傷痕 *矢玉
紫子は鏡をのぞきこみ、ため息をついた。
前髪を持ち上げひたいをあらわにすれば、洗った擦り傷はしっかりとひたいに残っている。
前髪でかくれる位置なのが、唯一の幸いだ。
「紫子お姉さま?少々よろしいですか?」
びくりと肩を揺らして、あわてて前髪をなでつける。はい、と返せば、失礼しますね。と少女がドアの向こうから現われた。
「紫子さまに、着ていただこうと思って」
頬を染めて広げたのは、ゆかただった。
藍の地に白くあやめの花が染め抜かれている。
「紫子さまに似合うのはどれかと、色々悩んでしまって。でも紫子お姉さまはあやめの模様が一番お似合いになるとおもって」
照れながらそう告げる少女に、紫子はいばし息を止めた。しかし彼女が“あやめ”を知っているはずが無いと思いなおす。
ただの印象の話だろう。
「ありがとうございます。ありがたく、着させてもらいますね」
「はい!あ、帯びはこちらの薄紫をあわせてくださいね。かんざしはこちらを」
手妻のように次々と現われる品に、しばし紫子はあっけにとられた。
「では、兄さまと東郷さまにもお渡ししてきますね」
疾風のようにその場をあとにした少女の背に、ぽつりと紫子は呟いた。
「全員の分を持ってきたのですね・・・・・・」
「ったく、荷物が増えるはずだ」
ため息をつく山縣は白い麻のゆかたに身を包み、黒い帯を締めていた。
「まあ、そういうな」
同じく玄関でたたずむ将臣のゆかたは紺に薄鼠の帯をあわせていた。
「まったく俺たちは、あいつの着せ替え人形じゃないっていうのに」
「そういえば、なぜ私の寸法がわかったのだろう」
将臣はこの国では珍しいほど長身だ。それなのにその身にまとうゆかたは、まるであつらえたように寸法があっている。その疑問にさあなと投げやりに答え、ふいににやりと笑う。
「このぶんだと“紫の上”は俺たち以上にかまわれてるぞ、いいのか?」
「何が」
「許婚どのを、我が妹に奪われる心配はないのかと聞いているんだ」
にやにやとした顔に、一つ嘆息する。女学校の少女同士の“S”とよばれる恋愛は知識としては知っている。ただ
「紫子さんが、それを理解しているとは思えないな」
紫子は、いたって堅い士族の娘だ。華族院女学校の華やかな擬似恋愛の風習などに馴染めるはずがない。ただ、姉として慕われているぐらいにしか考えていないだろう。
「お待たせいたしましたわ!」
弾んだ声で少女達があらわれると、青年たちはほっと安堵した。女人の身支度に時間がかかるのは知っているが、そろそろ待ちくたびれていたのだ。
紫子が若干恥ずかしそうに身にまとっている藍染のゆかたに対し、桐子のゆかたは白に胡蝶が描かれているものだった。朱の帯がかわいらしい。
「よくお似合いですよ、お嬢さまがた」
「まぁ!ありがとうございます。東郷さま」
「たしかに紫子嬢は見事な着こなしだな」
そういってからかう兄のことなど頓着せず、桐子は紫子の手を引いた。
「紫子お姉さま、早く行きましょう。花火までに、夜店を周ってみたいのです」
はしゃぐ少女に手を引かれた紫子の後に将臣と山縣も続いた。
「ここのお祭は、天神さまのお祭なのですって。まずは、参拝してご挨拶しなければ」
からころと下駄を鳴らして進めば、程なくして夜店の群れが眼に入ってきた。エチレンガスの灯りで昼間とはまた違った明るさに、桐子は感性をあげた。ちんとんしゃん、どこからともなく聞こえる楽の音が祭らしい。
自分で先に参拝、などと言いながらも夜店をきょろきょろ物珍しそうに見る姿に、紫子は苦笑する。紫子自身は十四の時まで庶民と差し支えない暮らしをしていたので、こういった夜祭にも行ったことがあるのだが、箱入りの令嬢である桐子はまったく初めてなのだ。眼に映るすべてが目新しくて、さぞ、魅力的にみえるのだろう。
「紫子さま、あれはなんでしょう。何やら甘い匂いがいたしますね」
袂をおさえて桐子がゆびさしたのはしんこ細工の店だった。粉をこねて花や動物などを形づくり、蜜をかけてたべる菓子。
紫子が口を開く前に、将臣が述べた。
「あれはしんこ細工ですよ。おひとつ買いますか?目の前で作ってくれますよ」
「はい!でもまだ参拝が・・・・・・」
「菓子ひとつぐらい遅れたぐらいで、へそをまげるほど天神さまも狭量ではないでしょう」
ふたつ、と店のおやじに注文すれば、紫子は目を丸くした。
「東郷さま?もう一つは」
「もちろん貴女のぶんですよ」
「私は、欲しいとも申し上げていませんのに」
困惑ぎみの少女に、にこりと将臣は微笑んだ。
「いいではないですか、お祭なのですから」
「意味が、わかりかねますわ」
夢中になって形を変えるしんこ細工に眼を輝かせる少女を見れば、まあよいかという気持ちにもなってくる。
手渡されたのは、赤い眼のうさぎと、細い眼をした狐だった。それぞれ桐子と紫子に手渡され、桐子は歓声をあげた。
そのまま参道を歩む途中でも食べようとしないのがいかにも令嬢らしい。道端で食べ物をたべるなど、考え付きもしないのだろう。荷物になってしまったかな、と将臣は頬をかいた。
無事に参拝を終え、さきほどの店のおやじがこっそりと教えてくれた穴場だという境内の裏へとまわる。少し神社の杜を進めば、急に視界が開けた。ちょうど此処から土手になっていて、木々がとぎれているのだ。
途中でもとめた風車に息をふきかけ、ころころと笑い桐子が言った
「楽しいですわね!紫子さま。紫子お姉さまと来られて、本当にわたくし嬉しいです」
「俺らはおまけか」
ぼそりと呟く山縣の手にはしんこ細工。風車を求めた際に、壊してしまうと眉を下げた桐子の手からするりと抜き取ったものだった。なんやかんやいって妹思いの兄だとおもうのだが、本人に言えば悪態をつかれること間違いなしなので、将臣は黙っていた。
紫子も桐子ほどではないが、嬉しげなので将臣も満足だ。
どぉん、と腹に響く音が響き渡り、眼を空へとやれば大きな円を作った炎の玉がみえた。
花火がはじまったのだ。
しばらく花火を眺めていると、少し風が出てきた。そのおかげで煙が流され花火はよく見えるのだが、少し心配になる。もしや、雨になるのではないだろうか。
でも、どこからとも無く聞こえたたまやー、という掛け声を口真似して、せいいいっぱいの声で同じように声を上げる桐子や、目を細めて花火に見入る紫子の姿を見ていると、切り上げて帰ろうとはとても言えなかった。
だが、将臣の悪い予感は見事に的中した。
ぽつりぽつりと雫を落としたと思ったら、あっという間に激しいどしゃぶりになり、桐子は悲鳴をあげた。
「やっぱり降ってきたか。神社の軒先で雨宿りするか?」
「いや、そこもいっぱいだろう。それに此処まで濡れちまったら大差ない。別荘まで戻るぞ」
将臣は紫子の、山縣は妹の手を引くと、足早に別荘へと向かった。
少女たち二人がかったしんこ細工は、いつのまにか落としたのか無くなってしまっていた。
駆けるようにして戻ったものの、頭のてっぺんからつま先まで濡鼠と化した主人たちのために、使用人たちは気を利かせてすでに風呂を沸かしていてくれた。それに礼を言い、四人は顔を見合わせた。
誰から順に入るのか、玄関先で西洋手ぬぐい(タオル)に包まりながら考え込む。
「ここは、ご婦人方からどうぞ。いいよな、征光」
「まあそうだな、妥当だろう」
「そんな!男の方より先にお湯をもらうなど」
あくまで生真面目な少女を笑顔で将臣は諭す。
「我々は鍛えていますから。それよりお二人に風邪でもひかせたら、帝国軍人の名折れです。お二人からどうぞ」
あくまで笑顔で進める将臣に押し切られる形で、順番が決定した。
「では、紫子お姉さまからどうぞ」
客間に向かいながらそう言われ、紫子は飴色の眼を丸くした。
「そんな、此処の主人は桐子さんではありませんか」
「お客さまのほうが優先です。それに年功序列ですわ」
でも、と続ける紫子に笑顔でぐいぐいと背を押し、桐子は風呂場まで連れて行ってしまう。
「さぁさぁ、ここで押し問答していては、兄さま達が風邪をひいてしまわれますから、ね」
脱衣所に追いやられ、戸まで締められてしまっては、もう紫子はどうすることも出来なかった。出来るだけ手早く入ってしまおうと濡れた帯に手をかけたとき、ふと紫子は思いつき、木戸から湯船を覗き込んだ。湯船は、かなり広い。少女二人なら、一緒には入れるのではないか。
木戸越しに桐子に呼びかけるものの、すでに立ち去ってしまったのか返事は無い。
紫子は木戸を開け、桐子の部屋へと向かった。
桐子の部屋は、客間からそう離れていない場所にあったため、それほど間をおくことなく辿りつけた。
「桐子さん、良ければ一緒に――――――」
入りませんか、そう告げながら開いたドア越しに、悲鳴が響き渡った。
「見ないで!!!」
びくりと手を離し、ドアを閉める。慌てるあまりに、ノックを忘れていたことを今更ながらに思い出す。それに、ちらりと見えた姿から、桐子が着替えをしているのがわかったのだ。
「ごめんなさい、私そんなつもりじゃなくて。あの、本当にごめんなさい」
姉と慕ってくれる少女の鋭い声に驚いたのか、思わず語尾が震えてしまう。それに対して、違うのです、とまた大きな声が響いた。
「違うのです!お姉さま!ごめんなさい・・・・・・違うのです・・・・・・」
震える声に異常を感じ、立ち去りかけていた紫子は立ち止まった。そこからかすかに、お入りください、と小さな声が耳に届く。
ゆっくりとひらいた扉の向こうには泣きそうな顔をした少女がいた。帯を解いて、見ごろを片手であわせている。
「あの、紫子さまのせいではないのです。あの、あの・・・・・・」
ふと、決心したようにくるりと背を向け、肩からゆかたを落とす。現われた少女の背に、紫子は息をのんだ。
桐子の背中は、真っ赤にただれた火傷の痕で覆われていた。
「わたくし、お姉様にきらわれたくなくて・・・・・・・こんな傷があるなんて、知られたく、なくて」
醜いでしょう?と真っ赤な眼をして桐子は言った。




