百合の契り *矢玉
紫子は、夕方書店へ赴き一冊の本を求めた。
西洋の衣服や図版が載っているものだ。
桐子のために早い方がいいだろうと、さっそく手に入れた本にランプの灯で眼を落としている。
それにしても、と紫子は嘆息する。
自由になる金銭がないというのは、思いのほか息苦しいものだった。
この本の代金とて、将臣に事情を話しお金を出してもらった。何かにつけて、そういった有様で紫子は憂鬱になる。
幼い頃から母の内職を手伝い日銭を稼ぎ、女給となってからは自由になる給金があった身としては、何かにつけて周りに甘えなくてはならない現状に気後れする。
女給時代のたくわえがわずかばかりあったのだが、それを含めてみな逢崎邸に置いてきてしまった。今更取りに行くわけにもいかず、また用があるからといってあの屋敷に足を踏み入れたいとは思わない。
ふたたびため息が洩れる。
生活すべてを自分で賄う必要はすでにない。そこまでは思わないが、そういった細々としたものを買い求めるぐらいの金銭はどうにかしたかった。
それに――――――
ふいに響いた乾いた音に紫子は顔を上げた。
パタリと本を閉じ、ドアへと向かう。
キィと音を立てて開けた扉の先には、頬を染めなぜか枕を抱えた少女の姿があった。
「桐子さん?」
「夜分にすみません、紫子さま。あの、あのですね・・・・・・」
林檎のように頬を染め、勢い込んで少女は口を開いた。
「今日は一緒のベッドで寝てもよろしいでしょうかっ」
とりあえず桐子を部屋に招き入れると、おずおずと少女がついてくる。それが親鳥を慕う雛に似ているようで、ふと笑みがこぼれた。そんな紫子の様子に気付かず、桐子は机の上の華やかな装丁の本に心引かれたように近づいた。
「紫子さま、これは?」
「ああ、どうぞ見ていただいて結構ですよ。ドレスの図版です」
ぱっと瞳を輝かせてページをめくりだす少女を微笑ましそうに紫子は眺める。
こういった図版を眺めることも、今まではしたことがなかったのだろう。眼にしてしまえば、身にまといたいと焦がれるのはわかっているから。
「これはなんですか?不思議な形をしていますね」
フリルやレースで飾られ、後ろが大きく膨らんだ伏せた釣鐘のような挿絵を指差し、桐子は問うた。
「それはペティコートです。シュミーズとコルセット、それにそのペティコートを身に着けて、その上からドレスを着ているのですよ。ほら、ドレスの後ろが大きく膨らんでいるでしょう?あの膨らみをもたせるのに必要なのがその、ペティコートなのです」
紫子が指差しながら丁寧に説明する様子を桐子は熱心に聞いている。こういった話題さえ新鮮で心躍るのだろう。
「桐子さんのシュミーズは、私が仕立てますね」
「え?!」
仰天したようにまん丸に口をあける様子に、紫子はとうとう吹き出した。
それに恥ずかしそうに頬を染め、視線をさまよわせるさますら愛らしい。
「仕組みはだいたいわかっていますから、あとは仕立屋に細かいところを教えてもらいながらでも、なんとか仕上がると思います。あまり、本職が作るほど手の込んだものは作れないでしょうが」
大丈夫ですよ、桐子さん。安心させるようにその手を握り締める。
「“たとえ同性でも、身内でもないものに素肌をさらすのに抵抗がある内気な令嬢のため”とでも言えば誰も疑いませんから。安心して任せてくださいな」
ね、と小首をかしげながら同意を求めれば、感極まったように桐子がぽろりと涙を零し、紫子はいささか慌てた。
「本当に、紫子お姉さまの優しさが、嬉しくて。もうなんとお礼をいえばいいのか」
「可愛い桐子さんのためですから、がんばります」
言われた言葉に熱にうかされたようにぼうっとしながら、それでもはっと我に返り桐子は袷を握り締め、心を奮い立たせる。
これまでと違う思いつめた表情に紫子が声をかけようとすれば、桐子が勢い込んで上擦ったような声を出した。
「じゃ、若干のわたくしから申してしまうのは、あのぶしつけだとは重々承知はいたしておりますのですが、あの」
あの、と言いよどむ姿があまりに必死で思わず慰めるように背を撫でる。それに勇気付けられたのか、桐子は潤んだ瞳を紫子に向けた。
「わたくしと、姉妹の契りを交わして頂けませんか?!」
「・・・・・・はい?」
要領を得ない桐子の遠回しすぎる説明を根気よく聞けば『姉妹の契り』とは女学校で『S』と呼ばれる擬似姉妹の関係らしい。
後身を育てる役割も果たすため、女学校では浸透している、という話だった。後は、桐子が言いよどんでしまい、聞けずじまいに終わる。
本来の『S』はもっと少女同士の恋愛的要素を多分に含み、耽美なロマンティックラブなどと称される世界なのだが、同輩同士で秘め事のように教えあうのと、この清廉潔白な先輩へと伝えるのでは、まるで違ってこのあたりが桐子の限界だった。
桐子自身も、これまでさほど『S』に興味はあまりなく、きゃあきゃあ同輩の少女がさわぐのにもついていけず申し込まれても遠回しに断ったりしていた。
だいたい桐子自身が最高学年のひとつ下なのだ。この世代になると、申し込まれるより申し込むほうが多い。事実、同じ組の少女はみな、可愛らしい妹をもち、日々自慢げにその愛らしさ、可憐さを得意げに日々披露しあうのをぼんやり眺めていた。
桐子さんも姉妹をもてばいいのに、などと言われたが何となく気後れした。
あまり、人と深く触れ合ってしまうのが、怖かった。
それがこの先輩と出会ってから世界がきらきらとしまものに満たされているように変化した。高潔なこの人に憧れ、もっとお近づきになりたいなどと思いお姉さま、などと呼んでいた。
この別荘を訪れ、傷痕のことをうちあけてからは憧憬はもっと深くなった。
この美しい人と、確かな絆が欲しかった。
本来なら、先輩から申し出る仕来たりらしく、桐子はしきりに恐縮していた。
桐子の表面上の説明を聞き、紫子は微笑んだ。
「私も、桐子さんと姉妹になれるなら嬉しいです。でも、私でよろしいのですか?」
「紫子さまでなくては・・・・・・紫子さまじゃなくては、嫌なのです」
必死な様子を嬉しく感じる。紫子自身こんな風に慕ってくれる少女と出会ったのは初めてなのだ。郷里では、いつも少女にも少年にも遠巻きにされていた。
女給をしていたカフェで姐さんたちは親しくしてくれたが紫子が一番年少だったため、妹のように可愛がられることが多かった。こんなふうに慕われるのはなんだかくすぐったい。
「それでは、私が桐子さんにリボンを渡せばいいのですね?」
「あ、あの!わたくしが申し込んだのですから、わたくしからお渡ししようかと用意してきたのですが」
「これぐらいは私からさせてください」
ね、と微笑みかければ真っ赤になって俯いてしまう。
紫子は立ち上がり、鏡台の前の小物入れへと向かった。
手鏡や櫛などを入れた小物入れに、かんざしやリボンといったこまごまとしたとした髪をまとめる道具が入っている。
弥生夫人が用意してくれた品だというのが頭によぎり、逡巡したものの事情を話せばきっと気の良いあの方はわかってくださると思い、リボンを手に取る。
どれが桐子嬢に一番似合うだろうと考え込み、一本のリボンを手に取った。
それは光沢のある紅のリボンだった。矢絣の模様が織り込まれ、さらりとした手触りが心地いい。
櫛を手に桐子のもとに向かい、そっとその黒髪に櫛を通す。艶やかな髪を数回梳り、リボンを髪に結わえた。幅広のリボンが、大きな蝶のようにふんわり揺れる。
「紫子さま・・・・・・紫子お姉さま、わたくし一生大切にしますね」
涙ぐむ桐子の髪を、リボンを乱さないようにゆっくり撫で紫子も笑みを浮かべる。
「桐子さん、今日から姉妹としてよろしくお願いしますね」
ふたりは微笑み合うとその夜、手を繋いで眠りについた。