君だけが、いない *奏嘉
開け放した窓から心地よい風が流れ込んでくる。
みずみずしく青々とした葉が擦れる音と、遠い帝都の喧騒が微かに鼓膜を擽った。
広々とした執務室。
上質な執務机に書棚、毎日使用人が生ける色鮮やかな花に、カットの美しい硝子の花瓶。
異国の文化を存分に享受した軍部の庁舎は、何処を見ても異国の建物を真似て作られている。
家具や絨毯に至っては、態々取引先の国から取り寄せたものが殆どである。
上部の人間の見苦しい異国に対する背伸びが、垣間見えるような代物だ。
青年はそんな部屋で一人、頬杖を立てながら読書に耽っていた。
目の前には片付いた書類の山と、以前友人から貰い受けた異国の植物図鑑が開かれている。
色鮮やかな挿絵に整然と並ぶ異国の文字。
それをぼんやりと眺めながら、深い溜め息を吐いた。
「旦那様、逢崎様の御屋敷からお手紙です」
あのお見合いから数日後のこと。
如何にもお嬢様らしい内容の手紙が、東郷の屋敷に届けられた。
文面の何処を取っても完璧な、「お嬢様」からの手紙だ。
子爵に強要でもされているのだろうか、などという考えに至れば、僅かに嫌悪するような物ではあったが、他でもない彼女からの手紙であると考えれば、そんな憤りも僅かに和らぎ、むしろ罪悪感すら感じた。
この手紙の内容に、きっと意味など無いのだ。
彼女の硝子のような表情が何度も脳裏を過る。
(それでも、何を思いながらこれを書いたのだろう)
返事を書く為に握ったはずのペンから、紙の上にぽたりと黒い滴を落ちた。
以前であればこちらも伯爵らしい、白々しい書面を返せば良いだけの事だったが、彼女への感情は中々に複雑なものへと変化していた。
『わたくしが御不満でしたらお断りはそちらから』
あれはむしろ自分に対しての、彼女の感情ではないのか。
彼女の垣間見える意志と言動は矛盾しているように思えた。
(彼女は、断られるのを望んでいるのだろうか)
諦めのようで、強い意志のような。
それでいて、何処か脆弱にも感じた面影。
あの夜の時とは真逆だと感じた。
自分らしくあったと感じたあの凛々しい姿は、全て飾り立てられたものへと変わっていた。
(それでも、この家に、嫁いで貰うからには)
自分の、妻になってもらうからには。
彼女にも幸せになって貰いたかった。
彼女のあの笑顔がもう一度見たいと、強く思った。
男性の字にしては、繊細にも感じる整った文字の羅列。
その文面をゆっくりと読み、少女は目を伏せた。
「『貴女にも幸せに』」
小さな声で、その美しい唇から、文章の一部を呟く。
あんなにも冷たい言葉をかけながらも、貴女の幸せを望むと述べる青年。
別人として生きることを誓ったにも関わらず、それを偽りと知っている青年。
物好きにも、飾り立て出来あがった『お嬢様』の紫子を選ばない、可笑しな伯爵様。
見た目ばかりを気にする、華族らしい華族であってくれたらと、望んだのは外れてしまったようだった。
簡単に言ってしまえば、『やり辛い』の一言に尽きた。
「ありのままの私を、『伯爵様』が好むわけ無いのに」
いつか、粗悪な客に罵倒された言葉が、脳裏に響いた。