綻び、溢れ出す様な紅 *奏嘉
先々代の東郷家当主は亡くなる直前の病床、生死の瀬戸際でさえ、朦朧とする意識の中にありながらも生粋の東郷家の嫡男である「『伊織』に家督を継がせよ」、との遺言を残したらしい。
――――それ程までに、あの鬼の子を憎んでいたと言うのだ。
その事実の意図を、伊織が物心着くまで図り知る事は無かったが、伊織には大きな夢があった。
どんなに「坊ちゃんのお遊び」などと馬鹿にされ揶揄されようとも、その衝動を止める事は出来なかった。
その夢を初めて口にしたのは、学習院に入学した、桜の咲き誇る四月のことだった。
その心の揺れを、繊細な感情の全てを。
書き記したい、その全てを解き解したい程に『依存できる存在』が出来たのだ。
自分の全てを縛るのが、この『家』であるという事実に相違なかったが、好きな事を悠々と出来ていると言う現状も、この『家』の御蔭に違いなかった。
家督を継げば、書く事は出来なくなる。
しかし、『家』を捨てれば、書ける余裕のある今の環境すら、失われてしまうのだ。
我が儘だとは分かっていた。
―――――――けれど、どうしようもなかった。書けないと言うだけの事が、こんなにも辛いのだ。
「兄さん」
――――堅実で多才な、偉大な兄。
しかし兄が、自分の邪魔をしない為にと無理に怠惰を敷いられているのを、自分は知っていた。
本当なら、―――もし兄が、生粋の嫡男であったのなら。
兄は本当ならもっともっと、自由に生きられいたのだろうと、思っていた。
(例えば、この国を変えてしまうことだって)
大きなその背中には、鮮やかな夢の数々が背負われていた筈なのだ。
―――――――――――それ、なのに。
「僕は、物書きになりたいんです。けれど、家を、捨てたら」
狡猾な自分に、反吐が出る。
優しい兄が、断る筈など無いのだと、分かっていたのだ。
―――――――――そんな兄に、僕は泣きついたのだ。
少し驚いた様な表情を見せるも、優しい兄は、いつもの様に優しく微笑む。
両肩に置かれた大きな手に、僅かに肩が跳ねた。
「私は、君にまだ恩返しが出来ていないんだ」
それが何を指すのか、分からなかったけれど。
僕は、傲慢にも、本当に欲しかったものを手に入れた。
******
「伊織さん」
不意に聞こえた声に顔を上げれば、兄の許嫁となった美しい将来の姉が、障子から顔を出していた。
珍しい来客に首を傾げては、「何か読み物を貸してほしい」とのこと。
どうやら兄が、「面白い読み物は伊織に聞いた方が良い」と助言をしたらしい。
低い書棚から数冊の推理小説を出せば、少女の目が僅かに開かれる。
不思議そうに伊織が首を傾げると、少女はその内の2冊を伊織へと返した。
「これは、読ませて頂いた事があります」
その苦笑を浮かべながらの言葉に伊織は僅かに目を輝かせると、「これは書生仲間が書いたものを貰ったんです」と笑って見せる。
―――――――――その表情に相反して、少女の表情は強張っていった。
「紫子、さん?」
慌てたようにその身体を翻すと、兄の部屋へと掛け足に去ってしまう姉の姿に、言い知れぬ不安が過る。
―――――後ろ姿に舞う、紅い髪。
重ねられた、花弁の様な、その造形美。
(ああ、まるで)
「………ダリィヤの、君」
青年から漏れた言葉は、その静かな室内に溶けていった。