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『明治浪漫譚(仮)』→『花あやめ鬼譚』に移行します  作者: 矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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ほしいものと、 *奏嘉

あの舞踏会から数週間経とうとも、学習院と屋敷の往復を繰り返すだけ日々の中、総一郎は相変わらず暇を持て余していた。



少女が手元から消えただけで、突然辺りは面白みの無いものが溢れるだけの世界へと変わる。

色彩が無くなってしまったような空虚さが青年の中を占めるのに、彼はそれを倦怠感や苛立ちとしてしか感じ取る事が出来なかった。



何もかもが馬鹿馬鹿しく、虚しい。


両親とは違い物の少ない自室に、ぽつりと置かれたままの赤いキャンバス。


青年はキャンバスにナイフを突き立て裂いていく。




―――――――少しだけ、胸がすくような気がした。




ある日学習院から戻ると、両親の姿が無く付き人の青年に何となしに問えば、昼頃紫子が女学院から抜け出したために連れ戻しに行ったのだと言う。



僅かにその形の良い唇が歪むのを、付き人の青年は見逃さなかった。



内心紫子を哀れに想いながらも、主である総一郎の性格が変わる事は無い為にと諦めたように溜め息を吐く自分に、付き人の青年は違和感を覚えた。

この青年を突き離せないのも、もしかしたらあの物書きの青年と同じ感情なのかもしれない。



何処か、同情しているのかもしれない。

だからこそ、全てを拒絶できないまま何処かで、この青年に共感できるのだろうか。



夕方になり不意に馬車の音が聞こえ両親が戻って来たことを察するも、特に気にも留めず本へと視線を戻せば、追うようにガシャンと何かが割れるような音が玄関から響いた。



カットが美しいクリスタルガラスの花瓶をわざわざ西洋から取り寄せたと、昔父が自慢気に話していたことを思い出せば、どうやらただ事ではないようだと青年はゆっくりと座椅子から立ち上がり玄関へと向かう。




玄関からは使用人に口汚く当たり散らす父親の声が耳障りに響いている。



青年が眉を潜めながらもどうしたのかと玄関に姿を現せば、連れ帰ってくる筈であったあの娘の姿はなく、怒り狂った父親の横には相反して顔を青くし黙りこんだ母親が佇んでいた。


足元には無惨にも硝子の破片と化した花瓶が散らばっている。



あまりの滑稽さに青年は笑いそうにもなるも、数週間前からあの青年将校に取り上げられたままの少女の姿がないことに僅かに苛立ちを覚えた。



「おかえりなさい」



わざとらしく落ち着いた様子で丁寧に挨拶して見せれば、父親は睨むように青年を見上げたあと語気も荒々しいままに「なんだあの男は」と怒鳴った。




あの少女の母親がいるという病院へ行ったはずの父親の口から、何故か男への憎悪の言葉が吐き出されると、青年は訝しげに誰のことを指しているのかと首を傾げて見せる。



それに答えるように子爵が噛みつかんばかりに「東郷の青二才だ」と口を開けば、青年は驚いたように僅かに目を見開いた。



「最初から穢らわしい混血と知っていれば、あの娘を無駄にせずに済んだと言うのに…!」


青年がどういうことかと問うより先に、子爵は「あの娘は桐生として嫁いだ」と憎々しげに呟けば苛立ちを露に自室へと早足に去る。



(桐生とは、あの女の母親の姓だったか)



そんな事を考えながらも、その前に聞こえた言葉にじくじくと、青年の思考は歪んだ愉悦に染まっていった。



如何にも品行方正な、何もかもを手に入れているようなあの青年将校が、もっと根底から、蔑まれるべき人間であること。





「あの男が、混血…」



ぼんやりとした思考のまま呟けば、噛み砕いたあと吹き出すように青年は笑い出した。

冷え切ったその場の空気にそぐわない青年の笑い声に、辺りの使用人や彼の母親は僅かに身構え怯えるような素振りを見せる。



―――――嗚呼、成る程。



(『穢らわしい混血』同士の傷の舐め合い、ね…)



父親の言葉を借りつつそう短絡的に考え付けば、青年は彼の青年将校の紫子への異常な執着にも納得だと言った様子で目を細める。


しかし、青年にとって唯一無二の玩具を取られるのは、些か赦し難いことだった。



自身でも驚く程に、ぽっかりと何かが欠如したような空虚な日常。

それがこれから先続くのだろうと理解すれば、青年は心の底からふつふつと沸き上がるものを感じた。


それに反するように、しんと思考は冷えきっていく。

ポタポタと床に何かが落ちる音がし視線を移せば、自身の拳からは掌に爪が食い込み赤い鮮血が滴っていた。



「………赤…」



掌に広がった紅に青年は呟く。

その瞳は虚ろながらも、魅入るように滲む鮮血を見詰めていた。



純粋であったが故に、歪み切ってしまった感情。

純粋過ぎるが故に、押さえきれない興味や衝動。




―――――――何が、邪魔か。



今までに、考えたことすらなかった。

自分で立っている感覚すらない甘ったるい環境の中で、誇りや価値観をただただ踏みにじられ捨てられていくだけの自分の世界。



何もかもが、青年の望んだ形で手に入ることは無く。

本当に望んだものは指の間からさらさらと、こぼれ落ちる砂のように逃げていく。

手の内にあったものさえ、いつだって抵抗する暇すらなく剥ぎ取られていった。


幼い日、握り潰してしまった美しい蝶すら、何処か甘美にぱらぱらと掌から零れ風に消えた。


握りつぶしてしまった事よりも、風に消えるその姿が無残で、どこか儚く美しくて。

消えてしまうそれに、幼き日の青年は愛おしさすら感じた。




――――――不意に、胸元にしまったままのナイフの感触を感じる。




欲しいものは何か。


邪魔なものは何か。


これ以上、虚しくなるくらいなら。


――――――――このまま独りで生きることすら、馬鹿馬鹿しいのなら。



青年の傍らに、彼の付き人の青年の姿は無かった。


「紫子お姉さま…!」



木造の廊下をぱたぱたと走る小さな足音と呼び掛けられた声に、少女はふと振り返る。


いつかピアノを弾いていた時に話しかけられて以来、事あるごとに自身を構う一つ年下のお嬢様の姿に、紫子は驚いた様子で歩み寄る。

淡い茶色がかった黒髪に、澄んだ亜麻色の瞳。名前を、山縣桐子さんといった。お家は武家の出の伯爵家だった筈だ。



「桐子さん、どうされたの」



ただ事ではないような桐子の表情に、紫子は微かに狼狽しながら首を傾げる。

ゆっくりと呼吸を整えながらも、急ぎであると言うかのように少女は息も絶え絶えのまま唇を開き紫子の腕を掴んだ。



「た、いへんです、いま、兄が来まして…」



兄、という単語に首を傾げるも、思い立ったように少女が「ああ」と頷く。



(確か、東郷様の同僚の方だったような)



そんな事をぼんやりと考え不安になりながらも、息を切らし喘ぐような声音で言葉を吐きだす桐子を落ちつかせるように、紫子は優しく背を撫でた。




ぐっと唇を噛み息を飲んだ後、桐子は再び口を開く。




「と、東郷伯爵さまが、さ…っ、刺されたって……っ、」





泣き出しそうな程に訴える桐子から発せられた言葉に、紫子の思考は一気に真っ白になる。

僅かに唇が震えたかと思うと、ひゅっと虚しく喉が鳴った。




「お、表沙汰にはしないって、東郷様、兄にしか伝えて無くて、でもっ…」



紫子の姿に躊躇しながらも、桐子は涙声になりながら必死に訴える。

呆然としたままの紫子の耳に、それ以降の桐子の言葉が入ってくる筈も無く。






―――――恐怖感だけが、少女の心を支配していた。

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