その日は、数日ぶりの雨が降っていた。
古傷の痛みに僅かに顔を強張らせながらも、将臣は紫子を連れ山縣邸へと訪れている。
(慣れなくては、いけないのに)
否、忘れなくてはいけないのに、青年は十何年間との間雨の日が苦手だった。
山縣邸を訪れたのは、例のドレスが仕上がったというので桐子が紫子に一番に見せたいとの事だったためである。
別室にて将臣と紅茶を飲みながら「出資者に見せるのが先だろう」と唇を尖らせてみせた征光に、本当は妹が可愛くて仕方が無いのだろうことがありありと分かってしまい友は笑う。
山縣は「なんだよ」と不満げに声を漏らすが、青年は笑ったまま口を開いた。
「嬉しそうだな、お前も」
突然発せられた将臣の言葉に征光は目を丸くした後、無言のまま口角を上げて見せる。
「黙っとけよ」
分かりやすい友表情の数々に憧憬の念すら感じながら、将臣は「分かっている」と応え笑いかけた。
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「お綺麗です、お嬢さま」
姿見に掛かった布を退かしながら、涙声に使用人は呟いた。
淡い色使いの布がまるで花弁の様に重なり、床を滑る。
少女の肌に映えるその華やかな出来に、山縣や紫子の強いこだわりが見え隠れするそのドレスは、違和感無く少女の背中を隠し、素の美しさを引き出していく。
着たことすら無かったドレスに、桐子は涙を浮かべながら、姿見に縫い付けられたように固まったままでいた。
(諦めてすら、いていたのに)
変貌を遂げた、その自分の姿が、ただただ嬉しかった。
和服だけがいいと、必死に強がっていたあのころが、馬鹿馬鹿しく感じてしまう程に。
―――――――貴女に、出会えていなければ。
きっとその少女は、その華を咲かすこと無く、心身ともに枯れていった事だろう。
(諦めきっていた私に、沢山の希望を与えてくれた、美しいひと)
紫子の姿は、いつか見た、聖母のようだと思う。
―――――――私は、貴女の為に、いったい何が出来るのでしょう?
少女は、見よう見まねで両手を組むと、一つだけ拳に唇を落とした。