天使の輪 *矢玉
山縣家の別荘には、書斎があった。書斎といっても中々立派なしつらえで、小さな図書館といっても差し支えない。先代伯爵の集めた蔵書の中には貴重なものも多く、将臣は朝からそこにこもっていた。
こんこん、という控えめなノックに顔を上げ柱時計に眼をやれば、結構な時間が過ぎている。紫子か山縣が呼びに来たのかとドアを開ければ、その向こうにいたのは意外な人だった。
「桐子さん? 紫子さんか征光をお探しですか」
「いえ!あの、東郷さまにお聞きしたいことがありまして」
それに将臣は首を傾げる思いがした。心当たりがまったくない。緊張したように、両手を胸でにぎりしめ、桐子は思い切ったように口を開いた。
「あの、東郷さまは異国の言葉に堪能だと兄からお聞きしました。あの『天使』とは、どのようなものなのでしょうか?」
「ああ、アンジュのことですか」
安寿?と首を傾げる少女に、苦笑しながら首を振る。
「基教における神のお使いのようなものですよ」
「では、稲荷神社のお狐さまのような?」
その例えで脳裏に浮かんだ赤い前掛けをつけた狐は、天使とは程遠い。どう説明したものかと将臣は悩む。
「どちらかといえば、仏に仕える十二神将のほうが、まだ近いと思いますが」
「では、天狗のような?」
どうしてもそちらのほうにいってしまうらしい。まぁ、日本人で背中に羽があるといえば、天狗を思い浮かべるのは至極当然なのだろうが。
「私ではうまく説明できないので、行ってみましょうか」
教会へ。
この別荘街の成り立ちは、日本の湿気と暑さに閉口した異人が避暑のために別荘をたてたことから始まっている。
だから、帝都や他の町よりよっぽど基教の教会が多いのだ。
将臣の母はおそらく基教の信者だったのだろうが、将臣自身は基教についてさほど詳しくない。
使用人たちに尋ねて教えてもらった教会は、中々立派なものだった。天をつくような尖塔に、桐子などはぽかんと口を開けていた、それに己で気付くと手をあてて、赤面する。
その無邪気なしぐさに、将臣は小さく微笑んだ。
中に入れば、ひんやりと涼しい。静謐な雰囲気に息を呑む桐子の横で、将臣はあたりを見渡した。
「Hello」
突然響いた異国の言葉にぎょっとすれば、白いひげで顔のほとんどが覆われた黒衣の異人がいて、桐子は飛び上がるほど驚き、思わず将臣に背に隠れてしまう。
同じ文言を太い異人の声で響いたのを聞いて、更に驚いた。では先ほどの異国の言葉は、この青年が言ったのだ。
二人は異国語でなにやら会話を続けると、異人のほうが桐子のほうを向き、にこやかに微笑んだ。顔中が笑顔になったようなそのあけすけなほど明るい顔に、桐子の緊張が少しだけほぐれる。丁寧に頭を下げれば、微笑むような声が落ちてきた。
「桐子さんが天使についてしりたいと伝えたら、この神父の方が説明してくださるそうですよ」
「しんぷ、とは?」
「基教における僧侶のような存在です。教えを、広める者」
柱が連なる室内が、ひどく珍しい。同じ方向に並んだ木製のベンチはいかにも堅そうだ。ここで説法を聞くのだろうか。
歩を進めていた神父が足を止めたのは、祭壇らしい、突き当りの一郭だった。眼を伏せた男性の木像を中心に、同じようにゆったりとした布をまとった男性達が半円で囲んでいる。
早口の神父の異国語を、将臣が手早く訳していく。
「あの真ん中にいるのが、神の子と呼ばれる基教であがめる人物です。桐子さんがお尋ねになっていた、天使はこちらにいるそうですよ」
祭壇を横切る前になんとなく非礼な気がして一礼する。その様子を神父が微笑ましそうに見ていて、異国の言葉で呟いた。
「“やはり、日本人は礼儀正しい”そう仰ってますよ。桐子さんのことです」
「え?!わたくしですか?!」
思わず大声を出してしまい、あわてて謝罪する。天井が高いため、大きな声を出すと、簡単に響いてしまうのだ。
祭壇の右手に飾られていた絵画の前で、三人は足を止めた。
それは大きな絵だった。一畳はあろうかという大きさに、二人の者が描かれている。
「先程、私はアンジュといいましたがそれは独語です。英語ではエンジェル、と」
お腹の大きな女人の前に、ひざまずく背から鳥のような羽を生やした者。
「これは、神の子を身ごもった聖なる母に、それを告げる絵だそうです。」
瞳を伏せる女性と、その足元で白百合を差し出す天使。天の、御使い。
汚れない、純白の一対の翼。
ぽろりとこぼれた涙に、桐子が一番驚いた。
あわてて西洋手巾でそれを押さえても、涙は次から次へと溢れてくる。将臣がそっと、ベンチにいざなってくれた。
涙が一通りおさまると、桐子はぽつりと言った。
「あのご婦人の髪の色、紫子さまみたいです」
それに将臣は驚いた。振り返ってみた絵画の中の聖母の髪は、どちらかといえば、やや赤みがかっっているものの金に近い。
でも、少女にはそう見えるのだろう。
そっとまた絵画に見入る桐子の様子に、将臣は言った。
「私はこの神父に色々お話を聞いてみようと思います。桐子さんはそれまで、ここにいてください」
気を使って席を外してくれているのがありありとわかったから、桐子は感謝に頭を下げる。
異国の言葉で何やらやりとりしながら奥の扉へ消える二人の姿を見送り、桐子は再び天使と聖母の絵と向かい合う。
瞳を伏せたご婦人は白い頬を見せ、なんだかとまどっているように思える。
それを励ますように見つめる、白い翼の天使。
ぎゅっと、右手で左の肩をつかむ。それは桐子が考え込む時の、くせだった。
自分がこんな綺麗な存在だとは思えない。
でも、こんな綺麗な存在のようだといってくれた、紫子の心が嬉しかった。
ふと眼をやれば、天使と聖母の絵の横から、連なるようにして小ぶりの絵画が並んでいる。惹かれたように一枚ずつ見ていけば、誰かの――――――おそらく、神の子の一生が描かれているのだと徐々にわかってきた。幼子が青年になり、青年が水につかり、水浴びしているような絵。誰かに何やら説いている姿。大半の意味はわからなかったが、すこしずつ歩を進めながら、一連の絵を見ていく。
ある絵で、桐子は立ち止まり、悲鳴を飲み込んだ。
それは男が、先ほどの青年が磔にあっている、絵だった。うつろな眼、わき腹からしたたり落ちる血、嘆く人々。
その手前に誰かが座っていて、桐子は二度驚いた。思わず後ずさり、ベンチに足をぶつければ大きな音が鳴った。それが確実に聞こえただろうに、その人物は振り返ろうともしない。一心にその絵を見つめ、何やら手を動かしている。
驚きに上がった息を整えると、その人物の上着が椅子から滑り落ちてしまっている。背広を拾い上げ、桐子は声をかけた。
「あの、落とされましたよ?」
聞こえているだろうに、返答は無い。気分でも悪いのだろうかと、桐子は眉をひそめる。
「あの、もし」
肩に手をおくと、びくりとふるえ、やっとゆるりと振り返る。
ゆるりと、どこか焦点のあってない瞳が、桐子を捉えた。
***
模写に没頭していた総一郎を現実に引き戻したのは、少女の白い手だった。
折角集中していた際の邪魔立てに一気に不機嫌になった総一郎だったが、ふと瞳をまたたかせた。
薔薇窓から差し込んだ光が、少女の髪に光りの環を創っていた。
そう、まるで天使のような。
奏嘉さまとの明治風リレー小説つづきです!
言う必要もないかもしれませんが、別荘地のモデルは軽井沢です。軽井沢すきだ!
そして今回登場の教会もモデルがありますが、こちらは軽井沢ではありません。当ててみてください(逃)
基教は日本で言うキリスト教、のはずです。調べたら色いろでてきて自信なくなってきた。別にドイツ系のプロテスタントの教会でもよかったんですが、微妙な違いがありそうで不安だったのでアメリカ系のカトリックのイメージです。あくまでイメージなので本当に信者の方、間違ってたらごめんなさい。見のがしてください。・・・ドイツってプロテスタントだよな?(そこから?)